3-2 実弟
東方北部国境警備隊の宿舎。薄暗い一室で、クリス、シロタ、ロランの三人が膝を突き合わせていた。そして影にはタチバナが控えていた。クリスは三つの葡萄酒用の洋杯を用意し、静かに白葡萄酒を注いだ。そして重苦しい沈黙の中、クリスは遠い目をして静かに語り始めた。
「悲劇が起きたのは今から九年前だ。だが、その話をするには、俺が十七歳だった頃から始めなければならない。貴族の家名ではなくクリス・レイバーと名乗っていた頃のことだ」
室内では仄暗く油精の光が揺らぎ、三人の前に置かれた洋杯は光を反射し輝いた。冷え込む夜だった。クリスは一度だけ窓を開け、外に人影がないことを確かめると、すぐに閉ざした。ここから先は、他人に聞かせられる話ではなかった。クリスは三人兄妹の長男であり、ひとつ下には弟のジュリアン、そしてクリスのふたつ下に妹クロエがいた。兄妹の仲の良さは近所でも評判で、互いを深く思いやりながら平穏な日々を送っていたのである。
「当時、俺は中等学校貴族部の高等部に通っていた。前までは貴族子弟専用の学校だったが、新任の学園長の方針でな。学業、実家の財政、容姿に優れた平民を少数だけ入学させる一般開放一期生として、俺は狭き門をくぐり抜けたんだ」
「入学には多額の寄付金を要求されたでしょうね。当時のレイバー家に、それだけの財力があったということですか?」
シロタが眼鏡の奥の瞳を光らせて問うと、クリスは小さく首を頷かせた。
「ああ。我がレイバー家は祖父の代から、王国では珍しい製鉄加工業に目をつけ、血の滲むような努力で莫大な富を築いていたからな。平民ゆえ肥沃な農地を借りられず、見向きもされない不毛な山岳地帯を安く借り受け、そこで良質な炭の大量生産と溶鉱炉の建設に成功したんだ」
新興の財力に目をつけた学校側から打診を受けた時、父親は思ったそうだ。
「我が子に最高の学歴をつけてやりたい」
だが、当のクリスは冷めていた。特権階級の巣窟に飛び込めば陰湿な嫌がらせと嫉妬が待っていることなど、目に見えていたからだ。
「だがな、俺にはあの地獄へ進む明確な理由があった。いずれ俺より遥かに優秀なジュリアンとクロエがこの学校に入りたい、と言ったからな。俺は兄として、先輩として、貴族どもの毒牙から二人を守る、と決めたんだ」
初等部でのジュリアンの成績は学年トップ、クロエも学年三位という類まれなる兄妹であった。本来のクリスは試験の点数に価値を見出さず凡庸な点数に甘んじていたが、ジュリアンが
「僕も高いレベルの学校で学びたい」
と目を輝かせた瞬間、クリスの中で何かが変わったのだ。その後の試験では常に最高得点を叩き出し、力ずくで入学資格をもぎ取ってみせたのである。幼い頃からクリスは、表に見える言葉より、その裏で金と欲望がどう動いているかを考える子供だった。特に金や異性など、人の欲望が絡む事柄では、表に見えるものなどごくわずかであり、裏に隠されたものほど本質に近い、クリスは幼くしてそう考えていた。
ある日、幼いクリスは父がぼやく言葉を聞いて不思議に思った。クリスの父は製鉄業で大きな収益を上げていたが、その分、莫大な税金を納めていた。
「あのお貴族様は私が納めた税金で生活しているんだよな」
それは完全に正しい事実ではなかったが、平民のほとんどはそのように思っていた。クリスの父は仕事において貴族から度々嫌な思いをさせられているらしく、家ではよく貴族に対する不平を漏らしていたのだ。そんなある日、クリスは王都の選挙に立候補中の平民出身候補者に聞いてみた。
「ボクの父上のような平民が払った税金は貴族が生活で使っているの?」
「ボク、そんな事を言ってはいけないよ。みんなが納めた税金はきちんと使い道を議員が決めているんだよ。だからそんなことはないんだよ」
