1-10 壊滅
だが、この山賊を巡る一連の騒動が完全に解決するよりも前、誰も気づいていない致命的な毒が、すでに国境砦の内部へと侵入していた。
山賊の捕虜やその家族の保護、物資の搬送などで大混乱に陥っていた国境警備隊砦の隙を突き、ガルディニア帝国軍の極秘工作員が難なく内部への潜入を果たしていたのだ。
後々アルカディア王国を揺るがすほどの重要人物になるディック・シャドウ改めディック・ブライトンがその名を轟かせる最初の戦いがこの後に発生することとなった。
帝国軍はこの年の晩秋の時期を見計らい、王国への侵攻計画を進めていた。帝国が晩秋を選んだのは、商隊を襲うことを避けていたからだ。商隊の行動を邪魔すればその後の外交問題が複雑化するため、商隊が完全に通過した後に軍事行動を起こすのが定石であり、今年もその流れ自体は変わらなかった。
帝国軍上層部の作戦会議では、侵攻の目的と経路が検討されていた。
「侵攻軍は一万だったな。目的はいつものように略奪か?それとも王都まで攻めるか?」
「略奪とは人聞きが悪いですな。我々は聖導教会のご意思に基づく平等実現のために働いております」
帝国では聖導教会の平等思想により、「神は結果の平等こそ正しいものと考えます。ゆえに貧しい者が富める者から奪うことは神の意思」と解釈されていた。ゆえに王国への侵攻と略奪も、彼らにとっては聖戦なのである。
「一万東西の街道に二分して送るが、細い街道にある王国の国境警備隊、あれは厄介だ。城壁に立てこもられると容易に突破できんし犠牲も出る」
「城壁がない街道を通れば良い」
「そうなのだが使う人が少なく整備されていないため荷馬車の行動が難しいのだ。今年の春も荷馬車が二十台以上、崖から落ちて犠牲者が出ておるし先月の大雨で崖が崩れたとも聞く」
「やはり城壁を突破するか」
「突破ではなく降伏勧告を出せばよかろう」
「毒を使う方法もある」
帝国軍上層部は、余計な損耗を避けるため、東西の侵攻部隊に国境警備隊を事前に無力化するよう命じた。春の侵攻では、王国側の街道城壁を避けてほとんど誰も使わない街道を進んだが今回は選ばず、街道を使って迅速に進軍する。そのためには、街道を塞ぐ城壁と国境警備隊を機能停止へ追い込まなければならなかった。
その命令を受けた東西の侵攻部隊は、それぞれ異なる策を立てた。東方では工作員を潜入させ、毒殺と暗殺によって司令部を壊滅させる。一方の西方では、司令官の私邸と家族を調べ上げ、その住所を記した降伏勧告を送りつけた。
「従わねば、この住所の者たちを帝国の客人として迎える」
脅迫に屈した西方北部国境警備隊司令部は、家族を連れて持ち場と王都の家を捨て、王国内地へ逃亡した。東西の国境警備隊はほぼ同時に頭脳を失った。
しかし帝国軍の不幸は東の国境警備隊にディック・シャドウがおり、そして西の国境警備隊にはまだ天才の片鱗すら見せていないとある二等兵がいたことだった。
司令部が血と混乱に染まったその直後、まるで計ったかのような最悪のタイミングで、ガルディニア帝国へ放っていた諜報員から決死の早馬が届けられたのである。
もたらされた凶報は、かねてより懸念されていた「帝国軍による大規模な王国侵攻作戦」がいよいよ発動された、という事実であった。
「五倍・・・・・・」
国境警備隊の兵士たちは一様に顔を青ざめさせた。人数差もさることながら国境警備隊の頭脳である司令部は完全に機能停止となっていたからだ。
さらに最悪だったのは、残された少尉と貴族出身准尉の全員、合わせて約六十人の動向だった。彼らは恐怖に駆られて戦意を失い、急病や領地の雑務を理由に、一斉に休暇申請書を早馬で送り、中央からの正式な返答を待たず、故郷へ逃げ帰ってしまった。
残ったのは、唯一の准尉であるディックと、上等兵以下の兵士たち、合わせて九百四十名であった。
後日、逃亡した将校たちは全員軍法会議にかけられた。しかし、最終的に処分を受けた者は一人もおらず、そのまま退役を認められた。
こうして東方国境警備隊から、少尉以上の指揮官は一人残らず消えた。唯一残った下級指揮官を最高位として、九百四十名の兵士が国境に取り残されたのである。文字通り、頭脳を失い、孤立した軍勢だった。
だが、この九百四十名の中には、一人の男がいた。
これまでの商隊護衛や山賊討伐において戦功を立て、異例の早さで准尉へ駆け上がった白銀の騎士、ディック・シャドウ准尉である。
