3-3 実妹
クリスはジュリアンの話を終えた。誰も口を開かなかったがシロタが静寂を破った。
「クリス様、ジュリアン殿のことを手紙で伝えてくれた方は分かったのでしょうか?」
「いいや、いまだに不明だ。あの無記名の手紙を誰が投げ込んだのか、時間と金をかけて調べたが分からなかったんだ。だがな、分かったところでお礼を言うわけにはいくまい。俺は胸の中で一度だけ礼を述べたよ」
「そうでしたか」
「お前たちにはお前たちの話があるだろうが、もう少し聞いてくれ。次は俺の妹のクロエの話だ」
そしてクリスがまた静かに話し始めた。それはジュリアンの悲劇があったときとほぼ時を同じくしていた。ジュリアンが無言の帰宅を果たす直前まで、何も知らぬ妹のクロエは身を焦がすような恋の渦中にいた。
クロエは一回生となって間もない六月頃、兄のクリスにだけ、好きな人ができた、と打ち明けていたものの、身分差を恐れて両親には秘密にしていたのだ。
七月に入ると、彼女が憧れていた三回生の先輩から思いがけない告白が届いた。あまりの歓喜と衝撃に頭が真っ白となり、クロエはその場で卒倒してしまったほどだ。慌てた貴族の少年は、彼女を抱きかかえて保健室のベッドへと運び込んだ。ほどなくして目を覚ましたクロエの視界に、心配そうに見つめる彼の顔が映る。
「ローブ子爵様」
「そんな堅苦しい呼び方はやめてよ。マクドネル、と名前で呼んでほしい」
「マクドネル様。では、私のことはクロエとお呼びください。私も、ずっと前からマクドネル様をお慕いしておりました」
この日を境に、ローブ子爵家三男マクドネルは
「この花のようなクロエを一生愛する」
と甘い誓いを立ててみせた。交際からわずか二週間後の七月中旬、二人は結ばれた。互いに
「君が初めてだ」
「あなたが初めてです」
と囁き合ったが、マクドネルの言葉は虚飾であった。マクドネルはすでに女性経験があったのだ。だが純真なクロエに裏の顔が見抜けるはずもなく、初恋が実った歓喜に酔い痴れていた。
そしてマクドネルもまた、クロエを自分だけの所有物にしたいという異常な執着を深めていった。それは何よりクロエの肉体に惚れ込んでしまったためだった。
「将来、私と一緒になってほしい。貴族と平民だから表舞台での結婚は叶わないが、私の妾になってくれれば嬉しい。一生、大切にするから」
正妻になれぬ事実はショックであったが、埋められぬ身分の壁を理解していたクロエは、涙を浮かべてその提案を快諾したのだった。そして二人は毎日のように求めあった。
二人が身体を重ねて一ヶ月が過ぎた八月初旬、ローブ子爵家を突如として悲劇が襲った。長男と次男が立て続けに謎の死を遂げたのである。表向きは流行病の急死と処理されたが、実態は三男マクドネルによる毒殺であった。マクドネルは、長男の美しき許婚を目にした瞬間、猛烈な嫉妬に狂ったのだ。
「あの女と結ばれるべきは、この私だ!」
王国貴族の間では、跡取りが婚姻前に死亡した場合、その許婚を次の継承者へ引き継ぐ慣例があった。つまり長男を死に追いやれば、許婚は次男へ移る。ならば次男もろとも消し去ればいい。マクドネルの狂気の計算のもと、二人の兄は毒殺された。
そしてこの事件を成立させたのは、マクドネル一人の異常性だけではなかった。二人の毒殺が政府貴族庁に知られればお家お取り潰しとなるだろう。家の存続を優先した父親が、執事、護衛、検死官、使用人たちへ沈黙を命じ、毒殺の事実を組織的に握り潰した。そしてマクドネルを当主へ据えると、奥方を大切にしろ、とだけ言い残し、逃げるように田舎の別邸へ隠居した。
許婚がローブ家へ入ると、悲しみに沈む彼女の意思など顧みず、強引に妻として迎え入れ、自らのものとした。
次に、クロエの処遇を思案した。当主となった以上、平民の女を妾にするなど世間体が許さん。奴隷に落として手元に置くか。クロエの身体を惜しむマクドネルはクロエを手放すつもりは毛頭なかった。
八月中旬、マクドネルは何も知らぬクロエを郊外の邸宅へ呼び出し、睡眠薬入りの茶を飲ませた。倒れ伏したクロエの親指を掴み、用意していた奴隷契約書へ鮮明な拇印を捺させた。そしてそのまま男奴隷たちにクロエを担がせ、屋敷の地下深くへと放り込み、入れ墨師に仕事をさせたのである。王国では、契約書に本人の拇印さえ残されていれば、拇印を捺した時点での自由意思や意識状態までは確認されなかった。その法の欠陥を、マクドネルは悪用したのだ。
クロエからの音信が絶え、レイバー家に不穏な空気が満ちる中、ジュリアンの悲劇が発覚した。二人が消えた地獄のような日々の最中、泥だらけの足を引きずり、全身傷だらけのクロエが息も絶え絶えに帰宅した。
「どうしたんだ、クロエっ!一体何があった!?」
驚愕したクリスが抱き起こすと、クロエは虚ろな目で兄を見つめ、血の混じった息を吐き出した。
「クリス兄さん、もう、駄目。助けて」
マクドネルが本邸へ戻ったある夜、クロエは、食事を運んできた老女中が背を向けた一瞬の隙を突き、閉められる前の扉から裸足で逃げ出したのだった。辛うじて命に別状はないと確認し、クリスは傷だらけの妹をベッドへ休ませた。
