三十五幕 右扶風郡太守
中平二年(西暦一八五年)、四月一日。
董卓率いる一万五千の討伐軍が右扶風郡郡治・槐里県の県城に入城した。
長安県から槐里県までは約七十五里(約30㎞)。三月三十日に進発してわずか一日で走破できる距離だ。
とはいっても、先陣が槐里城に入城したに過ぎない。ほぼ丸一日をかけて、全軍がようやく槐里城周辺で一息入れることができる予定だ。
兵たちには城周辺で野営の準備を行ったら、そのまま休んでいいと伝えてある。
しかし、董卓たち指揮官はここから明日の朝までにできる限りの情報を集めなければいけない。
時間との勝負だった。
「さぁてさてよ。俺たちはどうするよ」
「どうするかって? 決まってるじゃないか。総隊長が言っていただろ? 指揮官は情報集めだ、って」
「いやよ? そう言うけどよ。総隊長は中・上の人たちだけ連れて、俺たち置いて行っちまったぜ?」
まだ年若い者たちが集まって話している。年の頃は十代半ばといった頃か。五人の少年たちだ。
体つきが大きく、粗暴そうな少年が、利発そうな少年に語りかけている。
「やれやれ。李。少しは頭を使うんだ。そんなんだと、牛に置いていかれてしまうぞ?」
利発そうな少年が粗暴そうな少年に答えると、急に話に上った気弱そうな少年が肩を跳ね上げさせた。
「え、え? 僕?」
牛と呼ばれた少年―――牛輔は覗き込んでいた地図から顔を上げると、利発そうな少年―――樊稠に向き直る。
「さっきから地図を見ているじゃないか、牛。どう動くか、決めているんだろう?」
そんな樊稠の言葉に、粗暴そうな少年―――李蒙やその周りいた王方、周毖も牛輔に視線を集めた。
「い、いや。董刺史は政庁で情報を集めるみたいだったから、僕たちは市井にある情報を集めようかなと」
「市井にある情報って、噂話ってことか? そんなもん、行軍の役に立つのかよ?」
李蒙は牛輔の言葉に顔をしかめるが、樊稠が李蒙の肩に手を回しながら宥めた。
「役に立たないなんてことはないさ。敵軍―――上洛軍だったか? 上洛軍が民衆の間でどう見られているのか。市井に広がる噂話から手に入る虚像は、まったくのでたらめというわけでもない。必要なことだよ」
そう言って、今度は牛輔に笑いかける。
「それにしても、牛は最近、本当に視野が広がってるな。俺も楊隊長に師事を仰ぎたいくらいだ」
牛輔は董卓私兵団の中級指揮官である楊定から軍学を学んでおり、師弟関係を結んでいた。
樊稠、李蒙、王方、周毖、そして牛輔。
この五人は前年に起こった黄巾の乱において董卓私兵団の下級指揮官として抜擢された五人だ。それぞれが優秀と見られていたが、この五人の中でも牛輔は僅かに出遅れている。
部隊指揮・武芸において光るものがある万能型の樊稠。
父が洛陽高官ということもあり英才教育を施されていた周毖。
中級指揮官である胡軫の弟子であり、武芸に関していえば下級指揮官随一の李蒙。
戦場を俯瞰する独特な視野を持ち、布陣において卓越した能力を持つ王方。
彼らに比べると、牛輔は何も持っていない。
正確に言えば、黄巾の乱で抜擢された下級指揮官は牛輔以外の四人であり、牛輔は乱が終わった後に思うところがあって上を目指し始めた少年だ。人一倍の鍛錬と、人一倍の勉強を両立させており、それでようやく、下級指揮官として認められたのだ。
五人が全員同年代ということもあり、もともと何かと一緒にいることが多かったが、ようやく牛輔の立場が四人に追いついてきた形だった。
「俺たち下級指揮官組は市井における上洛軍の情報を集めてみないか? どうせ、このまま手をこまねいていても総隊長からの評価は上がらないだろうしな」
そんな五人のまとめ役・樊稠の言葉に、他の四人も―――李蒙は不承不承―――頷いた。
こうして、董卓私兵団の下級指揮官五名は手分けをして上洛軍の情報を集めるために、槐里城内で三々五々に散った。
李蒙はイライラとしながら市中を歩いていた。
李蒙のイラつきの原因は、最近発言権を増やしてきている牛輔と、それを面白そうに見守っている樊稠だった。
今までは粗暴で頭の回らない李蒙を、樊稠がうまく使ってくれていた。樊稠にできないことを李蒙がやり、李蒙に思いつけないことを樊稠が考える。そんな二人でひとつの関係性だと思っていた。
それなのに。
最近は牛輔のことばかりだ。
それが李蒙にとって面白くない。自分の居場所を踏み荒らされているように感じていた。
だからイライラして足の赴くままに商業区の外れまで来てしまった。
そのことに気づいて、李蒙は足を止めて辺りを見渡す。
「っち。むしゃくしゃして適当に歩いてたら変なところまで来ちまった。どうすっかな。約束の刻限はまだ時間あるけど、もう戻っちまうか。どーせあいつらが調べてくるんだろうし」