司令部が壊滅し、貴族出身の将校たちが逃げ出したその日の昼。砦の薄暗い作戦室に、ディックと上等兵以下の中から選ばれた数人が集まり、緊急の軍議が開かれた。
しかし、集まった者たちの顔には絶望と困惑しかなかった。彼らは叩き上げの優秀な兵士ではあったが、数百、数千という大軍を率いた経験など誰一人として持っていない。中には小規模な実戦すら満足にこなしたことがない兵士も含まれていたのだ。
重苦しい沈黙が流れる中、古参の一等兵が、重い沈黙を破った。
「シャドウ准尉。商隊護衛では二十四人を一人も死なせず、狐狼熊討伐では崩れた部隊を立て直し、春の戦では五十騎で敵の輜重を焼いた。ここにいる者の中で、数百の兵を任せられるのは貴官だけだ」
視線が一斉にディックへと集中した。
会議の流れは自然と、そして必然的に「ディックを臨時司令官とし、その影たるドギーを副官に据え、彼らを中心に新たな臨時司令部を構築する」という案へと傾いていった。
ディック自身は己の若さと階級を鑑み、自分にはまだ時期尚早ではないかと内心で躊躇を覚えた。
「テイン殿、あなたは私よりも遥かに軍歴が長いし他の兵からの信頼もある。貴殿ではだめか?」
先ほど沈黙を破ってディックに指揮するように言って来た一等兵にそう言ったが、答えは否だった。
「准尉殿がいるのに一等兵が差し置いて指揮をしたら後で軍法会議にかけられてしまいます。私はまだこの年で死にたくありません」
円卓を囲む残された兵士たちの怯えた瞳を見渡した時、彼は強く確信した。ここにいる誰よりも、戦闘経験、そして部隊を率いた統率経験において自分以上の者は存在しないのだと。
ここで私が退けば、この千人弱の兵士たちは全滅し、王国の領土は蹂躙される。後で中央の貴族どもに「勝手に司令官を名乗った不届き者」と罵られようが、処分されようが構わない。ディックの腹は決まった。
ディックの前に静かに歩み寄ったドギーが、深く頭を下げて声を低くする。
「腹はお決まりになりましたかな、坊っちゃん。皆、あなたの言葉を待っておりますぞ」
「ここで坊っちゃんはやめてくれ、ドギー。分かった。臨時の指揮権は私が預かる。テイン殿もよろしいか。皆、力を貸してくれ!」
ディックが静かに、しかし決然と告げると、室内の空気が一瞬にして引き締まった。
「は! 臨時司令官殿の指示に従います!」
そこからのディックとドギー、そして兵士たちの動きは凄まじかった。ディックはすぐさまドギーを傍らに呼び寄せ、砦に保管されていた国境地帯の地図を広げて作戦立案に取り掛かったのだった。
「臨時司令官、提案があります」
「申せ」
「進路上の村々を先に退避させ、家屋と穀物庫を焼きます。ただし、我々が誘導したい街道の先にだけ、帝国軍が発見できる程度の糧食を残す。略奪を目的とする敵なら、餌のある道を選ぶ可能性が高まります 」
「却下だ」
「なぜですか?」
「村に被害が出る。村の被害を無くすのが防衛軍の役割だ」
「しかし我々が戦って敗れればその後多くの村民が死に、女子供が連れ去られます。五倍の敵軍に勝ち、村を守れますか?」
「村を焼かずに、地形だけを利用して迎え撃つ方法はないのか」
「敵がどの街道を選ぶか分かりません。何も仕掛けなければ、最も可能性の高い街道でも四割ほどです」
「ならば、村を焼き、糧食を餌として選ばせるしかないというのか」
「はい。敵に道を選ばせるのではなく、我々が選ばせるのです」
「ディック様。家は失っても、村民の命は守れます。帝国軍を追い払った後、我々の手で必ず村を再建しましょう!」
「だがな、再建費用はどうなる?国が出してくれるのか?」
「ディック様。私たち軍隊は工作部隊を持っているほどですよ。家屋や小屋などは大工ほどの腕前はありませんが、平民が住む家屋くらいならいくらでも建築できます。生き残ったら皆で作りましょう!」
「なんだと!軍はそんなこともできるのか?」
「材料は木材ですし、ある程度は何とかなります。どうしても購入しないとならないものは何とかやりくりしましょう!」
ディックはこの国境警備隊へ来る前の一年間を思い出さずにはいられなかった。ディックは目を閉じ、旅の途中で出会った村人たちの顔を思い浮かべた。生きていればこそ、だ。
「そうだな。家は建て直せる。だが命は戻らない。兵も民も、死なせないための戦いだ。苦渋だが、その策を採用する 」