そうなのか。単純に貴族がすべて税金で暮らしている、というわけではないのかもしれない。あと、税金の使い道は王様が決めるのではなくて議員が決めるのか。ではその税金をどう使うか、ボクも議員になれば決められるじゃないか。幼きクリスはいつの日にか議員になってみたい、国を動かせるような大人になってみたい、と思うようになっていた。
だが、弟のジュリアンは真逆であった。純粋に人を信じ、世界の美しさと公正さを疑わない太陽のような青年だった。そして妹のクロエは、長兄クリスの心にある、大きく危うい志、を敏感に感じ取り、兄妹の調整役として賢く成長していった。
クリスが十七歳で中等学校貴族部の高等部に入学してからは、予想通り貴族子弟からの執拗な嫌がらせが始まった。だが、クリスは嘲笑など完全に無視し、物理的な実害を出してきた者に対しては裏から容赦のない報復を叩き込んで二度と牙を向けられぬよう恐怖を刻みつけた。貴族たちも次第にクリスを不気味な特異分子として遠巻きに見るようになっていった。そしてクリスが十八歳となり二回生に進級した四月、予想通り弟のジュリアンが入学してきた。太陽のような人懐っこさゆえか、ジュリアンは貴族たちからの嫌がらせを受けることもなく、順調な学園生活を送っているように見えた。
「事件の歯車が回り始めたのは、俺が三回生で十九歳となり、ジュリアンが二回生、そして妹のクロエが誇らしげに入学してきた年の七月頃だ」
ジュリアンから恥ずかしそうに、僕、好きな人ができたんだ、と打ち明けられていた。相手は貴族部の卒業生で、雅な編み物を生業とする大人の女性だという。
「身分差や年齢の壁に不吉な胸騒ぎを覚えた俺は、実家に帰ってきたジュリアンを自室に呼んで釘を刺したんだ」
「ジュリアン、相手の女性は貴族なんだろう?身分の壁はこの国では絶対に超えられない不条理だ。その恋は今すぐ諦めろ。深入りすれば取り返しのつかないことになる!」
「そんな大げさな、心配いらないよ兄さん。身分差なんて僕たちの前には関係ないさ。彼女はそんな冷たい人じゃないよ」
ジュリアンは必死の警告に耳を貸さず、優しく微笑んで自室へ戻っていった。それが、最愛の弟と交わした最後の会話になるとは思いもしなかった。それからジュリアンは、彼女の家で仕事の手伝いをする、と言い残し、一ヶ月間自宅へ戻らなくなった。そして八月中旬、戻ってきたジュリアンは小さな骨壺の中身と化していたのである。
「役人の説明は、急病による突然死という形式的なものだった。通常なら火葬前に自宅へ戻される遺体が、骨にされてから返されたんだ。絶対におかしいと直感した」
数日後、深い夜闇に紛れて一通の無記名の手紙がレイバー家の庭先へ投げ込まれた。不審に思ったクリスが自室で便箋を開いた瞬間、その顔からあらゆる表情が消え去った。そこに記されていたのは、吐き気を催すほど凄惨な事実であった。手紙には屋敷内で起きた事実が克明に記されており、屋敷内部にいた者でなければ知り得ない日時、薬品、部屋の位置まで記されていた。
その年の七月中旬。ジュリアンは想いを寄せる貴族の女性、ニア嬢から、秘密の邸宅へ呼び出されていた。ニアにとってジュリアンはただの退屈しのぎの玩具に過ぎなかったが、平民の分際でレイバー家が莫大な資産を蓄えていることを知り、悪辣な企みを抱いたのだ。
「私と本気でお付き合いしたければ、それ相応の誠意をお願いいたしますわ。できれば一日中あなたの腕の中でゆっくり過ごしたいけれど、先立つものが欲しいですわ」
盲目となっていたジュリアンは、実家の父親に頭を下げ、将来の事業資金から前借りとして大金を受け取ると、ニアへ差し出した。ずっしりと重い金銭を受け取ったニアは軽い驚きと同時に、保身と残虐な遊びへの欲望を膨らませた。
大金を巻き上げたことだけではない。自分が平民の青年を秘密の邸宅へ招き入れ、取り巻きたちと退廃的な遊興に耽っていた事実が厳格な父へ漏れれば、二度と自由は許されないだろう。ニアにとって、平民や奴隷は言葉を話すだけの玩具だった。壊れれば捨て、また別のものを用意すればよい。