そう言って李蒙が来た道を戻ろうとしたその時。
李蒙の視界にちょうど良く憂さを晴らせそうな輩の姿が映り、その口元に笑みを浮かべながらそちらに歩み寄っていった。
歩み寄るにつれてその連中の声が聞こえてくる。
「だからいい店知ってるって言ってるだろ。それともなんだ? お貴族様はお高くとまって庶民の味なんか口に入れられないってか?」
ひとりがそう言うと、周りにいた男たちが品なく笑う。
そんな男たちに囲まれているのは、身なりの整った女性だ。李蒙よりも少し年上だろうか。
「そんなことは言ってないじゃないですか。そもそも、女性用の小物の店を知っているというからついてきたのに、そうじゃないのなら帰ります」
「だーかーらーさー」
「ひっ」
男のひとりが女の肩に手を回す。
「俺たちに付き合ってくれたら可愛い小物屋? だっけ? 教えてやるよ」
そう言って男たちはその女を連れて裏通りの奥に入っていこうとした。
「いやいや。小物を売ってる店を知ってる顔かよ」
李蒙はそう言いながら男のひとりを背後から殴りつける。ひとりはそのまま路地の壁に叩きつけられ痙攣しながら崩れ落ちた。
「な」
「なんだてめえ!?」
男たちがいきり立つ中、李蒙はさり気なく女を男たちの手から奪い、自身の背後に立たせた。
そして。
「いやあ、悪いな。今ちょーっとむしゃくしゃしててよ? わざわざ憂さ晴らしの理由を作ってくれてよ。助かるぜ。有難く、利用させてもらうな?」
町のごろつき三人。
対するは、年少で下級指揮官とはいえ、董卓私兵団の下で常日頃から訓練を受けている従軍経験者の少年。
両者の対峙の結果は、火を見るより明らかだった。
「助けていただいてありがとうございます」
李蒙はごろつきをのした後、絡まれていた女を家まで送ることにした。これを口実にしてしまえば、気の乗らない情報収集任務を明後日の方に投げ飛ばしてしまえると考えたからだ。
「あー。俺は李。今朝方、この槐里に到着した上洛軍討伐隊の指揮官のひとりだ」
下級だがな、といいながらぶっきらぼうに自己紹介をする李蒙に、女の方も居住まいを正して挨拶を返した。
「ご丁寧にありがとうございます。私は宋仲乙の娘で扇と申します。此度の討伐軍の指揮官は董仲穎殿とお聞きしました。私の父も并州刺史をしていたので、勝手ながら親しみを感じていたのです」
挨拶をして頭を上げた宋扇は微笑みながらそう続けた。
気の強そうな目元。白磁のような汚れのない肌。簪で上品にまとめられた美しい髪。控えめに施された化粧。
洗練された都会の令嬢を、李蒙は初めて見た。
目と目が合った瞬間、身体に電流が流れたかのように、まともに考えることもできなくなってしまった。
「………………あー、宋、嬢?」
「はい。なんでしょうか」
「――――――」
李蒙の呼びかけに応える宋扇。
それだけの事実に、李蒙の頭の中は、ぐらぐらと何かが煮え立つようなそんな錯覚に襲われる。
「? 李殿?」
覗き込んでくる宋扇の姿に、李蒙は辛抱が利かなくなり、宋扇の手を取った。
びくり、とその身体を震わせる宋扇。
詳しいことはわからないが、宋扇を怯えさせたことだけは理解した李蒙は、ゆっくりと宋扇から手を離す。
そして―――。
「宋嬢。この戦いで俺が活躍することができたら、俺の嫁になってくれないか」
「――――――――――――はい?」
目を真ん丸にした宋扇は、かろうじて李蒙に聞き返すことだけできたのだった。
樊稠、周毖、王方、そして牛輔は口をあんぐりと開けて李蒙を見た。
正確には、李蒙と李蒙が連れている女性を見た。
待ち合わせ場所に遅れてきた李蒙は、開口一番にこう言ったのだ。
「俺はこの宋嬢に結婚を申し込んだ。今回の戦いで活躍できたら、彼女を嫁にもらいたい。お前ら、証人になってくれ」
そんなことを言う李蒙に連れられた女―――宋嬢とかいうらしい。宋家? この辺りで宋家といえば―――そんなどうでもいいことで現実逃避を仕掛けた樊稠だったが、女を見てどうしたものかと思い悩む。
「あ、あの、李殿。そのお話はお断りしたはずで」
「とりあえずだ。この戦いが終わったら、もう一度ここに戻ってくることになる。その時に活躍できてたら、あんたに結婚を申し込む。断るにしてもその時でいいじゃねえか」
「そ、それはそうですが。こ、この方たちにまで紹介する必要ありますか?」
「こいつらは俺の同僚だ。俺と同じ下級指揮官。俺が活躍したって自称するよりも、こいつらがちゃんと俺を見ててくれれば、偽りの報告をしてあんたを嫁にもらうなんて卑怯ができなくなるだろ?」
「な、なるほど? で、でも、私は」
「好いた男がいるのか?」
「いま、いませんが」