こうしてディック率いる国境警備隊は帝国軍がこの国境を越えた後に進軍する可能性のある街道の先にある村を焼き払う決断をしたのだった。
そして次は具体的な戦闘作戦だ。帝国の進軍すると思われる街道、地形の利、罠を仕掛けるべき急所。ディックの頭脳から溢れ出る戦術は、精密な機械のようだった。
そしてディックは大きな決断をした。それは黒人兵に関することだ。黒人兵は二等兵ではあったが今まで何度となく黒人兵の驚異的な剣技を見てきた。その圧倒的な武力は非常に強力な突破力になる。
そこでディックは今作戦における重要な決定として、黒人兵を右翼部隊の臨時騎馬隊長に任命したのだった。
「ディック様、私が右翼騎馬隊長ですか?任が重すぎます」
「そうか。でもな、お前にできなければ全員が死ぬぞ。あまり気にするな、お前のことは分かっている。自信を持て!」
「は!」
こうしてあくまでも臨時ではあったが王国史上初となる黒人騎馬隊長が誕生した瞬間であった。
そしてその他の作戦の細部が詰められていった。ドギーが実務的な補正を加え、他の一等兵たちが現場の兵の動線を詰め、ほぼ修正の余地がないところまで完璧に作戦が練り上げられた時、気がつけば窓の外は深い深夜を過ぎ、東の空が白み始めていた。
「ハァ、完璧な陣立てですな。これなら五倍の敵とも対等以上に渡り合えますぞ」
ドギーが地図から目を離し、感心したように深く頷く。
しかし、斥候からの最新報告によれば、帝国軍の侵攻はもう「二日後」にまで迫っていた。一刻の猶予も許されない。
翌朝、夜明け直後の冷たい空気が満ちる砦の広場に、国境警備隊の全将兵、九百四十名が非常召集された。
整列する兵士たちの間には、司令部壊滅の噂と、帝国軍襲来の恐怖から不穏な動揺が広がっていた。
その視線の先、かつて大尉や中尉といったきらびやかな貴族たちが立っていた壇上に、ただ一人、白銀に光る実戦用の鎧を身にまとったディックが歩み出た。
ディックは全軍を見渡し、腹の底から響く声で真っ直ぐに言い放った。
「皆、よく聴いてくれ! すでに察している者もいるだろうが、帝国軍がこの国境を目指して進軍している。その総数はおよそ一万。この東方国境には五千が向かっている。彼らがここに到達するのは、およそ二日後だ!」
広場に、蜂の巣をつついたような激しいざわめきが沸き起こった。五倍の兵力差、しかもこちらは司令官不在なのだ。しかし、ディックはひるむことなく、さらに声を張り上げた。
「だが、恐れるな! 敵の首をすべて獲ることは叶わずとも奴らの鼻っ柱をへし折り、この国境から叩き出すための作戦は、すでに組み上げてある! 中央への援軍要請も出したが、到底二日後には間に合わない。つまり、我々の手だけで奴らを追い払うしかないのだ!」
ディックは拳を固く握り締め、全兵士の瞳を正面から見据えた。
「お前たちの力を、この私に貸してほしい! これを臨時ではあるが出陣式とする。神父は祝福を!」
しかし、普段ならそこにいるはずの教会神父の姿はなかった。この出陣式の前に神父が逃げ出していたという報告を、ディックはすでに受けていた。だが彼はあえて神父の名を呼んだ。
民に信仰を説きながら、危機には誰より早く逃げるのか。 込み上げる苦々しい言葉を喉の奥へ押し込み、ディックは冷徹な眼光で静まり返る全軍を見回すのだった。
ディックの堂々たる宣言と、微塵の揺らぎもない青い瞳の輝きに、一般兵たちの動揺は一瞬で吹き飛んだ。
「この御方なら、本当に五千の敵軍勢を退けるかもしれない」
そんな奇妙な熱狂が、平民兵たちの胸に燃え上がったのだ。
ディックは即座に、練り上げた作戦に基づいて部隊を四つに分割した。
実戦を担う「右翼部隊」と「左翼部隊」、戦況に応じて柔軟に戦場を駆け巡る「遊撃部隊」。そして、今回の防衛作戦において最も重要な鍵を握る、文字通りの命綱である「工作部隊」だ。
ディックは工作部隊に三百名を割り当て、残りの兵員を三つの部隊へ均等に振り分けた。これにより、他の三部隊はおよそ二百名ずつの編成となった。
全軍の再編が終わるや否や、ディックは真っ先に工作部隊の指揮官を呼び寄せ、極秘の作戦指示を与えた。
「お前たちの働きが、この戦いの勝敗を左右する。頼んだぞ」
「はっ! 臨時司令、必ずやご期待に応えてみせます!」
