3.馬における人参の発見
——今日も着替えさせることには失敗した。
エマは、何も言えなかった。
だが、何も言えなかったからといって、諦めたわけではない。
「お嬢様、湯浴みをいたしますよ」
「嫌よ」
「三日目です」
「昨日したわ」
「していません」
「したわよ」
「浴室係に確認済みです」
「……」
「湯浴みをいたしますよ」
「嫌よ」
エマは深く息を吐いた。
アデラインは長椅子に寝転がり、本を読んでいる。
今日も予定はないので寝間着だ。
髪はかろうじて結んでいるが、それも朝食のスープに入りそうになったからだ。
「アデライン様」
「何?」
「湯浴みをなさった後は、いつも気持ちがいいとおっしゃいますよね?」
「ええ」
「では、入りましょう」
「嫌よ」
「……」
エマは一度、目を閉じた。
「湯浴みをして、後悔したことはございますか?」
「…ないわね」
「でしたら」
「それとこれとは別よ」
「何が別なのですか?」
「入った後の話と、今入りたくない話よ」
「同じ湯浴みの話ですよ?」
「でも今は入りたくないもの」
アデラインは平然とページをめくった。
エマには、さっぱりわからなかった。
湯浴みをすれば気持ちがいい。
そのことは本人も知っているし、後悔したこともない。
それなのに、入りたくない。
「では、いつなら入るのですか?」
「そのうち」
「そのうちとは?」
「そのうちはそのうちよ」
「今日ですか?」
「違うわね」
「明日ですか?」
「明日にならないとわからないわ」
「では明日になったら…」
「その時考えるわ」
エマは天井を仰いだ。
『早々に諦めることも手です』
マーサの言葉が、今になって重くのしかかる。
「……わかりました」
「あら」
アデラインが本から目を上げた。
「諦めたの?」
「はい」
「そう」
どこか満足そうに、アデラインは再び本へ視線を戻した。エマは部屋を出ようとした。
そして、ふと思い出す。
「そういえば」
「何?」
「せっかく、湯浴みの後に召し上がっていただこうと思っていたのですが」
「何を?」
「先ほど、厨房で林檎のパイが焼き上がったのです」
ページをめくる手が止まった。
「シェフが、今年初めて届いた林檎だと申しておりました。試作品とのことでしたが…。アデライン様がお好きかと思い、一切れ取っておいてもらったのですが」
「……」
「残念です」
エマは扉へ向かった。
「エマ」
「はい」
「焼きたてなの?」
エマは振り返った。
アデラインは本を読んでいる。
…いや、読んではいない、見ているだけだ。
先ほどから、ページは一枚も進んでいない。
「はい。まだ温かいかと」
「……そう」
「では」
「待ちなさい」
「はい」
アデラインは本を閉じた。
「湯浴みの後に、と言ったわね」
「はい」
「なぜ?」
「なぜ、と申されましても」
「先に食べても同じでしょう?」
「いいえ」
「なぜ?」
「湯浴みの後に召し上がっていただこうと思って取り置いたものですので」
「でも、パイはパイでしょう?」
「そうですね」
「なら」
「残念です」
エマは再び扉へ向かった。
「エマ」
「はい」
「……冷めるわね」
「そうですね」
「せっかくの焼きたてが」
「残念ですね」
「……」
「では、私はこれで」
「エマ」
「はい」
アデラインは、ツンと澄ました顔で言った。
「湯浴みの準備を」
「…………」
「何?」
「いえ」
エマはアデラインを見た。
アデラインもエマを見た。
「ですが先ほどは」
「気が変わったのよ」
「三日間、あれほど」
「エマ」
「はい」
「林檎のパイが冷めるわ」
「……はい」
エマは急いで浴室へ向かった。
湯を用意させ、着替えを揃え、アデラインを浴室へ送り込む。
驚くほど、あっさりと。
あれほど嫌がっていた女が林檎のパイで。
湯浴みを終えたアデラインは、清潔な部屋着に身を包み、まだ温かい林檎のパイを食べていた。
「美味しいわ」
「……そうですか」
「ええ」
「湯浴みも、気持ちよかったですか?」
「ええ」
「……」
「何?」
「いえ」
エマはアデラインを見つめた。
アデラインは満足そうにパイを食べている。
「エマ」
「はい」
「もう一切れある?」
「ありません」
「そう」
少し残念そうに、アデラインは最後の一口を食べた。
エマは思った。
もしかして、この人…思っていたよりずっと、単純なのではないだろうか。




