第7話「11月25日」
そして、11月25日。
僕は午前授業を終え、大学を出るふりをしてちはるから声をかけてくれるのを待ってみた。
「新山くん」
背後から声がして、振り返ると、ちはるだった。
一瞬、心臓が跳ねた。
「……どうしたの?」
「今日、このあと予定ある?」
「ないけど」
「じゃあ、ご飯に行かない?」
僕は黙った。
11月25日。
紙に書いた日付と同じだが、今日はドライブのはずだ。
ちはるが声をかけてくれることを待っていたけれど、予定と違う。
それとも――。
何処かで間違えてしまったのか。
「新山くん?」
「あ、ごめん」
僕は慌てて答えた。
「行こう」
「ほんと?」
「うん」
ちはるが笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に妙な疑心感と不安が広がった。
だめだ。
「ごめん。」
「何?予定、やっぱあったかな?」
未来が変わってしまうのは、いやだ。
「あのさ...急で引いたらごめんなんだけど...」
「うん?」
「ドライブにしませんか?」
不思議そうにこちらを覗き込むちはる
「うん、ありがとう」
ちはるはわずかに俯きながら、嬉しそうに笑った。
その表情を見ていると、胸の奥がかすかに熱を帯びる。
未来の彼女と同じだ。
少なくとも、ここまでは。
「じゃあ、車取ってくるから少し待ってて」
「うん、お願い」
25日のために備えて、レンタカーをしておいた。
大学の駐車場へ向かう途中、僕は何度もスマートフォンを確認した。
11月25日。
予定通りだ。
この日にちはるとドライブに行き、その後、僕たちは少しずつ距離を縮めていく。
そして12月10日。12月25日。
その先に、僕たちの未来がある。
――そうだったはずだ。
「春樹!」
遠くから海介が手を振っている。
「お前、車持ってたのか?」
「レンタカーだよ」
「へえ。今日は本気だな」
「何が?」
「いやいや。ちはるちゃんと2人でドライブだろ?」
海介は意味ありげに笑う。
「余計なこと言うな」
「はいはい。楽しんでこいよ」
「ありがとう」
海介と別れ、車へ向かう。
海介が僕に言った、ちはるの噂話は彼にとっては、何事もないのかもしれない。
ただ、ちはるのことを好きという僕に対してのただの情報提供だったの過ぎないと思う。
「お待たせ。待った?」
「ううん、全然」
「じゃあ、行こっか」
「うん!」
助手席にはちはるが座り、エンジンをかける。
ゆっくりと大学を出る。
最初は、他愛のない会話が続いた。
ちはるは楽しそうに話していた。
僕は運転しながら、その声に耳を傾けていた。
――懐かしい。
未来のちはると話しているような感覚だった。
「ねえ、新山くん」
「ん?」
「今日、どこ行くの?」
「海まで行こうと思ってる」
「海?」
「嫌だった?」
「ううん!」
ちはるが嬉しそうに笑う。
「海、好きだよ」
「……そうだったね」
「え?」
「いや、何でもない」
思わず口元が緩む。
未来のちはるも海が好きだった。
一緒に海へ行ったこともある。
そのときの写真も、スマートフォンに残っている。
――ただ。
その海に行ったとき、海介も一緒だった。
ふと、その記憶がよみがえる。
今思えば、あの頃から少しずつ関係は変わり始めていたのかもしれない。
車は大学から徐々に離れていく。
窓の外の景色が、都市部から住宅街へと移り変わっていった。
しばらくして、ちはるが窓の外を見ながら口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「新山くんってさ」
「うん」
「私のこと、どう思ってる?」
突然の質問だった。
「どうって?」
「その……」
ちはるは少し黙る。
「私のこと、好き?」
ハンドルを握る手に力が入る。
「……なんで?」
「なんとなく」
「そんなに分かりやすい?」
「うん」
ちはるは笑った。
「すごく見てくるから」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
少しの沈黙。
「私も……」
