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修学旅行⑤

 呆然とする中、視界に入った沙雪さんの目が見開いていたのだけは、湯気で視界が霞む中でもよく見えた。


「出なさい! 早く!」


 沙雪さんは真っ先に湯船から出ると、私の腕を強引に引っ張る。

 力のままに湯船を出て、脱衣所の椅子に座らされる。


「これで鼻を抑えなさい!」


 沙雪さんはタオルを鼻に押し当てながら渡してきて、それを手で抑えると、さっさと目の前からいなくなって、バスタオルを掛けられる。


「あなたの着替えどこ?」

「え、そ、そこだけど」


 沙雪さんは籠ごと持ってくると、鼻のタオルを抑えた。


「抑えといてあげるから身体拭いて着替えなさい」

「いや、沙雪さん──」

「着替えなさい」


 有無を言わさぬ気迫に気圧され、大人しく言うことを聞く。

 私が着替え終わると、沙雪さんも私が使ったバスタオルで軽く身体を拭いて着替えた。


「沙雪さん、あの──」

「いいから黙って下向いて鼻押さえてなさい」


 沙雪さんは私の髪を解いてオイルを塗ると、櫛を通しながら髪の毛を乾かしていく。


「らしくない気がするんだけど」

「そうかしら。私は有言実行しているだけよ」

「有言実行?」

「純蓮にはちゃんと怒りなさいよ。あなた甘いのだから」


 沙雪さんは特に話す気も無かったのか、ナチュラルに話題を変えた。


「わざとじゃないのに怒れないよ」

「あなたはわざとだったとしても怒らないでしょう。依吹が何も言わないのなら、私が言うわ。それが嫌なら自分から言うことね。反省しているいないなんて関係ないのよ。こういう時は怒る必要があるの」

「ただでさえ自責の念を抱えているだろうに、そんなことできないよ」

「その優しさが時として相手や自分を苦しめるのよ。感情を吐き出した方が気楽になれるのだから。あなたは今回のこと気にしていないと考えているでしょうけど、傷つけられて何とも思わない人なんていないわ。抱え込みすぎる人ほど、処理しきれずに追い詰められるのだから」

「それは、自分のこと?」


 沙雪さんは黙って、ただドライヤーを当て続ける。モードを切り替えて、櫛を通して、隅々まで乾かしていく。

 私の顔を覆うようにタオルを被せた後も、ドライヤーの音は聞こえる。きっと自分の髪も乾かしているのだろう。


「私は──」


 ドライヤーの電源を切り、沙雪さんが口を開くと同時にお風呂場の扉が開き、白葉ちゃんが脱衣所に戻ってくる。


「いぶっちゃん大丈夫? 痛くない?」

「うん。別に触れて痛いとかはないから、骨とかも問題ないと思う。だから止まったら問題ないよ。心配してくれてありがとう」

「なら良かった」


 白葉ちゃんはほっとした顔を浮かべて、バスタオルを纏う。


「純蓮は来ないのかしら。怪我をさせたというのに。薄情ね」


 沙雪さんはいつもの調子で、いつもよりため息混じりに、白葉ちゃんに問いかけるように、独り言のように呟く。


「すっちゃん吐いた」


 白葉ちゃんは淡々と、着替えをしながら報告のように答えた。


「白葉ちゃん、それ、どういうこと?」


 下げていた頭をあげ、身体の向きを合わせ、自分でも驚くほど落ち着いた声を出す。

 けれど、内心は落ち着きからは遥かにかけ離れていた。

 すみちゃんが苦しい思いをした。ただそれだけで、胸が苦しくなる。心臓が激しくなればなるほど、それをより分厚く、強固に覆い隠すように、表の私は冷静になっていく。


「いぶっちゃんがお風呂出た後、すっちゃんずっとぶつぶつ呟いてて。あまりにおかしいからあたしとこなっちゃんと橋野で様子見てたんだけど。というか橋野はずっと横で声掛けしてたんだけど、何も聞こえてないって感じで。急に立ったかと思えば、排水溝のところまで歩いて吐いた。とりあえず今、橋野とこなっちゃんが側についてて、あたしは先生にその事言う為に出てきた。大澤がいれば上手く場を纏めてくれるから良かったんだけど、生理とか運悪い」

「そう。私は依吹を救護担当の先生の元に連れていくわ。その件はあなたに任せるわね」

「よろしく」


 私は沙雪さんに行くわよと腕を掴まれたけど、その手を離してもらって、白葉ちゃんの元に駆け寄る。


「白葉ちゃん、私はすみちゃんの事庇うから。だから、何も余計な事言わないで。ただ、のぼせて吐いた。それだけ言って。これ以上すみちゃんを追い詰めないで」


 白葉ちゃんは見開いた目をゆっくりと伏せて、目を逸らす。

 白葉ちゃんに嘘を吐かせることになっても、これだけは譲れない。またすみちゃんが自分を許せなくなって、何もかも抑え込もうとするのをさせないために。


「分かった」


 その言葉を聞いて、私は脱衣所を出る。


「沙雪さん、余計な事を言わないでよ」

「私はただ事実を言うだけよ」

「それをやめて。私は七木さんを責める気はない。分かっているでしょ。七木さんが吐いたのは自責の念だよ。それほど追い詰められている人をこれ以上責めないで」


 沙雪さんは歩く速度を落として、こちらを見ずに、いつもよりトーンを落とした声で話す。


「私は、行く場所が無くなったらあなたの元に行くわ。だから私は、あなたに何かあったら面倒を見る。そう言ったわよね。だから今こうしてあなたといるのよ。追い詰められていたら何をしてもいいのかしら? 反省していたら許されてもいいのかしら? 私はそんな人間の弱さ、信頼できないわ」

