1-2 入隊
あの圧倒的な勝利から、遡ること二年半前の春。
アルカディア王国の春は新緑とともに縁起のよい季節である。北部の低山の雪解けとともに清らかな水が流れ田畑を潤す。そして穀物の種を撒き豊作を願う。人々の営みに目を向ければ春は卒業と入学の季節であり、卒業した学生が大人としての第一歩を踏み出す季節でもある。
後に五倍の帝国軍を退けるディック・ブライトンはその年に二十歳を迎えた。この年の早春に学業を全て終えたディックは父の命に従って王国軍幹部候補生養成学校へ入学する予定である。ディックは父に無茶な願いを申し出るため、ブライトン家の奥にあるブライトン伯爵の居室の扉を叩いた。
「入れ」
「失礼します」
ディックは重い木製の調度扉を開き、入室した。
「父上、お許しを頂きたい事がございます」
長身の体を正し、一礼するディックに、机の上の書類から目を離さないまま父親が応じる。
「なんだ、突然」
「父上の命に従い、軍人を目指します。ですが私はまだ軍というものを、この国を知りません。ですので三年間、武者修行の時間をください」
父親の手が止まり、鋭い眼光がディックを射抜いた。
「どうするつもりだ」
「最初の一年は王国を見て回ります。残る二年は国軍に入り、一兵卒として現場を見たいと存じます」
「何のために?」
「私は今まで貴族社会で生きてきました、いや、生かされてきました。しかし貴族社会はほんのごく一部です。王国民の大半は平民です。私はこの目で王国の実態を見てきたいのです。そして将来、王国を背負って立つ軍人になりたいのです!」
父親からは冷ややかな笑みが浮かんだ。ディックは次男でありブライトン家の次期当主の座はすでに長男に内定している。父親にとって、次男が軍務にさえ就いてくれればいいのだ。
「そうか。だがもし旅先で困ったらどうする?自らの才覚で乗り切れるか?」
「自らの才覚で乗り切らねばなりません。そうでなければ将来の王国軍を率いていくことなどできますまい」
「それなら我が家の家名を使うことは許さん。それでも行くか?」
「当然です」
「いいだろう」
父親はあっさりと願いを聞き入れ、別室に控えていた筆頭執事に命じて各種書類を手配させた。その書類とは、偽名の身分証、教会が発行する洗礼式書類、そして国内の通行を許可する書状である。そして突き放すような冷酷な声で告げた。
「身分を偽り、一般平民に扮するのだ。その間、我が家からの支援は一切無いぞ」
「もちろん承知しております」
「だがな、困ったら戻ってこい。それも含めて評価を下す」
こうして、ディック・ブライトンはその名を「ディック・シャドウ」へと変えた。
「母上、姉上、では行ってまいります」
出発の朝、ディックは実母、そして心から敬愛する実姉のメラニアに対して丁寧に貴族の礼をとった。メラニアはただ静かに、その美しい瞳で弟の旅立ちを見つめていた。
豪奢なブライトン伯爵邸を後にしたディックの側に立つのは幼少期から小姓として彼に仕え、文字通り影のように付き従ってきた三歳年上の従者、ドギーだけであった。
「坊っちゃん、家から離れるのはさみしいですな」
「いや、逆にせいせいするよ」
貴族社会では、礼儀や高価な贈答品、派閥内の付き合いが絶えず求められる。その重圧に耐えきれず、使用人や奴隷へ鬱憤をぶつける者も少なくなかった。ディックはそういう重圧から逃れられるだけでも有り難い、と思ってしまうのだ。
その後の一年間の二人の行動に関する公的な記録は残っていない。しかし付き添ったドギーの手記からその様子が伺える。
ディックはまず王国の農村地帯を目指した。ひとつの村でおよそ二、三日滞在し、時には「婿にならんかね」と言われ、また別の村では「勉学、剣術を教えてほしい」と子供の親から頼まれた。とある村では、
「薬師を呼ぶ金など、この村にはありません。税を納めれば、屋根を直す木材さえ買えんのです」
行く先々で、重税や医療不足、痩せた土地に苦しむ平民の村人たち、そしてその下で働く奴隷たちを目にした。
「ドギー、俺は初めて知ったぞ。奴隷というのは平民が持つ最後の金策手段だったんだな」
「私も聞いたことはありましたが実情を知ったのは初めてですな」
「奴隷に落ちた平民はまた平民に戻れるのか?」