「ん?」
「新山くんのこと、気になってる」
心臓が大きく跳ねた。
未来で何度も聞いた言葉なのに。
今の僕には、初めての言葉だった。
「……そう」
「うん」
「ありがとう」
「何それ」
ちはるが笑う。
「告白みたいじゃん」
「……かもね」
「ふふ」
二人の間に、穏やかな時間が流れた。
しかしその後、ちはるはふと窓の外へ視線を向けた。
先ほどまでの笑顔が消えている。
「……でもさ」
「ん?」
「ちょっと怖いんだよね」
「何が?」
「新山くんと仲良くなること」
「……」
「正確には、周りの目」
僕はわずかに眉をひそめた。
「周りの目?」
「うん」
ちはるは窓の外を見たまま続ける。
「私、大学であんまり良く思われてないから」
「そんなことないだろ」
「あるよ」
「なんで?」
「……聞いてない?」
「何を?」
ちはるはしばらく黙り、静かに息を吐いた。
「私、浮気したって噂されてるんだよね」
心臓が一瞬止まりかけた。
海介から聞いた話と同じだった。
「……元カレのこと?」
ちはるが驚いたようにこちらを見る。
「知ってるの?」」
「そっか……」
ちはるは俯いた。
「やっぱり聞いてたんだ」
「でも、俺は信じてないし、あんまりしらない」
「……なんで?」
「ちはるさんが、そんなことするように見えないから」
「……」
ちはるはしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「私、去年まで森先輩と付き合ってたんだ」
「そうなんだ。」
初耳で驚いたのと同時に、自分の身近な人であることに少し嫌な思いがした。
「最初は、本当に好きだった」
ちはるの声は静かだった。
「優しかったし、大事にしてくれてた」
「だけどね、私から別れたの」
「……」
「嫌いになったわけじゃない。ただ、少しずつ違うなって思うようになって」
ちはるは窓の外を見る。
「私に対して、凄く執着というか、束縛というか……そういう小さい違和感が積み重なって」
「うん」
「だから、ちゃんと話して別れた」
「森先輩は納得したの?」
「最初はね」
ちはるの表情が曇る。
「でもその後……」
「何?」
「私が他の男と浮気してたってミスコンの皆に言い始めて」
僕は黙った。
「もちろん、そんなの事実じゃない」
「うん」
「でも、誰も信じてくれなかった」
「……」
「森先輩、サークルでも人気あったし、私より長く付き合いある人も多くて」
ちはるは自嘲気味に笑う。
「気づいたら『ちはるは浮気してたらしい』『準ミス取ったら、すぐに調子乗った』って広まってて」
「……それで?」
「サークルでも陰で言われるようになった」
「そんな……」
「目の前では普通なのに、いないところで悪口言う人もいてさ」
ちはるは笑っている。
でも、その笑顔はどこか寂しかった。
「なんで否定しなかったの?」
ちはるは少し考えてから答える。
「……めんどくさかったから」
「え?」
「違うか」
少し間を置いて。
「怖かったんだと思う」
「……」
「何言っても、言い訳って思われそうで」
ちはるは自分の手を握る。
「だから、何も言わなかった」
「……」
「時間が経てば分かってもらえると思ってた」
「でも……」
「うん」
ちはるは苦笑した。
「分かってもらえなかった」
車内に静寂が落ちる。
僕は前を見たまま、何も言えなかった。
未来の僕は、この話を知らない。
いや。
ちはるは、僕に話さなかったのだ。
結婚してからも。
病室で二人きりになってからも。
一度も。
その理由が、少しだけ分かった気がした。
「……ちはるさん」
「ん?」
「俺は最初からそんな噂、信じてなかったよ」
「……」
「ちはるさんが浮気してないって」
ちはるがこちらを見る。
「ほんとに?」
「うん」
「なんで?」
僕は少し笑った。
「嘘つくような人に見えないし、喋ったら分かるじゃん」
「……」
「ねえ、新山くん」
「ん?」
「海、まだかな?」
「え?」
「楽しみだな~」
ちはるが笑う。
海が見えた。
水平線がゆっくりと光を反射している。
「わぁ……綺麗だね」