「七木さんは不安定な人間なんだよ。だから追い詰めちゃいけないの。そしたら七木さん、ずっとずっと引きずって辛い思いをする……」


 そうだ、そうだよ。私知っていたのに、なんでずっと気づかなかったんだろう。すみちゃんは不安定。ちょっとしたことでも引きずって、自分を責めるような人。

 だから私は、すみちゃんに自分を責めるような事をもうしてほしくなくて、ずっと、すみちゃんといた。応えようとした。でも、すみちゃんは考えすぎるから、自己主張があまりできない。だから、我慢する。その積もった我慢は、すみちゃんの元に蓄積されて、ほんの少し報われたとしても、解放はされない。


 すみちゃんに関しては、あとでフォローすればいい。そんなの、意味をなさないんだ。そしたら今日のベッドの選択は間違いだ。

 でも、だったら私はどう選択すれば良かったの? あゆちゃんに我慢してもらえば良かったの? 小夏に譲ってもらえば良かったの? 私がすみちゃんと寝たいと言えば良かったの?

 でも、あゆちゃんはそう簡単に譲らない。小夏は引いてくれるけど、悲しそうな顔をすると思う。

 何よりすみちゃんは、誰かを傷つける私を良しとしないだろう。だってすみちゃんが好きになった私は、王子様に憧れた、皆に優しい私なんだから。だから、それが壊れたら自分のせいだって、すみちゃんは責めてしまう。


 ──私はすみちゃんを幸せにできないの?


「不安定な人間なら、なんでも許されるというの? そういう人間こそ、甘やかさずに痛い目見るべきなのよ」

「……可哀想だよ。だって、本人だってこんな目に合うこと望んでいない」


 沙雪さんは足を止めて、私の手を強く握る。


「皆そう言っていたわ。お父さんは可哀想って。酷いことしているだろうけど、事情は分かるって。冷たくしたくてしているわけじゃないって」

「沙雪さん?」

「私は、そんな不安定な父親に、誰にも強く言われない父親に殴られてきたのよ! 罵詈雑言を浴びせられたのよ! それをずっと、ずっと一人で耐えてきたのよ!」


 振り向いてハッとした沙雪さんの顔は、初めて見る表情だった。動揺、怒り、悲しみ、全てが詰まった顔だった。

 私は、知らぬ間に沙雪さんの古傷を抉っていた。

 沙雪さんは顔を殴られていたと言われた。きっと、今の私みたいに鼻血を流したことも多い。

 フラッシュバックしたんだ。自らではなく、人によって流された血は、沙雪さんのトラウマを刺激するんだ。加害者を庇われるのがどうしようもなく許せないんだ。


 血の気が引いていくのを感じる。空間から切り離される感覚がする。ぽっかり空いて軽くなった体内に、罪悪感が注ぎ込まれる。

 私はきっと、今まで何度も沙雪さんの嫌な思い出を刺激していた。その可能性に頭が真っ白になる。


「あなたといると調子が狂うわ。馬鹿みたいじゃない。平気って思わないと。皆、分かりやすい弱者しか助けないじゃない。本当に傷ついている人に我慢を強いるじゃない。だから、強くなるしかないじゃない。頼るという選択肢を捨てないといけないじゃない。期待したら、その分辛くなるのだから」


 沙雪さんは私を抱き寄せる。


「可哀想な人間だなんて思われたくない。だってそしたら、父親と一緒になるじゃない。ねえ依吹、あなたが言っていた通りみたいよ。気づかないふりをしていたけれど、私はずっと、傷を抱えたまま。我慢して耐えていた分、深くなってしまった。だから、あなたを見てしまうのよ。誰も責めない、責められないあなたが、声を上げる暇もなく、気づかぬ内に壊れてしまいそうで。だから私だけでも──あなたを守ってあげたい」


 震えた声で囁かれる。初めて沙雪さんの心に触れられた気がした。その心は温かくて、寂しくて、すぐに崩れてしまいそうなほど脆く感じた。だから、仮初の心でガッチガチに固定していたのだろう。

 沙雪さんの心に触れると考えさせられる。でも同時にどこか安心する。


「沙雪さん、ありがとう。七木さんとちゃんと話す。でも、無理に傷つけたくない。だから、後で改めて二人で。大丈夫。ちゃんと、痛かった気持ち伝えるから」

「我慢してはダメよ。時には残酷な選択を突きつけるのも、相手の為なのだから」

「うん」


 救護室でガーゼを詰めてもらって、私は部屋ですみちゃんが戻ってくるのを待った。


 どう言えばいいのか、正直分からない。今の私が正しいのかも。沙雪さんは極端なところもあるけれど、私は曖昧だ。分からなくなってくる。私の軸が。だって、いつも誰かの為に動いていた気がするから。


「私は一体何をしたいのだろう」


 自分の事、深く考えた事あるのかな。

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