「それはできるようですな。奴隷に落ちた時に借り受けた金と同額以上を貯めて返せば平民に戻れるそうです」
「そうか。でもそれなら奴隷ではなく単なる借金をした平民としても良さそうだが」
「それでは逃げられたら終わりです。公的に奴隷登録すれば奴隷が逃げても国のどこかで見つかれば引き戻されますが平民は逃げても分かりません」
「なるほど。でもそれはつらいな」
王国では働く際に必ず洗礼式証書を必要としたため、偽名などでは一切働くことが出来なかった。そして役所に雇用を届け出ると逃亡奴隷かどうかの確認が真っ先になされていた。
村人たちは奴隷を不憫に思いながらも、自らにかかる重圧を、さらに弱い奴隷へ向けることがあった。その怒りは奴隷同士の争いや強盗、時には反乱となって噴き出した。不幸の連鎖だった。
とある村落では夫が臨時収入のために一時的に入隊し、運悪く帝国軍との戦闘が発生してしまい、戦死した。そしてその妻と子どもが暮らしている家族と出会った。その家は貧しく、しかし子供は元気だった。
「失礼ですが、生活が苦しそうに見えます」
「お恥ずかしいですわ。夫が戦争で亡くなりましたから」
「弔慰金や恩給があると思いますが」
「最初はありました。しかし一年で打ち切られました」
「それはなぜですか?」
「さあ、分かりません」
これは数年後に分かったことだが、その未亡人に渡るはずの恩給はその村落を管理する貴族家が没収していた。しかし当時のディックはその原因が分からなかった。
「ドギー、なぜあのご婦人は恩給をもらえないんだ?王国は一体どうなっているんだ?」
「わかりません。私も平民と奴隷がここまで苦しんでいるとは思いませんでしたな」
他にも戦災孤児の面倒を見る準男爵家の使用人と会ったことがある。
「戦災孤児がこんなにたくさんいるのか」
「はい。この集会所には三十人の孤児がいます」
「こんな小さな村落でなぜ?なにか理由があるのか?」
「いいえ、単に帝国との国境が近いですからね。帝国軍との戦闘で親が犠牲になった子供が多いんです」
「ここでも戦争の犠牲か」
ディックは唇を噛み締めながら無邪気に遊ぶ子供を見ていた。
「ここを管理しているのは何という貴族家でしょうか?」
「ギャロット準男爵家です」
「そうでしたか。感謝致します」
ディックはドギーに記録をさせた。そして数年後、ディックが伯爵名に戻るとすぐにギャロット準男爵家に対して匿名で寄付金を贈った。
秋に訪れたとある村落では王宮行事で行われる収穫祭の日に合わせてその村落でも収穫祭が行われていた。そしてその年に収穫された穀物を収穫祭の日に初めて挽いて食すのだという。それを見たディックは驚いて聞いた。
「新穀の収穫から考えるともう一月以上も前から新穀を食せると思いますが、なぜ収穫祭まで口にしないんですか?王都では皆がすぐに食しておりますが」
「王宮行事の収穫祭で初めて国王陛下は新穀を口にされます。私たち平民がどうして陛下よりも先に新穀を食せましょうか。恐れ多いことです」
それを聞いたディックは激しく衝撃を受けた。ディックも陛下への敬愛では誰にも負ける気はせず、陛下への忠誠心と国への愛国心、そして王国を守り抜く気持ちは人一倍、持っているつもりだった。
しかしこの事は知らなかった。ディックは今まで国王陛下よりも先にその年の新穀を挽き、食していたのだ。これは確かに罪ではないが、陛下と平民が持ち表す新穀への感謝、そして翌年の豊作を祈念する気持ちを果たしてディックは持っていただろうか。
ディックは思った。知らないことは恥である、と。ディックは命を繋ぐ食料の生産者に対する敬意と王宮に対する忠誠心、そしてこのように素晴らしい王国を守る事をあらためて誓った。
ディックは農村地帯を回りながら近くの山にある鉄鉱山にも足を運んだ。アルカディア王国には山間部に鉄を産する鉱山があるが、残念ながら銅や錫、その他の金属を産する鉱山は見つかっていない。
王国にあるすべての鉱山は政府が指定した貴族家が管理を行っている。そしてそこで働く労働者はすべて奴隷階級だった。ディックが鉱山を見学したい、と鉱山管理者に伝えても冷たく断られるだけであった。
「ドギー。夏のうちに霊峰へ登って祈りを捧げるぞ。今の俺にできることは神への祈りだけだ」
「いいことですな、坊っちゃん」