つまり、平民や奴隷は遊びで奪って良い生命、であったのだ。それゆえ罪悪感はなく、逆に、私の遊び相手となって死ぬのだから感謝しなさい、くらいにしか思っていなかった。
その点、ニアの父は厳格な貴族であり、幼少期から貴族令嬢としての作法と規律を徹底して叩き込まれてきた。厳格な教育への反発は、自由への健全な渇望ではなく、弱者を弄ぶ特権意識へと変質した。
成長した彼女は、父の目を盗んで退廃的な遊興へ耽るようになった。ニアは取り巻きの貴族どもを集め、口封じと狂乱の宴を兼ねた残虐な計画を練り上げた。再びやってきたジュリアンを、ニアは帳の下りた寝室へ誘い込んだ。豪奢な寝台に横たわり、甘い声で囁く。
「あなた、こういうのは初めてかしら?ふふ、優しく教えてあげるわ。服をすべて脱いで横になりなさい」
ジュリアンは言われるがまま寝台へ横たわった。憧れの女性と二人きりになれた喜びで、彼は周囲への警戒をすっかり忘れていた。そしてニアがジュリアンに覆いかぶさり、唇を重ねてきた。その瞬間、カーテンの影に隠れていた取り巻きの男たちが一斉に飛び出し、ジュリアンの両手両足を寝台の支柱へ固く拘束したのだ。
「えっ・・・!?あ、あの、ニア嬢、これは一体・・・!?」
突然のことに混乱を起こすジュリアンであったが、ニアの甘い言葉と怪しい芳香によって次第に意識が朦朧となり、その隙に左腕へ注射針が打ち込まれた。
「あ、う・・・」
これは何かの誤解だ。彼女が自分を傷つけるはずがない。そう信じようとしたまま、ジュリアンの意識は闇へ沈んだ。次に目を覚ました時、ジュリアンは薬の影響で正常な判断力を失っていた。さらに、同じく抵抗できない立場にある奴隷女性とともに、本人たちの意思を無視した非道な行為を強いられた。
その間、ジュリアンに与えられたのは僅かな水だけであり、度重なる注射によって、身体は見る間に衰弱していった。そして七日目の朝、頬は落ち窪み、誰とも判別できぬほど衰弱していたジュリアンの左腕に最後の注射が打たれ、心臓が完全に停止した。青年は絶命したのである。
だが、ジュリアンが絶命したその時、ニアはブライトン家での所用のため、屋敷にはいなかった。
この事実をクリスは知らなかった。無記名の手紙にも、ニアが不在だったことは一切記されていなかったのである。
ジュリアンの死後、ニアの取り巻きどもは下級貴族の執事に命じて遺体を火葬させ、骨壺に入れてレイバー家へ返させたのであった。
手紙を読み終えたクリスは便箋を重要証拠として確保し、念のために内容を書き写した物を作って別々の場所へ保管した。涙は出なかった。胸に残ったのは、冷え切った怒りだけだった。
クリスは静かに誓った。相手を見つけ出す。そして復讐するのだ。クリスはまず、遺体を火葬するために必要な火葬許可証、に着目した。そこで役所の火葬場に勤める中等学校初等部時代の平民の先輩を訪問した。
「先輩、どうか力を貸してください」
高額な謝礼と引き換えに書類を調べさせると、名門ブライトン伯爵家の分家にあたる準男爵家の使用人名義で申請が出されていたことが発覚したのだ。次にクリスが接触したのは、遺体の監察を行った監察医であった。平民出身の医師に対し、重い金貨の袋を差し出して問い詰めた。
「ここ最近、死因に不自然な点のある若い男性の遺体はありませんでしたか?」
「一人いた。病死として処理された十八歳前後の青年だ。だが、遺体の状態は通常の病死とは思えなかった」
「その病死した青年ですが、身体になにかの特徴はありませんでしたか」
「あったな。左腕に古い火傷の痕があり、極度の飢餓状態であった」
左腕の火傷痕。それは幼い頃、家の製鉄所でクリスの不注意により負わせてしまったジュリアンの傷跡そのものであった。監察医は目の前の青年の冷たい瞳に遺族の執念を感じ取り、日頃の貴族への嫌悪も相まって静かに語りかけた
