2-1 謀略
今年二十四歳のクリスティ・ギャロットは、アルカディア王国中央軍の後方部隊において、若くして情報参謀という要職に就き、少尉の階級を拝命した。
前線の実戦部隊であれば五十人規模の平民兵を率いる小隊長と同格の階級であるが、高度な政治判断を要求される情報部においては、これでもまだ新任の作戦参謀に過ぎない。
クリスは二十歳で幹部候補生養成学校の門を叩き、二十三歳で卒業すると同時に准尉へ任官。その翌年、軍の慣例に従って少尉へと自動的に昇格を果たしていた。
情報部という組織は実力主義のため、クリスが特別に優秀というわけではなかった。
そして情報参謀の地位にある少尉には副官の他に自らの裁量のみで自由に動かせる「私的雇用枠」と「独自の工作資金」という二つの特権が認められていたのだ。
そして情報参謀はこの特権に見合うだけの過酷な成果が求められ、結果を出せぬ者は瞬く間に降格処分とされる、常に薄氷を踏むような激務の部門である。クリスは二十四歳の春からとある覚悟を胸に職務に邁進していた。
そして約二年後となる二十六歳の秋、隣国であるヴァルディス共和国に対する密偵工作を上層部から命じられた。それはヴァルディス共和国の内情を密かに探り、必要に応じて王国に有利な状況を作り出す、それが彼の役目であった。
もちろん共和国に対する工作活動はクリスだけではなく、他の情報参謀にもそれぞれ密命が与えられたのだ。
クリスは胸の奥底に、軍の誰にも明かしたことのない秘密を持っていた。その秘密をこれまでの人生でただ一人だけ打ち明けた人物がいる。それはとある事件をきっかけにクリスが自らの傍らへと引き入れた女性、タチバナ・マリという若き異能であった。
クリスは情報参謀に就任する前から自らが動かせる資金を投じ、タチバナを一流の潜入工作員へと仕立て上げていた。
タチバナには天性の鋭い勘と、男を狂わせる美貌があった。そして何より、彼女が心の奥底に隠し持つ自然の毒牙が、その美しさを退廃的で怪しげな魅力へと昇華させていたのだ。
クリスはタチバナに葡萄酒用の器を差し出し、真紅の葡萄酒を注いだ。葡萄酒で唇を湿らせ、そしてくれぐれも油断しないよう伝えた。
「フフフ、男ほど扱いやすい獲物はありませんわ 」
「油断するなよ、タチバナ。今回の標的は共和国の重鎮だ。しくじれば命が危ない」
「ご心配なくクリス様。私の魅力から逃れられた男など、この世に一人もおりませんもの」
「その記録がずっと続くといいな」
タチバナは狙った男を瞬時に見分けて分析し、同性の女性に対しては持ち前の懐こい笑顔で接近して瞬く間に取り込んでみせたのである。
今回標的となるヴァルディス共和国はいわゆる高度な技術力を元にした加工貿易によって国力を維持している裕福な国家であり、その政体は民意を重んじる完全な民主主義体制であった。
その共和国では近年、王国からの穀物輸入量が減少したことに伴い、国内の食料価格がにわかに上昇。国民の間に少しずつ不満が生じていた。
これは王国の穀物生産量が自然環境の変化により減少したこともあるが、帝国が王国に対して度重なる侵攻と略奪を繰り返してきたことも大きな原因であった。
この世論の追い風を受け、共和国の議会ではガルディニア帝国に対する強い非難決議を行い、王国に対しては増産や軍備増強、通商制限の緩和を求める決議を可決させた。
そんな中、共和国野党党首であるクーシュ・ベルヌは王国に対し「穀物生産の増加と我が国への優先輸出に応じねば、軍事手段も辞さない」という強硬姿勢を打ち出し、急速に国民からの支持を集めていったのである。
このような反王国派の政党が力を増すことは王国にとっての不利益となる。
「国家の害となるあの男を、あらかじめ排除せよ」
それが王国政府の裏の総意であり、国王もその裏の決断に反対はしなかった。作戦は軍へと丸投げされ、中央軍の後方情報部が一手に引き受けることとなったのである。
「暗殺か、あるいは毒殺か……」
幹部たちが血なまぐさい思惑を巡らせる中、クリスが静かに提示した構想こそが、採用されることとなった。
夕暮れ時の日が差し込む会議室において、クリスは後方情報部の幹部を前に発言した。
「殺す必要などございません。最も手がかからず、万が一失敗しても王国側に一切の損害が出ない完璧な仕掛けがございます」
「ほう、聞こうか、クリス少尉」
