2-4 怪物
クリスティ・ギャロット情報部少尉はヴァルディス共和国の野党党首を完璧な罠にかけ、将来王国へ協力する約束と、それを破らせない巧妙な仕掛けを整えた報告書を中央軍後方情報部の司令部へ提出した。そしてその報告書を受けた中央軍後方情報部の首脳陣は、その鮮やかな成果と、一歩間違えば大変な外交的不手際となるそのギリギリの手口に思わず眉をひそめた。だが、彼らとて陰謀と謀略を重ねて生き残ってきた手練れである。
首脳陣はクリスの功績とその達成にかかった費用の少なさを評価し、彼を「中尉」へと昇格させたのだった。
昇格に伴い、動かせる工作資金も、手下にできる工作員の人数も増やすことができる。クリスは内心で静かに歓喜していた。これで懐を痛めることなく、より徹底した裏工作を仕掛けることができる、と。
しかし、クリスには長年の切実な悩みがあった。
それは、真に信頼できる副官や同僚、部下がいないことである。タチバナは確かに切れ者であり、信頼に値する存在だ。だが、彼女は軍籍を持たない一般人である。クリスが喉から手が出るほど欲していたのは、軍の内部で手足となって動く、確かな能力を持った軍人であった。
そこで彼は有能な人材を求めるため、連日連夜、軍組織内の人事資料を貪るように読み漁っていたのである。タチバナから聞いた「ディック・シャドウ准尉」に強い興味を抱いていたのも、そうした理由からであった。
ある日、西方国境警備隊から届いた報告書の写しを目にしたクリスは、ふと異様な違和感を覚えた。
西方国境警備隊の収支報告書の質が、劇的に跳ね上がっていたのだ。念のため以前の書類も確認したが、この突然の変化は昨年からであった。
二年前までは、致し方なくやらされていることが露骨に伝わる不揃いな筆跡であり、計算違いや誤字など、内容も粗雑極まりないものであった。しかし、昨年の報告書からはそうした粗雑さが綺麗さっぱり消え失せていたのだ。
軍という組織において、財務報告書は重要だが何かと軽視されがちである。腕力こそがすべての世界ゆえ、どうしても実戦部隊が主役であり、後方部隊は脇役だと思われている。さらに後方部隊の中でも作戦立案や医療が持て囃され、財務や糧食の管理などは冷遇されている不人気職であった。
この誰からも一目置かれてこなかった財務報告書が、突如として変貌を遂げたのだ。
興味を惹かれたクリスが精査した結果、昨年早々、平民が通う事のできる最高位の大学を卒業直前で退学し、入隊してきた「シロタ・カンタ」という異能の存在が浮かび上がってきたのである。そしてクリスは人事課に確認した。
「このシロタ・カンタ二等兵についてだが、出身はどこだ?」
「出身は王都郊外です」
クリスはシロタ・カンタの「入隊志願書」と「身分証明書」の書類を確認して軽く驚いた。なんと、シロタ・カンタはシロタが家名でカンタが名前の、いわゆる「群島式」という王国では珍しい命名規則の名前であった。
王国の人口に占める群島式名称を持つ人口の割合は約三%以下と言われているため、それほど多いわけでは無いがまったくいない、ということもない。しかし珍しいことに変わりはなかった。
この群島式名称は王国の南にある蛮国、その更に南の海を超えた先にある今は無き群島国ハポニスクで広く一般的に使われていた名称だった。シロタの血にはハポニスクの血が流れているのだろう。
そのシロタは二等兵として西方国境警備隊の砦へ配属され、財務担当として当地の財政管理を一手に引き受けていた。もともとその砦には財政管理を担当する老少尉がいたのだが、有力貴族の推薦で就いた人物ゆえに誰も咎められず、長年自宅療養と称して前線に出ない給与泥棒と化していた。その少尉に代わって実務を担っていた上等兵も先の国境紛争で神の元へ召され、その巨大な穴を完璧に埋めたのが、このシロタ・カンタであった。
シロタが帳簿を引き受けたことで報告書が見違えたのは明白であったが、クリスが何より戦慄したのは、その美しい数字の羅列の裏に隠された「恐ろしい意図」であった。
長年、地方の駐屯軍や警備隊においては、その地を支配する有力貴族への「儀礼典礼費」や「防衛協力金」、そして地域教会への寄付金という名目の、事実上の裏金や賄賂が通例として計上されていた。
だが、シロタの作成した報告書からは、それらの裏金が半減、あるいは完全にバッサリと削ぎ落とされていたのである。
それも、ただ無鉄砲に削減したのではない。
シロタは王国の複雑な軍事財務規律の抜け穴を突き、貴族側が裏金の削減に激怒して対抗策を講じてきた場合には「貴方がたの不法な脱税や蓄財が、中央監査の目に留まるよう仕向けます」という、極めて冷酷な脅しによって口を封じたのだ。
さらに教会に対しては「寄付金を減らされたくなければ、兵力不足を補うために聖導騎士団を国境警備の戦力として差し出してほしい」と要請し、返答に窮した教会側に寄付金の半減を承諾させたという報告書二点も付け加えられていたのである。
そうして工面した莫大な資金を、シロタは国境警備兵の最新鋭の防寒装備や、前線の防壁補強費用へと、すべて合法的に流用してみせたのだ。シロタがやったことは横領ではない。シロタは何と、国境警備隊の戦闘力を直接引き上げるための高価な装備品調達を、国境警備隊の予算総額をまったく増やすこと無く筆一本で成し遂げたのである。
情報部の権限を駆使し、さらにその後の顛末を追ったクリスは、思わずニヤリと笑みを漏らした。
この前代未聞の勝手な資金流用に気づいた西方国境警備隊司令官は、当初、激怒してシロタを厳罰に処そうとした。貴族からの圧力を恐れたためである。
しかし、司令官はシロタを処分することができなかったのだ。シロタを排除すれば財務が破綻するという消極的な理由だけではない。シロタは司令官に対し、静かに一枚の書状を突きつけたという。
書状に目を通した瞬間、司令官の表情が凍りついた。次の瞬間、激怒して机を叩いた。
「貴様、二等兵の分際で子爵家への進物と教会への寄付金を全て削り取っただと!自分の立場が分かっているのか!」
「ええ、重々承知しております。ですが司令官、こちらの書類をご覧ください」
「なんだこれは、過去十年の配給物資の記録?」
「もし私が更迭された場合、この正確な数字が記載された写しが、自動的に王都の中央軍憲兵隊へ届く仕掛けとなっております。司令官の私邸が増築された時期と、物資が消えた時期が見事に一致しておりますね」
「貴様っ!」
軍人は誰もが財務を毛嫌いし「敵の大将を一騎打ちで討ち取ることこそ武門の誉れ」と信じる脳まで筋肉でできた世界において、この二等兵は一本の筆だけで、司令官、貴族、教会を同時に絡め取った。
タチバナ・マリという群島式の女が「蠍の毒針」であるならば、このシロタ・カンタという群島式の男は、静かに獲物を絡め取る「蜘蛛の糸」そのものではないか。
報告書を読み終えたクリスは、強い決意を込めて呟いた。
「シロタ・カンタ、この男に、直接会わねばならんな」




