2-2 上下
理由は分からないがクーシュが復活した。
「なんだと!」
あれ?様子がおかしい。弱気だったクーシュの瞳が急に生気を取り戻してきたかのように思える。普通ならこれで落ちるはずだが、落ちない。
「ワシの口が臭いわけあるか!この売女め!」
生気を取り戻したなんてものじゃない、正気に混じって狂気の色合いが出てきている。これはまずい。一旦引こう。
「あら、嫌ですわクーシュ様。そんなにお怒りにならないで下さいまし。わたし、あまりの迫力に力が抜けてしまいましたわ」
この言葉を言いながらタチバナは考えた。この男の最も恥じている点が口臭なのね。最も突かれたくないところを突いてしまったため一気に正気に戻った、ということか。ということは口臭はクーシュの心を折る武器ではなくてクーシュの心を完全に折った後のダメ押しで使ったほうがいいわね。
そう考えたタチバナは嘘涙を一筋伝わせ、しおらしさを前面に出してみた。するとどうだろう、クーシュの瞳から先ほどまでの狂気が消え、今度は女を蔑むような色合いへと変わった。やがてその瞳には、タチバナを思いのままに支配しようとする欲望が浮かび上がった。しかし表情だけは優しさを装いながら、彼女へ近寄ってきた。
「怖がらなくても良いんだよ。私の口が臭い、などということを言われて少しカッとなってしまったようだ。さあ、寝台に座って落ち着きなさい」
「はい、クーシュ様。優しくして下さい」
「もちろんだとも」
わかった。この男は二重回って面倒な性癖なんだ。最初はか弱い女に惹かれ、強い女に従う気質があるが度が超えると元に戻る。いや、違う。強い女が屈した姿が好きなのだろう。あまりにも面倒だが、分かった。
「クーシュ様の迫力で心臓が高鳴ってます。触ってみて下さい」
タチバナはわざとクーシュの手を引き、自分の左胸にあてた。もちろん、その位置まで計算していたのは言うまでもない。
「いや、これでは分からん。心臓の鼓動など分からん」
「そんなことありませんわ。私のこの鼓動、お伝えしたいです」
「そうか、ではもっとよく分かるところに触れてみよう」
そう言ってクーシュはタチバナのスカートに手を伸ばした。
「ここが一番心臓の鼓動がわかるんだよ」
もはや自分でも何を言っているのか分からないほど、クーシュは欲望に支配されていた。タチバナはクーシュの手を押さえた。もう少し、あと一歩踏み込ませてから叩き落とす。
「クーシュ様、そこでは胸の鼓動は分かりません。そんな汚い場所まで見られたら恥ずかしいです」
「なにをいう、子猫ちゃん。全く汚い場所ではないよ」
「そんなことはありません。先ほど洗面室で用を足しましたので、汚いです。変な匂いもします」
「なに、そんなことは気にしなくていいんだよ、子猫ちゃん」
「お願いです、そこだけは・・・」
そしてクーシュが再びタチバナの衣服に手を伸ばした、その瞬間だった。
「やめろ、下衆!」
タチバナの一喝が轟いた!
その瞬間、クーシュ・ベルヌは寝台から転げ落ち、無様に失禁した。これで折れた。
クーシュの脳は感動と喜びに満ちていた。脳の芯まで支配されるような陶酔感、そして先程から幾度となく揺さぶられた心。そして心の余裕を取り戻したかに思えたその瞬間の衝撃。
感情の振れ幅が限界を超えた男は、ほんの少し前まで腕の中で震えていた生娘のあまりの豹変に、もはや感動の涙を流しながら、その足元へと額を擦り付けたのである。
そこへ、タチバナはクーシュの失禁など構うこと無く近づき、極めつけの毒を優しく囁いた。
「安心しなさい、仔犬ちゃん。でもね、やっぱりあなたの口臭は酷いわよ。あなたの身体に吐いても構わないかしら。あら、いやだわ。そんなご褒美を、みたいな目で見ないで。けど、許してあげるわ。その代わり・・・・・・私の言うことだけを聞く犬になりなさい。そうしたら特別なご褒美をあげるわ」
「じょ、女王様・・・・・・ご褒美とは一体・・・・・・」
「もちろん、一緒に寝てあげるわ。朝まで寝かせてあげないんだから!」
クーシュは堕ちた。絶世の美女であり、涙ながらに震えていたかと思えば一転して女王へと変化する。地獄へ落ちようとも後悔はない。いまタチバナとの夜を選ばぬことこそ、深い後悔に沈むと考えた男は即答した。
「女王様! あなたのためなら、この口臭・ベルヌ、死んでも構いません! その代わり、ご褒美を先にいただきたいです!」
「あら、いいわよ。欲張りさんね。でも・・・・・・私を裏切ったらどうなるか、分かっているわね?」
「もちろんです! 私が女王様を裏切るわけがございません!」
「そう? まあいいわ。ちなみに、あなたの特殊な性癖を受け継いだ可愛い次男坊も、私が可愛がってあげているわ。この前だって、ずいぶん私に夢中になっていたわよ。・・・・・・私の言っている意味、分かるわね?」
それを聞いたクーシュは、次男に対して激しい嫉妬を覚えた。親でありながら・・・・・・などという分別の心はとうに吹き飛んでいたのだ。
そして、その歪んだ嫉妬によって逆に妙な冴えを見せたクーシュは、絞り出すように呟いた。
「そんな・・・・・・」
クーシュはそれ以上、声を出すことができなかった。純粋に、息子の境遇が羨ましくて仕方がなかったのである。自分もこの女王から同じように可愛がられたい。そして叶うならば、あのしなやかで妖艶な身体を独り占めしたい。そんな欲望が、もはや頭の中を埋め尽くし、男は身悶えするしかなかった。それを見つめるタチバナには、クーシュの浅ましい内心など手に取るように見抜けていた。