僕たちは、海の近くの駐車場に車を停めて砂浜に出た。
「新山くん?聞いてた?」
「ん?」
「もう!私、冬の海が好きなんだ」
ちはるが海を見ながら言った。
その横顔は、風に髪を揺らされながらもどこか楽しそうだった。
「……どうして?」
僕は知ってる。
「なんか、黒くてサスペンスドラマの犯人が追い込まれる時を思い出さない?」
やはり、そうだった。
けれど、その言葉が妙に嬉しかった。
未来の僕は、ちはると何度も海に来た。
そのたびに、彼女は同じことを言った。
「冬の海って、ちょっと怖いよね。でも好き」
まるで決まり文句みたいに。
一緒に写真を撮ったこともある。
夕日を眺めながら、他愛のない話をしたこともある。
そんな記憶が、次々と頭の中に浮かんでくる。
けれど。
今、僕の隣にいるちはるは、まだ僕の妻ではない。
彼女は僕のことを何も知らない。
僕も、今の彼女のことを何も知らない。
それでも。
「また来ましょうね」
そう言ってくれた。
その事実だけで、十分だった。
帰り道。
ちはるは助手席で眠っていた。
窓に頭を預け、静かな寝息を立てている。
僕は赤信号で車を止め、ちらりと彼女を見る。
昔から、寝ているときは無防備だ。
そんなことを思い、少しだけ笑った。
未来の僕は、この寝顔を何度見ただろう。
けれど、今は違う。
これは僕にとって、初めて見る寝顔だ。
そう思うと、不思議な気持ちになった。
スマートフォンが震えた。
海介からだった。
『今どこ?』
僕は短く返信する。
『もう帰るところ』
送信して、スマートフォンをポケットにしまった。
そのときだった。
再びスマートフォンが震えた。
今度は知らない番号だった。
一瞬迷ったが、通話に出る。
「もしもし?」
『新山くん?』
男の声だった。
「……はい」
『森です』
その名前を聞いた瞬間、僕は無意識にハンドルを握り直した。
ちはるの元恋人。
今日、海で聞いたばかりの名前だった。
『ちはると、最近よく会っているみたいだね』
「……何のご用ですか?」
『いや、別に』
森は淡々とした口調で続けた。
『ただ、一つだけ伝えておこうと思って』
「……」
『ちはるのこと、あまり簡単に信用しない方がいい』
僕は何も答えなかった。
『じゃあ』
通話は一方的に切れた。
車内に静寂が戻る。
隣では、何も知らずにちはるがまだ眠っている。
僕はスマートフォンの画面を見つめた。
森が何を知っているのか。
なぜ、わざわざ電話をしてきたのか。
そして。
ちはるが語らなかった「過去」に、何が隠されているのか。
まだ何も分からない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
僕が知っている過去と。
これから知る過去は。
どうやら同じものではないらしい。
車を走らせる。
夕暮れの海が、ゆっくりと遠ざかっていく。
助手席のちはるは、まだ眠っている。
僕は前を向いた。
――この人のことを、もっと知りたい。
ただ、それだけだった。
そして、その夜。
駅に着いても、ちはるはまだ目を覚まさなかった。
その寝顔を見下ろしながら、僕はしばらく動けなかった。
森先輩の言葉が、頭の奥で何度も反響している。
「信用しない方がいい」
その意味を考えようとするたびに、逆に何も掴めなくなる。
やがて、ちはるのスマートフォンが小さく光った。
テーブルの上で、短く震える。
画面には、通知だけが表示されていた。
――「また会いたい」
送信者の名前は、表示されていない。
僕はその画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
今、僕の隣にいるちはるは、まだ僕の妻ではない。
彼女は僕のことを何も知らない。
僕も、今の彼女のことを何も知らない。
そのとき、背後で小さな声がした。
「……新山くん?」
振り返ると、ちはるが目をこすりながら起き上がっていた。
「ごめん、寝ちゃってた……」
いつもの、何も知らない顔。
僕は一瞬だけ迷ってから、スマートフォンの画面をそっと伏せた。
「ううん。大丈夫」
そう答えるしかなかった。




