10.常に完璧でなくてもいい
いつの間にか、エマは予定そのものより、予定と予定の間を見るようになっていた。
そしてアデラインも、新しい予定を入れる前にはエマに尋ねるようになった。
「この日は?」
「空いてはいますが、前日の帰宅が遅いですね」
「なら、午前は休むわ」
「よろしいかと」
「こちらは?」
「問題ないかと」
「では、入れておくわ」
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
予定は減っていない。むしろ、次期侯爵として引き継ぐ仕事は少しずつ増えているくらいだ。
それでも以前より、アデラインが寝台に倒れ込む日は減った。
本を読む元気もないほど疲れ果てることも、蜂蜜菓子にすら反応しないことも少なくなった。
ただ相変わらず、予定のない日は着替えたがらないし、湯浴みも嫌がる。部屋も、放っておけば散らかる。
だが
「…今日は無理」
そう言える日も増えた。
そんな日は、足湯だけ、顔を拭くだけ、髪飾りだけ外す。そして次の日に、できることをする。
それで充分だと、エマも思うようになっていた。
———そんなある日
「アデライン様」
「何?」
エマは予定表を見ていた。
「エリオット様とのご結婚まで、半年を切りましたね」
「そうね」
アデラインは長椅子に寝転がり、本のページをめくっている。
結婚後、エリオットはこの屋敷へ移り住む。
グランヴェール侯爵家の一人娘であるアデラインが家を継ぎ、エリオットを婿に迎えるためだ。
…当然、結婚すれば毎日顔を合わせることになる。
「……」
エマはアデラインを見た。
寝間着に乱れた髪。
長椅子の周りには、本が三冊散らばっており、テーブルには飲みかけの果実水。
脱いだ服がくしゃくしゃのままアデラインと長椅子の隙間に挟まっている。
「アデライン様」
「何?」
「ご結婚後は、どうなさるおつもりですか?」
アデラインが本から顔を上げた。
「どうって…何を?」
エマは部屋を見回した。
アデラインも見回した。
「……」
「……」
「…片づければいいでしょう?」
「そういう話ではありません」
「では、何?」
「エリオット様の前でも、今まで通り完璧になさるおつもりですか?」
「当然でしょう?」
(…まあそうだよな)
あまりにも迷いなく返され、エマは黙った。
「…毎日?」
「ええ」
「朝も?」
「ええ」
「夜も?」
「ええ」
「お疲れの日も?」
「……」
ページをめくる手が止まった。
「アデライン様」
「何?」
「エリオット様の前でもずっと完璧でいらしたら、アデライン様はいつ休むのですか?」
「……」
アデラインは何も言わなかった。
「エリオット様が外出されている時でしょうか」
「…そうね」
「毎日いらっしゃったら?」
「……」
「ご一緒に外出なさった日は?」
「……」
「寝室はご一緒にされるんですよね?」
「…エマ」
「はい」
「少し黙ってて」
「はい」
エマは黙った。
アデラインは本へ視線を戻した。
だが、先ほどからページは一枚も進んでいない。
しばらくしてから
「…少し、考えておくわ」
「はい」
その日は、それで話が終わった。
———数日後
その日は、朝から予定が続いていた。
午前は両親との打ち合わせで昼は会食。
午後には商会の者と面会がある。
すべて屋敷の中ではあったが、アデラインは一日中、次期侯爵として人と会い続けていた。
最後の客を見送った後、自室へ戻る。
扉が閉まると、アデラインは長椅子へ倒れ込んだ。
「……疲れたわ」
「お疲れ様でした」
エマはアデラインの靴を脱がせた。
髪飾りを外してドレスを脱がせ、楽な部屋着へと着替えさせる。
温かな布で顔と足を拭いて軽くマッサージもする。
「果実水はこちらに置いておきますね」
「ありがとう」
アデラインは長椅子に横になったまま目を閉じた、その時、使用人の声と共に扉が叩かれた。
「アデライン様」
「アシュフォード公爵家のエリオット様がお見えです」
アデラインの目が開いた。
エマも止まった。
そして黙って二人は見つめ合った。
「……」
「……」
アデラインが、ゆっくりと身体を起こす。
「…エマ」
「はい」
いつもなら
『早急に準備するわよ』
そう言うところだ。
青のドレス。
髪は上げる。
装飾品は最小限。
顔を整え、最後に香水。
十五分で、完璧な侯爵令嬢を作り上げる。
エマは立ち上がった。
「青のドレスを——」
「……消臭だけお願い」
エマの動きが止まった。
「…はい?」
「消臭だけ」
「…はい」
「髪は…」
アデラインは自分の髪に触れた。
先ほどエマが髪飾りを外したばかりで少し乱れている。
「軽く梳かして」
「…お化粧はいかがしましょうか」
「しないわ」
「……よろしいのですか?」
アデラインは長椅子に座ったまま、自分の姿を鏡で見る。
楽な部屋着に化粧を落とした顔とほどいた髪。
いつもの、完璧なアデライン・グランヴェールではない。
だが、特に汚れてはいない。
寝間着でもないし人前に出られないほど、だらしなくもない。
アデラインは少し考えた。
「……ええ」
そして言った。
「これから毎日会うのだもの」
エマは何も言わなかった。
「少しずつ…ね」
その言葉に、エマは少しだけ笑った。
「そうですね」
「何?」
「いえ」
エマは消臭の魔法具を手に取った。
「では、失礼します」
手早く済ませると、それから髪を軽く梳かし、顔まわりだけ整えた。
「できました」
「ありがとう」
アデラインは立ち上がり、鏡を見る。
完璧ではないがこれで充分だ。
「どう?」
「よろしいかと思います」
「そう」
アデラインは、いつものように少しだけ顎を上げ、扉へ向かう。
「アデライン様」
「何?」
「エリオット様は応接室でお待ちです」
「ええ」
「お茶は東方のものでよろしいですか?」
「今日は果実水にして。私も飲みたいわ」
「承知しました」
アデラインは扉を開けた。
———
応接室で待っていたエリオットは、扉が開く音に顔を上げた。
「お待たせしました」
そして、少しだけ目を見開いた。
アデラインは、いつもと違っていた。
華やかなドレスではなく髪も綺麗に結い上げられていない。そして化粧もしていない。
「…どうかした?」
「ああ、いや」
エリオットは慌てて首を振った。
「急に来てすまなかった」
「構わないわ。今日はもう予定も終わっていたから」
アデラインはそう言って、向かいの長椅子に腰を下ろした。その動きも、どこかいつもより少しだけ力が抜けているように感じた。
「今日は果実水にしたわ」
「珍しいね」
「私が飲みたかったのよね」
「そう」
「何?」
「いや」
エリオットは少し笑った。
それをみてアデラインが眉を寄せる。
「…さっきから何なの?」
「何でもないよ」
「そう?」
「うん」
やがて果実水が運ばれてきた。
アデラインはグラスを手に取ると、いつもより少し深く長椅子に座り直した。
…疲れているのだろう。
それでも、突然訪ねてきた自分を追い返すことなく、こうして会ってくれている。
エリオットは、もう一度アデラインを見た。
化粧をしていなくても、やはり美しい。
少し乱れた髪もいつもより気の抜けた座り方も。
果実水を飲んで、ほっと息をつく姿も。
アデラインを美しいと思ったことは、もちろん数えきれないほどあった。
初めて会った時も、夜会で踊った時も、そして真剣な顔で仕事の話をしている時も。
けれど、可愛いと思ったのは、この時が初めてだった。