「標的であるクーシュ・ベルヌに甘い罠を仕掛け、醜悪な不祥事として押さえるのです。その動かぬ証拠を盾に裏から喉元を突きつければ、標的はおとなしい犬になるでしょう」
クリスの提案した完璧な罠に上層部は許可を出した。王国軍は伝統的に発案者が実行者となる風習があったため、作戦の立案者であるクリスはそのまま作戦実行責任者へと任命されたのだった。
クリスはあらゆる偽装工作を整え、その年の秋タチバナを共和国へと向かわせた。
相手方の警戒網を欺くため、タチバナはしがない民間人に身をやつして共和国へ穀物を輸送する商隊に紛れ込んだ。支援を担う他の工作員たちも別々の商隊へ分散して潜入させ、首都近郊の隠れ家で合流する精緻な手順を整えていたのである。
しかし、後日もたらされた報告に、クリスは苦汁をなめさせられることとなった。
国境を越える際、工作員たちの乗る商隊の一部が、突如として出現した大規模な山賊の強襲に晒されたのだ。いくつかの商隊は甚大な被害を受け、共和国入りを断念して散り散りに敗走。そして、その引き返した商隊の中に、よりによって作戦の要であるタチバナが同行していたことが判明したのである。
「タチバナは無事か?」
「ハッ。無傷で生還いたしました。現在は一旦王都へ引き返しております」
報告を受けたクリスは、深く息を吐いて胸を撫で下ろした。だが同時に、完璧と信じていた初期計画の崩壊を冷徹に認めざるを得なかったのだ。報告で聞いていた商隊への山賊襲撃がまさか作戦を狂わせることになるとは。
一ヶ月後。
王都に戻ったタチバナが再度共和国へ出向く様々な準備を整え、クリスと面会した。
「タチバナ、とにかく無事で良かった。だが任務は完了していない。再度共和国へ行け。そして確実に任務を果たせ」
「フフ、お任せください、クリス様」
妖艶に笑むタチバナを携え、彼女を再び共和国の深い闇へと忍び込ませたのだった。タチバナはその後すぐに王都を出立し、約二十三日後にヴァルディス共和国首都へ潜入した。
タチバナは現地へ先行していた協力者たちと合流するや、間髪入れずに動いた。
標的である野党党首クーシュ・ベルヌの自宅で長年雇われていた年配の女性使用人の素行を丹念に調べ上げたのである。
その上で女性使用人の実家からの緊急事態を装った精巧な偽造書面を差し向け、女性使用人を一時的に帰省させることに成功した。
「長年の給仕が不在とは困ったな。すぐに代わりを探さねば」
空席となった給仕の急募に応じ、すかさず名乗りを上げたのが、完璧な装いを凝らしたタチバナであった。
洗練された佇まいと、事前訓練による隙のない所作の美しさに、クーシュ・ベルヌの目はまんまと騙された。タチバナがその邸宅へ使用人として潜り込んだのは、首都へ入ってからわずか二十日後の出来事であった。
タチバナの真の恐ろしさは、ここから発揮される。
彼女は屋敷へ戻った党首の立ち振る舞い、視線の配り方、そして呼吸の乱れまでも冷徹に分析し、彼が本能的に求めている理想の女性像を弾き出すために一週間を費やした。
日常の何気ない素振りの端々、手元の動き、そして雄弁に物語る瞳の光。
「ふん……この男、表向きの厳しさに反して、随分と線の細いおとなしい娘が好みのようですわね」
クーシュは、小声で囁くような控えめな女性に対して特有の視線を向けていた。タチバナの脳裏には、過去に同じ目を向けてきた男たちの顔が次々と浮かぶ。その手の男たちの多くは、寝所で顔を赤らめ、涙で顔を濡らしながら恥じらう女性の姿に、ひときわ興奮を覚える性癖を持っていた。
「ほぼ間違いありませんわ。あとは仕掛ける時期を見極めるだけ」
ところが、決行の日取りを測っていたある日の夕刻。買い出しを終えて屋敷へ戻る道中、タチバナは思わぬ光景を目撃することとなる。
野党当主クーシュ・ベルヌは街頭で演説を行っていた。そして街頭演説の最中、党首の声が突如として途絶えた。恰幅の良い中年女性がものすごい気迫で割って入り、大音量の怒鳴り声で彼を追い詰め始めたのだ。
圧倒的な威圧感の前に、党首は声すら出せずに立ち尽くしている。
普通なら「みっともない醜態」と呆れる場面であったが、人混みの陰からその光景を観察していたタチバナの目は誤魔化せなかった。
手に握る拡声器と膝は確かに震えている。しかし、その顔は恐怖に歪んでいるのではなく歓喜に打ち震え、口元が歪な笑みを刻んでいたのだ。そして瞳の奥底には、隠しきれない悦楽の光が妖しく明滅していた。