「あなたの次男坊、今すっかり私に夢中なのよ。将来は私と結婚するんですって。可愛らしいわね。私が彼に、最後の一線を超えるのは結婚してからね、と言ってお預けを食らわせているのが効いているのかしら。彼は今、必死になって国際婚姻の書類を整えているところよ」
クーシュ・ベルヌはすべてを悟り、完全な敗北を認めたのだった。
そしてその直後、タチバナは男へ夢のようなご褒美を与えることを忘れなかった。
人心掌握において、鞭ばかりでは意味をなさない。甘い飴があるからこそ、鞭の痛みがより一層引き立つのだ。
「仔犬ちゃん、選ばせてあげるわ」
「な、何をでしょう?」
「もちろんご褒美の内容よ。ひとつめは、今ここで私が寝てあげてもいいけど、あなたの口がちょっと臭うのよね。だから私が持ってきた薬を使ってくれれば寝てあげるわ。もうひとつはあなたの口臭が治ってからのご褒美よ。どっちがいい?」
そんなことはもう言うまでもなかった。
「もちろん今すぐです!」
「分かったわ。じゃあこの薬を嗅いでみて。ちょっとウトウトするかもしれないけど我慢してね」
こうしてタチバナは嗅がせ薬をクーシュに渡して嗅がせた。
「あら、口臭が弱くなったわよ!」
もちろん嘘である。
タチバナは部屋の明かりを極限まで暗くし、クーシュを寝台へ仰向けに横たえた。そして自らの上半身を重ね合わせる。タチバナはあらゆる手段を尽くしてクーシュの心を奪い、向きを変えてねっとりと唇を重ねた。
漂うきつい口臭に吐き気を覚えながらも、超一流の工作員たるタチバナの手と口が止まることはない。ほんの僅かな光がより一層部屋の暗さを引き立たせ、室内には二人の唇が重なる微かな音だけが響いていた。
クーシュは白目を剥き、狂喜乱舞していた。クーシュは接吻の最中、タチバナの垂れ下がる髪から漂う香水と女の香りにますます陶酔し、意識が徐々に朦朧としていった。
その様子を見たタチバナは、何食わぬ顔でクーシュに唇を重ね、上半身を密着させた。その一方で、暗闇に潜ませていた王国出身の中年給仕を手招きし、寝台のそばへ滑り込ませた。
タチバナは、クーシュの瞳が半ば閉じているものの、意識を失っていないことを確認した。そして、その後の処理を中年の女性工作員に委ねたのである。
そして中年の女性工作員は朝までタチバナから託された役目を果たし、クーシュが疲れ果てて眠り込んでいる間に退室したという。
当のタチバナ自身は中年女性に任せた後はその部屋から立ち去った。立ち去り際に室内をのぞかせていた使用人たちへ「しっかり見ておきなさい」と氷のような視線と小声で命令した。
そうしてクーシュは、幸せな錯覚と与えられた状況の中で一晩中解放されることもなく、その一部始終をあらかじめ買収しておいた屋敷の使用人たちに隙間から覗かせ、完全な「証人」と仕立て上げたのである。
タチバナは彼らの口封じを行うと同時に「必要な時には、私に有利な証言をすること」と念を押し、重い金貨の袋を握らせて寝返りを確定させたのだった。
本来、共和国において使用人女性への暴行は極めて軽い罪で処理される。しかし、野党党首クーシュ・ベルヌにとっては話が別であった。
クーシュは「清廉潔白」を売りにし、過去に何度も弱者や女性の人権擁護、その地位向上を強く訴えてきた政治家だったのだ。
そんな男が裏では権力と暴力を振りかざし、女性を奴隷のように従えようとした、という動かぬ事実。実際にはタチバナによる性的な破壊工作の標的となったのだが、だからといってクーシュ・ベルヌの罪は明白だった。そして、彼の度を越した変態性が世間に露呈すれば、本人どころか一家全員にとっての致命的な恥辱となる。
仮に裁判で無罪となろうが、政治家としての命脈は即座に絶たれるのだ。
こうして、任務は完璧に遂行された。
ヴァルディス共和国の野党党首クーシュ・ベルヌを心身ともに骨抜きとし、王国に対する非難や懲罰の主張を跡形もなく撤回させたタチバナは、何事もなかったかのように王国へと帰還した。
当然、発つ直前にもクーシュへ向けて容赦のない釘を刺すことを忘れなかった。
「今後、いずれかのタイミングで私から連絡するわ。その時、あなたが私に逆らえばどうなるか・・・・・・分かっているわね、仔犬ちゃん。あなたの次男坊は私が大切にお預かり致しますわ」
そうしてタチバナは念には念を入れ、すでに陥落させていたクーシュの次男を、そのまま人質として王国へ連れ帰っていた。名目はタチバナとの婚姻であったが、もちろん真に結ばれるつもりなど毛頭ない。
王国へ足を踏み入れた瞬間にその次男を馬車の中に監禁し、国際婚姻に関する書類はことごとく破棄してみせた。
そして次男には子飼いの女の中でも諜報、工作共になかなか芽が出ずにいた女性をあてがい、言った。
「王国内で慎ましく暮らす分には不自由はさせないわ。もし逃げ出せば父親ともども共和国最大の恥晒し一家としての汚名を着せてから殺してあげる。だが大人しく指示に従っていれば、一年に一度くらいは私が慰めに来てあげるわ。あとね、父親が政治家を引退すれば自由にしてあげる」
こうして飴と鞭を与えて飼い慣らしたのだ。気の弱い次男はタチバナへの一途な思いを胸に抱きながら、あてがわれた女に慰めを求めたのだった。




