6.無理な日は無理
(……もしかして、ここに戻るまで我慢していらっしゃる?)
エマは、しばらく扉を見つめていた。
———数日後
その日も、アデラインには朝から予定が詰まっていた。
午前中は侯爵夫人に付き添って外出。
昼は会食。
午後には茶会が二つ。
そして夜
「ただいま戻りました」
玄関に現れたアデラインは、いつも通りだった。
背筋を伸ばし、少しだけ顎を上げている。
出迎えた使用人にも
「遅くまでありがとう。もう休んでちょうだい」
と声をかけた。
美しく、優雅で、隙がない。
いつものアデライン・グランヴェールだった。
だが、自室の扉が閉まった途端、アデラインは寝台へ倒れ込んだ。
「……」
エマは黙ってその姿を見つめた。
いつもなら、
『アデライン様。お着替えしますよ』
と言うところだ。
そして、
『……着替えてる』
と返される。
だが今日は、何も言わないことにした。
エマはまず、アデラインの靴を脱がせる。
「……何?」
「お気になさらず」
次に、髪飾りを一つずつ外していく。
アデラインは寝台に伏せたまま、されるがままになっていた。
「……着替えなら、あとで」
「はい」
返事をしながら、エマはドレスの留め具を外した。
「……」
「……」
「エマ」
「はい」
「あとでってば」
「はい」
「聞いてるの?」
「もちろんです」
「そう」
アデラインはそれ以上何も言わなかった。
エマはアデラインを起こさないように、寝台に横になったままドレスを脱がせていく。
以前、アデライン本人がやっていたのを見ている。
(……まさか、こんなところで役に立つとは思わなかったけれど)
少し腕を上げてもらい、少し身体を傾けてもらう。
エマが手を添えれば、アデラインは言われなくても動いた。
やがてドレスが脱げる。
そのまま部屋着を着せた。
「……あなた器用ね」
「お嬢様を見て学びました」
「…そう」
褒め言葉かどうかはわからない。
エマは用意しておいた温かい布を手に取った。
「少し失礼しますね」
返事はなかった。
まず、顔を拭く。
化粧を落とし、額を拭き、頬を拭く。
アデラインが目を閉じた。
首元も、手も拭いていく。
もちろん湯浴みとは比べものにならない。
けれど、何もしないよりはずっといい。
(今日は、これでいい)
エマは温かい布を置くと、温めた香油でアデラインの足を軽く揉む。
「……」
「痛みますか?」
アデラインは首を横に振った。
それから少しして、
「……気持ちいいわ」
と、小さな声で言った。
「そうですか」
エマはそれ以上、何も聞かなかった。
今日の茶会はどうでしたか。
楽しかったですか。
お疲れですか。
明日の予定は。
何も聞かない。
アデラインも、何も話さなかった。
しばらく足を揉んだ後、エマは寝台の脇に果実水を置いた。その隣には、一口で食べられる小さな菓子。
寝台の上で食べても、ぼろぼろと崩れないものを選んだ。間違っても蜂蜜菓子はだめだ。
「こちらに置いておきますね」
「……何を?」
「果実水とお菓子です」
「そう」
「お腹が空いたらどうぞ」
「ええ」
エマは部屋を見回した。
髪飾りは外した。
ドレスも脱がせた。
顔も拭いた。
部屋着も着ている。
湯浴みはしていない。
髪も梳かしていない。
いつものエマなら、まだ足りないと思っただろう。
だが今日は…
(これで十分)
「では、お休みなさいませ」
エマは灯りを少し落とした。
「エマ」
「はい」
「…湯浴みって言わないのね」
エマは振り返った。
アデラインが、寝台に横になったままこちらを見ている。
「今日は結構です」
「…あなたが」
「はい」
「私に、…湯浴みをしなくていいと?」
「はい」
「……」
アデラインは、少し不思議そうな顔をした。
「明日、入っていただきますので」
「嫌よ」
「それは明日お聞きします」
「そう」
アデラインは目を閉じた。
エマは小さく笑い、部屋を出た。
———翌朝
「おはようございます、アデライン様」
「……おはよう」
アデラインは寝台の上で身体を起こした。
そして、しばらく自分の格好を見ていた。
「……私、着替えたかしら?」
「いいえ」
「そう」
「私が着替えさせました」
「そういえば…そうだったわね」
どうやら、覚えてはいるらしい。
アデラインは寝台の脇に目を向けた。
果実水は空になっている。
菓子もなくなっていた。
「エマ」
「はい」
「昨日のお菓子」
「はい」
「また用意しておいて」
「お気に召しましたか?」
「寝ながら食べやすかったわ」
「……ふふ、そうですか」
(そこなのか)
エマは少しだけ呆れた。
だが
「承知しました」
と答えた。
アデラインは、いつものように本へ手を伸ばした。
エマはその姿を見つめる。
昨日の夜、アデラインは湯浴みも、着替えもしようとしなかった。
けれど
(何もしなくていい日があっても、いいのかもしれない)
エマはそう思った。
手助けできるなら手助けをする。
嫌がるのなら、楽しみを用意する。
それでも無理なら…
(その日は、私がやればいいか)
「アデライン様」
「何?」
「湯浴みをいたしますよ」
「嫌よ」
「昨日は見逃しました」
「今日も見逃して」
「嫌です」
「……」
アデラインは本で顔を隠した。
「昨日は優しかったのに」
「昨日は昨日です」
「……そう」
いつもの朝が始まった。