ボロボロの衣服を脱がせ、手当てを試みたクリスであったが、その肌に刻まれたあまりの惨状に全身の震えが止まらなくなった。鞭の痕、噛み傷、そして奴隷紋の入れ墨。
マクドネルが彼女をどれほど残酷に扱い、その尊厳を踏みにじっていたかが、痛ましい傷となって刻み込まれていたのだ。翌朝、レイバー家の門扉が激しく叩かれた。そこに立っていたのは、ローブ家の紋章をつけた男であった。
男は一通の手紙をクリスへ投げつけると、去っていった。手紙の宛名はクロエであった。ベッドの上のクロエは、その封筒を見ただけで歯の根が合わぬほどガタガタと震え出した。クリスは妹の手から手紙をひったくり、その中身へ目を走らせた。
「クロエ。自ら大人しく戻るなら許すが、拒むのなら、お前の家族は一人残らず神の元へ召されるだろう」
恐怖に突き動かされ、自らローブ家へ戻ろうとするクロエの肩を、クリスは強く掴んで押し留めた。
「戻ってどうする、クロエ!戻れば今度こそ玩具にされて殺されるぞ!」
「離して、クリス兄さん!私が戻らなければお父さんも、お母さんも、クリス兄さんもジュリアン兄さんも全員、あの貴族たちに殺されるわ!家ごと消されてしまうのよ!」
「そんなことは、絶対にさせないっ!」
クリスは強く言い放ったものの、当時の頭脳では子爵家という巨大な暴力から家族を守る術など何も思い浮かばなかった。そして、そんなクロエにジュリアンの悲劇を伝える勇気もなかった。そして翌朝。クリスが目を覚ました時、クロエのベッドは冷え切っており、枕元には、「ごめんなさい」と小さな文字で記された書き置きが残っていた。
後に調べて分かったことだが、クロエは家を出る前、製鉄所の薬品棚から小瓶を一本だけ持ち出していた。二度と逃げられなくなった時のためだった。クロエは家族を守るため、自ら再び地獄へと戻っていったのだ。妹の身を案じ、生き地獄のような日々を送る中、衰弱したクリスは打開策を求めて地域の教会へ足を運んだ。
「神父様、どうか憐れな妹をお助けください。私に知恵をお授けください」
クリスは跪き、祈りながら眼の前の壁に掲げられている宗教画を目にした。そこには聖導教会の開祖、ヒュービックが祈る姿と空から数本の光芒が挿し込む様子が描かれていた。
「どうされた、若者よ」
涙を浮かべるクリスに、太った神父は祈りを唱えながら寄付帳を差し出した。すがりつく思いのクリスは、素直に寄付金を差し出したのである。だが、教会から何の連絡もないまま数日が過ぎ、月が替わった九月初旬、クロエの訃報が届けられた。
クロエはマクドネルに果物ナイフを向けて刺し違えようとしたが、護衛に取り押さえられた。再び反撃されることを恐れたマクドネルは、奴隷たちにクロエを押さえつけさせると、彼女にさらに非道な仕打ちを加えた。
「お前たち、こいつを好きにしていいぞ。ただし俺に忠誠を誓え」
こうして尊厳を踏みにじられ続けたクロエは、その夜、密かに持ち込んでいた毒を飲み、自ら命を絶った。クロエの死を知った母親は、完全に精神を病んでしまった。その夜、母親は一人で馬車を走らせて山へ向かい、滝壺へ身を投げた。最愛の子供二人と妻を同時に失い、抜け殻となった父親のもとへ、ローブ家の執事が訪れた。
「これ以上、我がローブ子爵家に関わらないでいただきたい。不穏な動きを見せれば、あなたがた一家に、明日の朝日は昇らないでしょう。あと、教会への寄付など無意味ですよ。我が家があなた方より高額な寄付をすれば、神はこちらを向きますからね」
冷酷な脅迫に腰を抜かした父親は、震えながら全面的に承諾してしまった。ジュリアンとクロエの死、妻の自殺、そして貴族からの脅迫。相次ぐ喪失によって、父の精神はすでに限界を超えていた。そこへさらに冷酷な脅迫が浴びせられ、僅かばかりの手切れ金が渡された。さらに置いていかれたのは、一人の中年の奴隷女性だった。執事は去り際に言った。
「その奴隷女はここに置いていきます。お好きになさって構いませんが殺したら分かってますね。その奴隷女は子爵家の所有物ですから、殺すことだけは許しません。しかし、殺さなければ一切不問です」
執事が去ると、父は奴隷女性を寝室へ連れ込んだ。閉ざされた扉の向こうから響く怯えた声を聞きながら、クリスは父が貴族に向けるべき怒りを、何の罪もない弱者へぶつけていることを悟った。
扉の前に立ち尽くしていた十九歳のクリスは、脳髄に烈火のような気付きを得ていた。平民の財力など無力だ。だが、我が父親のあの情けなさは一体何だ?弱者を蹂躙して自尊心を保つその姿は惨めであり、軽蔑以外の眼差しでは見れなかった。
救いを求める者から寄付を受け取りながら、何一つ救わなかった教会への絶望と憤怒。執事の言葉を聞いた今となっては、教会がクリスの告白を子爵家へ流し、より高額な寄付を引き出したとしか考えられなかった。
そしてこの瞬間、クリスは父親を完全に見切り、貴族と教会に復讐すべき、と定めた。
平民という無力な立場も、レイバーという名も、すべて捨て去ってしまえばいい。胸の中で、マクドネル・ローブ、ジュリアンを殺めたメラニア・ブライトン。ふたつの貴族家と教会を「知略の檻」で一網打尽に嵌め殺す、復讐の設計図が立ち上がり始めていた。




