第8話「12月10日」
それから、2週間ほどが経った。
11月25日の海以来、僕とちはるは、また少しずつ言葉を交わすようになっていた。
大学で顔を合わせれば、自然と挨拶をする。
授業が終われば、少しだけ並んで歩く。
メッセージのやり取りも、毎日ではないものの、徐々に増えていった。
『今日の授業眠かった~』
『分かる。教授の声が子守歌に聞こえた』
『新山くん、絶対寝てたでしょ』
『寝てない』
『嘘つき笑』
そんな、他愛のないやり取り。
しかし。
僕にとっては、その一つひとつが大切だった。
未来では、こうした何気ない会話が当たり前のように存在していた。
「今日何食べる?」
「疲れた」
「おかえり」
「おやすみ」
そうした何でもない言葉が、どれほど幸福なものだったのか。
僕は今になって、ようやく気づき始めていた。
12月に入ると、街は一気にクリスマスの雰囲気へと染まった。
表参道のイルミネーション。
店先に並ぶクリスマスツリー。
大学内でも、クリスマスの予定について話す学生が増えていた。
僕はスマートフォンのカレンダーを何度も確認した。
12月10日。
予定通りであれば、今日はちはると2人で食事をする日。
そして12月25日。
僕たちは付き合う。
少なくとも、僕の記憶ではそうだった。
だから、それまでは余計なことはしない。
そう決めていた。
……決めていたはずだった。
「新山くん」
「ん?」
「今日、一緒に帰ろうよ」
「うん」
気がつけば、ちはるの隣を歩くことが自然になっていた。
それでも僕は、彼女との間に一定の距離を保っていた。
未来を変えたくない。
それが一番の理由だった。
けれど。
少し怖かったのかもしれない。
未来を知っている自分が、現在の彼女に恋をすることが正しいのか分からなかった。
それに、森先輩が言ってきたことも信じてもないが、気になっていた。
そんなある日の帰り道。
「ねえ、新山くん」
「なに?」
「12月10日って、空いてる?」
思わず足が止まりそうになった。
「……なんで?」
「なんでって」
ちはるが笑う。
「ご飯行こうよ」
「……」
僕は無意識にスマートフォンを取り出した。
カレンダーを開く。
予定は入っていない。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん」
「やった」
ちはるが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなる。
未来と同じだ。
やはり。
僕たちは同じ未来へ向かっている。
そう思った。
――その夜までは。
12月10日。
大学の授業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「新山くん、どこ行く?」
「どこでもいいよ」
「またそれ?」
ちはるが笑う。
「じゃあ、今日も私が決めるね」
「お願いします」
「ふふ。ついてきて」
2人で表参道を歩く。
12月の夜は冷え込んでいた。
街路樹にはイルミネーションが灯り、行き交う人々もどこか楽しげだった。
ちはるは何度も足を止め、ショーウィンドウを眺めていた。
「これ、可愛い」
「こういうものが好きだったんだ」
「だって、クリスマスだよ?」
「まだ2週間あるけど」
「2週間しかないの」
「そういうもの?」
「そういうもの」
僕は小さく笑った。
こうした会話をしていると、本当に未来に戻ったような錯覚を覚える。
いや。
違う。
戻ったのではない。
今、僕はここにいる。
しばらく歩いた後、ちはるが一軒のイタリアンを指差した。
「ここにしよう」
「いいよ」
店に入ると、暖かな空気が冷たい身体を包んだ。
席に案内され、向かい合って座る。
「何食べる?」
「ちはるさんが決めていいよ」
「またそれ?」
「僕、なんでも良いからさ」
「じゃあ、これ」
料理を注文し、しばらくして運ばれてきた。
「いただきます」
「いただきます」
二人で食事を始める。
大学の話。
就職活動の話。
クリスマスの話。
「新山くん」
「ん?」
「最近さ」
ちはるが箸を置いた。
「私と一緒にいて、楽しい?」
「……うん」
「本当に?」
「本当」
「なんか、最初の頃より優しくなったよね」
「そうかな」
「うん」
ちはるは少し考えるように視線を落とした。
「最初は、私のことを遠くから見てる感じだった」
「……」
「今は、ちゃんと見てくれてる気がする」
僕は何も言えなかった。
ちはるはまっすぐ僕を見る。
「どうして?」
「……何が?」
「どうして、そんなに私のことを気にしてくれるの?」
「それは……」
言葉に詰まる。
「好きだから?」
「……」
ちはるの目がわずかに見開かれた。
僕自身も驚いていた。
こんなに早く伝えるつもりはなかった。
未来では、まだ12月25日。
そこで僕たちは付き合った。
だからこれは、未来とは違う。
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや、急だったから」
ちはるはしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「嬉しい」
「……え?」
「私も、新山くんのこと、好きかもしれない」
「……」
心臓が大きく跳ねる。
未来の僕は知っている。
この人と結婚する。
それでも。
今の僕にとっては、初めて聞く言葉だった。
彼女が浮気をしたかもしれないという事実を。
「でもね」
ちはるが続ける。
「少し怖い」
「……何が?」
「新山くんと付き合うこと」
また、その言葉だった。
海で聞いた言葉。
森先輩の存在。
浮気の噂。
僕は箸を置いた。
「森先輩のことが気になってる?」
「……違う」
ちはるは首を横に振る。
「じゃあ、何が怖いの?」
少しの沈黙の後、ちはるはゆっくりと口を開いた。
「私が新山くんと付き合ったら、また、何か言われるんじゃないかって」
「……」
「森先輩に」
その名前を聞いた瞬間、あの日の電話が蘇った。
――ちはるのことは、あまり簡単に信用しない方がいい。
僕はずっと考えていた。
その言葉の意味を。
しかし今、目の前のちはるを見ていると、僕が向き合うべきは森先輩の言葉ではない気がした。
「ちはるさん」
「ん?」
「俺は、ちはるさんのことを信じるよ」
いや、信じたい。
「……」
「全部は知らないけど」
「……」
「これから知っていけばいいと思ってる」
ちはるは黙ったまま僕を見つめていた。
「ゆっくりと」
僕は少しだけ笑った。
「……」
しばらくして、ちはるの目がわずかに潤んだ。
「新山くんって……」
「ん?」
「本当に変な人だね」
「よく言われる」
「ふふ」
ちはるが笑う。
「でも、そういうところ好き」
その日の帰り道を、二人で歩いた。
以前よりも少しだけ近い距離を何度か肩が触れながら、どちらも離れなかった。
駅に着く。
「今日はありがとう」
「こちらこそ」
「楽しかった」
「俺も」
「またご飯行こうね」
「うん」
ちはるが改札へ向かう。
数歩進んだところで振り返った。
「新山くん!」
「ん?」
「クリスマス、空けておいてね」
僕は一瞬、言葉を失った。
12月25日は、僕たちが付き合う日。
「分かったよ」
「約束だよ」
ちはるは笑って、改札の向こうへ消えていった。
その姿が見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
そしてスマートフォンを取り出し、カレンダーを開く。
しかしその夜。
帰宅途中の電車内で、スマートフォンに一件のメッセージが届いた。
知らない番号。
開くとそこには短い文章があった。
『ちはると付き合うつもり?』
僕は画面を見つめた。
送信者は、考えるまでもなかった。
続けてもう一件。
『やめておいたほうがいい』
森先輩だった。
僕は返信せずに、ただスマートフォンを伏せる。
窓の外を流れる街の光を眺めながら、思う。
未来は、まだ変わっていない。
電車が動き出す。