「私が検死のため呼ばれた場所はブライトン伯爵家に連なる準男爵家の物置小屋だった。そして遺体の脇、寝台と壁との間の狭い隙間にこれが落ちていた。持っていきなさい」
医師から渡されたのは、血に塗れた手編みの小さな鞄であった。鞄の外側は血に汚れていたが、内側の書類は折り畳まれ、かろうじて無傷で残っていた。中には婦人科の妊娠検査結果が入っており、そこに名前は無かったが検査日、年齢、病院名と医師名などがはっきりと記録されていた。
これは後日に判明したことだが、その小さな鞄はジュリアンに対するあまりにひどい状況を見ていられなかった一人のニア婦人の取り巻きの青年がこっそりとその小さな鞄を確保し、寝台と壁の間にねじ込んだものだった。もちろん、その青年は鞄の持ち主を告発するため、証拠としてそこへ隠したのである。しかし、なぜ自分がそんな行動を取ったのか、青年自身にも分からなかった。その本当の理由に気づくのは、数年後のことであった。
さらに監察医は、火傷痕や衰弱状態を記した検死記録の写しもクリスへ手渡した。クリスは監察医に破格の金を渡し、静かにその場を後にした。
もうすぐだ。もうすぐジュリアンを地獄へ追いやった人物がわかる。
クリスはその後、その婦人科病院へ出向いた。その病院には知己はおらず、妹の体調について相談したいと偽り、妊娠検査結果に書かれていた医師との面談にこぎつけた。
「先生、この検査結果に覚えはありませんか」
その医師は結果を見てなにかを思い出す素振りであったが、急に顔色が変わった。
「先生、何かご存知なんですね。教えてください。この女性はどなたですか?」
「いや、覚えていない。お帰りください」
「先生、お願いします。私の弟はこの女性に殺害されたんです」
「・・・・・本当か?」
「はい。事実です」
と言ってクリスはレイバー家に投げ込まれた手紙を広げて医師に見せた。医師は読み進め、そして言った。
「これが事実ならひどいが、事実かね?」
「それはわかりません。しかし私の弟が骨壺に入って戻ってきたのは事実です」
そしてクリスは火葬許可証の写しと、監察医から譲り受けた検死記録を机上へ並べた。
「そうか」
そう言って医師は、目の前の青年へ密かに協力する決意を固めたのだろう。一つの資料を取り出した。その資料には新型避妊薬の服用方法と届け先が記してあった。
「先生、これは?薬の服用方法とどこかの住所が書いてあるようですが」
「この薬は高価なうえ保存が利かず、定期的な配送を必要とする薬なのだよ。そのため頻繁に病院へ薬を取りに来てもらうか、もしくは病院から薬を届けさせているんだ。なので住所があるのさ」
「ということはこの住所は薬の届け先なんですね」
「そうだ。この住所地に誰が住んでいるのかは、私は知らない。だが、そこに住む娘が妊娠検査を受け、その後この薬の処方を受けたことは間違いない」
クリスは何度もお礼を述べ、報酬の金を置いて辞した。そしてその足で住所地に向かったクリスは衝撃を受けた。そこに建っていたのは、王国に四家しか存在しない伯爵家の一つ、ブライトン家の本邸であった。
しかも当主は、現近衛兵団長を務める男である。そして検査票に記された年齢と一致する女性は、ブライトン伯爵家にただ一人しかいなかった。近衛兵団長の一人娘、メラニア・ブライトンである。そしてこれは後日判明したことだが、メラニア・ブライトンは幼い日より周囲からは「ニア」の略称で呼ばれていたのだった。
暗い夜道を歩きながら、クリスの頭脳では、メラニアとブライトン伯爵家という巨大な権力を地獄の底へハメ殺すための絶望的な計算が、猛烈な速度で回り始めていたのだった。
「まずは俺自身が強くならねば話にならん」
この夜、クリス・レイバーは、それまでの自分を捨てる決意をした。




