2.落差
マーサは、何一つ大袈裟に言っていなかったと悟ったエマは気持ちを切り替えた。
「では、髪を整えましょう」
「嫌よ」
「…アデライン様」
「何?」
「もう昼です」
「知っているわ」
「でしたら」
「今日は予定がないもの」
アデラインは、寝台の上で本のページをめくった。
顔だけは、相変わらずツンと澄ましている。
寝間着姿で、髪をぐちゃぐちゃにしたまま、周囲を脱ぎ散らかした服と本と菓子の包み紙に囲まれて。
エマは、こめかみが痛くなるのを感じた。
「予定がなくとも、朝の身支度は必要です」
「なぜ?」
「なぜって……」
「誰にも会わないのに?」
「私がおりますよ」
「あなたはもういいのよ」
「何がですか」
「見られても」
「私はよくありません」
「そう」
興味を失ったように、アデラインは再び本へ視線を戻した。
エマはしばらくその横顔を見つめた。
——美しい。
悔しいが、本当に美しい。
乱れた髪も、寝間着も、だらしない姿も、その整った顔立ちを損なうには至っていない。
でも、だからといって、許されるわけではない。
「お嬢様」
「何?」
「湯浴みをいたしますよ」
「したわよ」
「……」
「したわよ」
エマは無言でアデラインを見つめた。
アデラインは本から目を上げない。
——なるほど、マーサが言っていたのはこれか。
「いつですか?」
「昨日」
「昨日のいつです?」
「夜よ」
「何時頃でしょう」
「夜は夜よ」
「浴室係に確認してまいります」
「……」
ページをめくる手が止まった。
「なぜ?」
「確認のためです」
「私の言葉が信じられないの?」
「はい」
アデラインが、ゆっくりと本から顔を上げた。
「あなた、主人に対して随分とはっきりものを言うのね」
「口が堅く、手際のいい者をお求めでしたが、従順であることは条件にございませんでしたので」
「……そう」
アデラインは再び本へ視線を落とした。
「今日は入らないわ」
「昨日も入っていないのでは?」
「昨日は入ったわよ」
「では確認してまいります」
「エマ」
「はい」
「今日は入らないわ」
話が戻った…。
エマは思わず天井を仰いでしまった。
結局その日、エマはアデラインを湯浴みさせることに失敗した。
翌日も失敗した。
着替えにも失敗した。
髪を整えることには成功したが、それは昼食のスープに髪が入りそうになったアデライン本人が、鬱陶しそうに「結んで」と言ったからである。
エマの説得の成果では決してない。
——そして、三日目。
エマは初めて、予定のある日のアデラインを見た。
「おはようございます。アデライン様」
「おはよう、エマ」
アデラインはすでに起きて寝台から出ていた。
それどころか、湯浴みまで済ませていた。
エマは思わず浴室係を見ると浴室係は無言で頷いた。
——本当に入ったらしい。
「何をしているの?」
「いえ……」
「今日は午後からお茶会よ。支度を始めるわ」
「はい」
拍子抜けするほど、すべてが順調だった。
アデラインは着替えを嫌がらなかったし、髪を梳かす間もじっとしていた。それどころかドレス選びにも迷いがなく、装飾品もすぐに決めた。
「こちらの耳飾りを」
「かしこまりました」
「髪は少し高めに。今日の参加者なら、堅くしすぎない方がいいわ」
「承知しました」
「香水はいつものものを」
「はい」
指示は的確で無駄がない。
昨日までの女と同一人物とは思えない。
鏡の前に立つ頃には、皆の憧れであるアデライン侯爵令嬢の姿になっていた。
エマが、アデラインという名を聞いて最初に思い浮かべた、美しく、優雅で、隙のない、いつも少しだけ顎を上げた、完璧な侯爵令嬢。
「どう?」
「……完璧です」
「そう」
当然だと言わんばかりに、アデラインはツンと澄ました。
エマは思った。
(…できるんじゃん)
ちゃんとできるのならば、なぜ。
———翌日は、予定のない日だった
「お嬢様、お着替えを」
「嫌よ」
エマは頭を抱えたくなった。
そしてそんな日々がしばらく続いた。
予定のある日は完璧。
予定のない日は、何もしない。
人に会う日は湯浴みをする。
誰にも会わない日は、湯浴みも着替えもしない。
———ある日
人と会うために美しく着飾って帰ってきたかと思えば、そのまま寝台へ倒れ込んだ。
「アデライン様。お着替えしますよ」
「……着替えてる」
「着替えてませんよね?」
「……」
アデラインは寝台に横になったまま、器用にドレスを脱ぎ始めた。
「そういう意味ではありません!」
そして翌朝には、また、
「嫌よ」
である。
エマには、さっぱりわからなかった。
———そんなある日のことだった
「アデライン様」
扉の外から、使用人の声がした。
「アシュフォード公爵家のエリオット様がお見えです」
長椅子に寝転がって本を読んでいたアデラインの手が止まった。
エマも止まった。
今日は予定がない。
当然、アデラインは寝間着姿だった。
…髪は乱れている。
…湯浴みは?聞くまでもない。
アデラインは、ゆっくりと本を閉じて長椅子から起き上がる。そして、キリッとした目になり言った。
「エマ。早急に準備するわよ」
「はい」
エマも即座に動いた。
「青のドレス」
「こちらに」
「髪は上げるわ。装飾は最小限」
「承知しました」
「顔を整えている間に髪を」
「はい」
「エリオット様は?」
「応接室でお待ちです」
「お茶を出して。茶葉は東方のものを」
「すでに手配しております」
「さすがね」
「ありがとうございます」
寝間着が脱がされ、髪が梳かされる。
顔が整えられ、ドレスが着せられる。
アデラインは鏡を見ながら次々と指示を出し、エマはそれに応えていく。
「装飾品は」
「こちらを」
「ええ。それでいいわ」
残り時間は、わずか。
「香水を」
「先に消臭を」
「……そうね」
エマは手早く消臭の魔法具を使った。
それから香水をひと吹き。
最後にドレスの襟元を整える。
「できました」
鏡の中には、完璧な侯爵令嬢がいた。
寝間着で長椅子に転がっていたアデラインは、どこにもいない。
アデラインは鏡の中の自分を確認すると、満足そうに頷いた。
エマは思わず、ため息をついた。
「はあ……いつもこうなら……」
アデラインがエマを見た。
そして、傍らに置かれていた扇子を手に取るとバサッと広げ、口元を隠す。
その上で、目だけを細めてニヤリと笑った。
「…だって、面倒でしょう?」
エマは、何も言えなかった。