「なるほど。この男、底知れぬ二面性を秘めた極度の変態ですわね」
タチバナの頭脳の中で瞬時にベルヌ党首の攻略方法が組み上がった。
普段は控え目で臆病な生娘を好み、寝所で泣かせることに執着する一方で、特定の引き金さえ引かれれば、一転して強烈な女性に屈服させられたがる倒錯的な願望。その引き金こそが、女性特有の甲高い声による罵倒であった。
罵倒を浴びるたび、党首は必死に不快な表情を作ろうと下を向くものの、溢れ出る快楽を抑えきれずに思わず顔を上げ、喜悦に満ちた瞳を晒してしまう。「これほど御しやすい相手もおりませんわ」
ターゲットの歪んだ本質を見抜いたタチバナは、日中の屋敷では守ってあげたくなるような儚い生娘を完璧に演じ続けた。
そして潜入から数日後の夜。計算し尽くされた間合いで党首の傍らを通り過ぎる際、彼女は自然な仕草で転倒してみせたのである。その際、服の奥に隠し持った鞭が飛び出ないように注意を払う必要があった。
「キャっ!」
恥ずかしさのあまり顔を赤らめ乱れた給仕服の裾を手で隠し、瞳に涙を浮かべてうつむく美少女。クーシュがその絶好の機会を逃すはずもなかった。
「おや、大丈夫かね?膝を擦りむいているようだ。どれ、私が診てあげよう」
彼は介抱という名目のもと、タチバナを自室の寝台へと誘い込み、まんまと座らせたのだった。いや違う、クーシュは罠の中心に引きずり込まれたのだ。
共和国の法律において、主人による使用人への性的暴行は、驚くべきことに軽微な罰金刑で処理される。それすら被害者からの正式な告発がない限り、咎められることすらない。
この国において力なき女性使用人への夜の暴挙は、暗黙のうちに容認された日常であった。党首もまた、自らの権力と不条理な法を後ろ盾に、歪んだ欲望を解き放とうとしていたのである。
タチバナは寝台に腰掛け、床に打ちつけた膝を擦りながら、困惑と圧倒的な羞恥に満ちた表情を浮かべていた。その可憐な仕草は、クーシュの欲望を強烈に鷲掴みにした。
「ここを擦りむいたのだな、軟膏を塗ってあげよう」
クーシュは跪き、手にした軟膏をタチバナの膝へ塗り込みながら、あさましくも給仕服の裾の奥へと視線を這わせた。奥深き魔の三角領域までは見えぬものの、彼女の姿は彼の理性を奪うには十分であった。
タチバナはわざとらしく給仕服の裾を押さえ、繊細な声で震えてみせた。
「嫌ですわ、クーシュ様……」
クーシュの理性が保たれたのは、そこまでであった。彼はタチバナを寝台へ押し倒すと、欲望のままにその胸元へ手を伸ばした。
手のひらに伝わる彼女の心臓の鼓動が、彼の興奮をさらに高めていった。クーシュは夢中で給仕服のボタンに手をかけた。何、給仕服のボタンなど、過去に何度も外してきた経験がある。抵抗などあっけないはずであった。
最後のボタンが外され、まさにタチバナの胸があらわれようとしたその瞬間、興奮のあまり党首の瞳から理性の光が消え、狂気に染まった。
タチバナの顔から怯えの色が、一瞬にして消え去った。
「その汚らしい手を、私の胸からどけなさい!」
突如として響いた冷徹な一言に、党首は何が起きたのか理解できず、咄嗟に手を引っ込めてしまった。そして、自らの腕の中で震えていたはずの女給仕を見直したのである。
タチバナは左手で嘘泣きの涙を拭い去ると、氷のような冷ややかな視線で男を見下ろし、言った。
「この下衆が!汚い手で私に触れたわね。一生かけて償わせるわよ!」
タチバナの瞳に冷酷無慈悲な光が宿ると同時に、その右手にはどこに隠していたのか、鋭い鞭が握られていた。闇を切り裂く清冽な響き。彼女は透き通った甲高い声を張り上げ、わざと党首を罵倒し始めたのだ。
「この役立たずの無能者め! 無作法にも私に触れたことを一生後悔させてやるわ!」
ピシィッ!!
演出のために放たれた鞭が床を叩き、室内に鋭い音が響き渡る。その圧倒的な迫力と甲高い罵声に、クーシュ・ベルヌは思わず身を震わせ、恍惚とした表情を浮かべた。
「ひーっ、お許しください、女王様! せめてもの償いにご奉仕いたします!」
「は? 何を言っているの、あなたは。自分自身の口臭の酷さを自覚していないわけ? 庶民があなたのことを口臭・ベルヌと呼んでいるのを知らないのかしら? そんな口で私に奉仕するだなんて、馬鹿を言うんじゃないわよ!」
タチバナは圧倒的な迫力を女の魅力を放っていた。