重任を帯びた工作部隊は、ディックの指示通り、その日のうちに輜重隊を伴い、大量の資材とともに砦を静かに出発していった。帝国軍が押し寄せる予定の戦場へ先回りし、勝利のための舞台を整えるために。
動き出した運命の歯車。
「さて、命を張る時が来ましたな、坊っちゃん!」
「本当なら、命を張るのは俺一人でいい。だが今は、皆の命まで預からなければならない。必ず勝って帰るぞ」
そして工作部隊の進発直後にディックは百人規模の兵員を伴って帝国軍の侵攻が想定される村々を回り始めた。
「村長と聖導教会の神父はいるか」
村へ出向いたディックは村長と神父を呼び出し、伝えた。
「これから帝国軍がこの地に攻め入ると思われる。帝国軍の目的は穀物、女子供の略奪だ。それをさせぬため、そして帝国軍を追い返すためにも協力を要請したい」
「協力といっても村では戦えるような者はおりません。神父様、お願いします」
「わ、我々教会も無理であるぞ!」
「分かっております。協力というのは・・・」
ディックが求めたのは、村人全員の避難、穀物の搬出、そして家屋の焼却だった。村付きの聖導騎士団は国境警備隊へ合流し、神父には老人や子供を含む避難民を、侵攻経路から外れた後方の村まで導いてもらう。
それを説明すると村の若い者が飛び上がって発言した。
「将軍さんよ、家を自分の手で焼け、っていうのか?できるわけがないだろう!避難だって小さな子供と老人がいるんだ、できない!そもそも軍隊は王国民を守るのが仕事だろう!」
「すまない、君の言う通りだ。しかしな、敵軍は我が方の五倍なのだ。まともに戦えば一刻も保たん。我が軍が敗れればどのみち帝国軍はこの村にも来て穀物をすべて奪い、女子供も奪って行く。帰りにはすべては火の海だ。男どもは全員殺されるだろう。」
「だからといって自分の手で火をつけることはできない」
「帝国軍は村を略奪後に必ず井戸水に家畜の死体、もしくは毒物を投げ込む悪癖がある。それをされるともうその井戸はその後何年も使えなくなる。でもな、略奪する価値がない村とわかれば何もせずに素通りする可能性が高いのだ。井戸が生きていれば戻って村を再建できる。どうだろう、協力してもらえないだろうか。人間、死ねば終わりだが生きていれば必ず光はある!」
「しかし、これでは我々だけ大損じゃないか。この村を管理するお貴族様は家の再建をしてくれるのか?」
「私に王国の財を自由にする権限はない。だがな、軍は民家の建築くらいはできる。これは軍の命令で失わせる家だ。必ず再建させる。私が責任を負う 」
「本当に家を建て直してくれるんだな。口約束ではないんだな」
「ああ、ディック・シャドウの名にかけて!」
村を捨てる悲しみ、家を焼く辛さは一年間の流浪生活で痛いほど分かっていたのだ。村と家は拠点であり、根っこであった。それを自ら捨てることはいずれ戻るとはいえ死ぬよりも辛いことかもしれぬ。
「お婆さん、私が約束します。お婆さんをまた必ずこの村に戻します。お宅も立て直します。命に変えても新しい家を、豊かな村を再建してみせます。だからどうか生きて戻ってください。それまでお元気で」
ディックは配下の兵に指示を出し、大量の荷車を使い穀物倉庫を空にした。村人各自は最低限の貴重品だけを持ち出し、穀物荷車と一緒に移動をし始めた。それを見たディックは静かに言った。
「火を放て、建物を焼き払え!ここに価値のあるものはまったくないように見せかけろ。あとは井戸を隠せ。厳重に蓋をしめた後に土砂を被せろ」
炎を映したディックの頬を、一筋の涙が伝った。村人は歩きながら時折振り返り、村から立ち上る煙を見ては複雑な表情をしていた、という。その瞳には故郷を失う悲しみと、本当に帰ってこられるのかという不安が入り混じっていた。
そうしてディック率いる東方北部国境警備隊は、近隣の村々から住民と物資を退避させ、家屋を焼き払った。ただし、帝国軍を誘い込みたい街道沿いの一村だけは、住民を避難させたうえで焼かずに残した。その村には、敵が発見できる程度の糧食だけを置いた。さらに、撤退の途中で慌てて落としたように見せかけ、街道上へ穀物袋を点々と置かせた。
餌を追ってその街道を進めば、帝国軍はディックが選んだ渡河地点へ到達する。
五倍の敵に、正面から勝つことはできない。
「ならば、敵が正面から戦えない戦場を作ればよい」
ディック・シャドウ最初の大きな戦が、始まろうとしていた。