こうしてディックはドギーを引き連れて霊峰マウント・ヒュービックへ登頂し、聖導教会発祥の地であり聖地である聖堂で祈りを捧げたのだった。
このように王国の地方から山間部に至るまで一年間を使ってディックは国内を歩き、貴族生活では知り得ない実態を目の当たりにしたのだった。
「坊っちゃん、色々と王国内を歩きましたが、平民の暮らしはどう思われましたか?」
「正直、驚いた。平民、奴隷、というが我々貴族と同じ人間じゃないか!」
知識としては分かっていたつもりだった。だが、家族を失って泣き、子供の誕生を喜ぶ姿を目の前にして、ディックは初めて身分の違いが人間の違いではないと実感した。
「ドギー。先日あった村人の葬式のとき、お前の両親が死んだときのことを思い出した」
「あの時ですかな」
「俺はな、人には天命という名前の使命がある。天命を果たすために神は命を吹き込んだ。そして天命を果たせば天寿を全うできるはずなんだ」
「聖導教会の教えですな」
「ああ。教会の教えだが俺の考えでもある」
医者ではないディックに、病死を防ぐことはできない。すべての事故をなくすこともできない。だが軍人となる以上、無謀な戦で失われる兵を減らし、戦火に巻き込まれる民を救うことはできるかもしれない。
そのためには、一兵卒のままでは足りない。軍を動かす立場まで上がらなければならない。
「ドギー、俺は将来的に王国軍を率いる立場を目指す。そして実際にそうなる。必ずだ。そしたらこの国を少しでも良くするために働けるだろうし、無駄な戦争も食い止められるかもしれん。あのような未亡人も戦災孤児も減らせるかもしれん。恐らくこれが俺の天命だろう」
そして年が変わり、ディックが二十一歳になる年の初めに二人は王都へ戻った。ディックが少しだけブライトン家に戻る間にドギーは書類を預かり、王国軍の窓口に出向いて二人分の入隊志願書を提出した。その入隊志願書には最前線配属希望と書いてあり、偽造された身分証明書と洗礼式証書が添付されていた。
そして三日後に二等兵としての入隊許可と王国軍に入る平民出身兵が必ず受ける「初任軍事訓練施設」での教育課程を言い渡された。三ヶ月間、軍の兵士として徹底的に教育を受ける。ここでは集団戦闘の基本、隊列行動、行軍、野営、軍規などの軍組織としての行動や戦闘などの現場を徹底的に覚え込まされる。
その教育課程を経た後にディックとドギーは東方北部国境警備隊への入隊命令が下された。
「よし、ドギー。北を目指すぞ!」
「そうですな、坊っちゃん」
二人は馬を連ね、六日間かけて平地を北上した。その途中までは霊峰へ巡礼した時に通った街道だったが途中から分離した。
そして移動の最後の一日は山岳地帯の険しい街道を登り、王国最北の地である東方北部国境警備隊へと到着した。中央左翼軍司令部から受け取っていた配属命令書を握りしめ、国境警備隊の司令部へと提出した。
それが、ディックが王国軍の「理不尽」と「腐敗」に直接触れる、最初の引き金となった。
翌日、ディックは北部国境警備隊司令官から直々の呼び出しを受けた。
薄暗い司令官室。豪華な毛皮の椅子に深く腰掛けた司令官は、品性のない目で隙無く起立している新兵のディックを見下した。
「お前が新任のシャドウ二等兵か。何か私に渡し忘れているものはないか?」
ディックは眉一つ動かさず、毅然と答える。
「いいえ、ございません。司令官殿」
司令官は下品な鼻笑いを漏らし、机をトントンと指で叩いた。
「これだから鈍い奴は困るんだ。私への手土産は無いのか、と聞いているんだよ」
賄賂の要求。伯爵家という後ろ盾を捨て、ただの一兵卒としてここに立ったディックにとって、それは生まれて初めて浴びる軍の汚濁だった。
ディックは一瞬、拳を握り締めそうになるのを何とか抑え込み、冷徹な声で応じた。
「失礼いたしました。実家の者に言い付け、こちらへ届けさせてはいるのですが、まだ到着していないようです。届きましたら、すぐにお届けいたします」
「ふん、ならいい。下がれ」
司令官室から退室してきたディックの顔を見たドギーは背筋が凍った。その表情には怒りもあったがそれよりも何かを固く決意したように見えた。
「やれやれ、ディック様のあの顔は一生、いや、神の元へ召された後も忘れられるものじゃない。これでまたひとつ、何かを背負ったようですな。いやあ、でもまだまだ若い!」