「ならいいじゃねえか。少なくとも、返事は帰ってくるまで待ってくれ。これから戦地に行く男に、情けをかけてほしい。頼むよ」
「う、ううううぅぅぅぅ」
宋嬢の方もどうやら満更でもなさそうなのだ。
話を聞けばなるほど。
暴漢に襲われそうになっていた彼女を、李蒙が助けた形となったそうだ。
それはそれは、心細い時に乱暴な王子様を見つけてしまえばああもなるのかもしれない。
とりあえず、樊稠としては、李蒙が宋嬢に無理矢理、力づくで迫っているのではないということがわかった。ならば止めるのも野暮というものだ。友人としてできる限り協力してやりたいとすら思う。
「それで、集めてきた情報なんだけど」
李蒙と宋扇の押し合い圧し合いの夫婦漫才は置いておいて。
下級指揮官組本来の調べ事。
上洛軍の情報について話し合い始めた。
時は少し遡る。
下級指揮官たちが自らの判断で上洛軍の情報を集めようと決意したちょうどその頃。
董卓私兵団の中・上級指揮官たちは政庁に赴いていた。
董卓私兵団総隊長・董卓。字を仲穎。
董卓私兵団作戦指揮・李儒。
董卓私兵団上級指揮官・華雄。字を練武。
同じく、臧覇。字を宣高。
同じく、段煨。字を忠明。
董卓私兵団中級指揮官・胡軫。字を文才。
同じく、楊定。字を整修。
七名が政庁の客間に招かれていた。
対するは、槐里県の高官たち。
右扶風郡太守・鮑鴻。字を伯和。
槐里県県令・曹伷。字を金満。
槐里県県丞・左彪。字を恕堅。
槐里県県尉・樊達。字を赫音。
狭い太守府の客間には、十一名の高官・英傑がそろい踏んでいた。
「まずは太守殿。此度の件について、如何ほど把握しておられる」
口火を切ったのは董卓だ。
長安で司馬防によって示唆された懸念点。
既に右扶風郡に上洛軍が入り込んでいるのではないか。
その疑問に対する答えを、目の前の男が持っているはずだった。
右扶風郡太守・鮑鴻。字を伯和。
太守となるにはよほど若い。しかし、彼からは金の臭いは漂ってこない。実力で上り詰めた地位なのだろう。だからこそ、その態度にも後ろめたさは感じられない。
しかしそれでも、迫力不足は否めない。
歴戦の将が背負っている威。それが一切感じられず、小物に見える。
将でなくても、文官であっても、その得体の知れなさは感じ取ることができるのだが、目の前の若者からは何も感じない。
洛陽の化け物たちと対峙してきた董卓は、そして、先ごろ司馬坊を見てきた董卓はいささか肩透かしを食らったような気持ちだった。
鮑鴻の傍に侍っている県令たちも同様だ。
董卓が見た限り、難物には思えなかった。
事実、鮑鴻は、董卓から問いかけられ、背筋を震わせている。
自分は変わらず自分であるのに、そんなに怯えられてしまうと、まるで自分が化物になってしまったかのように感じられて寂しいものだ。
内心ため息を吐きながら、董卓は鮑鴻の目を見つめ続けた。
「あ、は、はい。し、調べてあります。上洛軍は現在汧県の県城を包囲中です。兵数は十万に届くかと。上洛軍の構成は涼州を荒らしていた賊、涼州の官吏、そして湟中義従胡を中心とした羌族の三種類の軍が合流している形です」
見つめ続けた若者が、董卓の予想以上の情報を語りだしたことに、董卓は目を見開いた。
「賊を率いているのは宋建、羌族を率いているのは北宮玉、元官吏を率いているのは辺章。軍団の総指揮官も辺章であると喧伝しているそうです」
「………………随分と詳報がわかっているのだな」
「探らせ続けておりまして、現状でわかっていることを、お伝えしております」
「汧は包囲されてどれほどだ。すぐにでも向かって救援せねばなるまい」
「十日ほどでしょうか。完全に包囲されているようですが、汧は堅城です。汧水の上流域に立っている城で、北と西は崖が近く大軍が展開できません。結果として二方面攻撃を受けている状態なので小城の割によくもっています。数日おきに城からも突撃部隊を編成して包囲部隊に攻撃を仕掛けたりもしているようですね」
「………………………………」
この辺りで、董卓たちは違和を覚えた。特に勘で生きている華雄は董卓や李儒よりも先に首を傾げ始めていた。
「こちらの被害はどれほどだ。汧救援のために右扶風はどれほど兵を出せる?」
その質問に、鮑鴻はようやく胸を張った。
ようやく、自分の正しさが証明される時なのだと。
「汧以外の城では被害はありません。汧は要害。上洛軍が背後を突かれるのを恐れて汧を攻めてくれれば。それだけで上洛軍の足止めは叶います。その間に洛陽よりの討伐軍が間に合えばそれでよし。我々右扶風の各県城の軍は万全の状態で討伐軍に合流できます」
「は? つまり、援軍を一切送っとらんってことか!?」
華雄がたまらずといった風に口を挟む。
「ええ。はい」
鮑鴻はそんな華雄の問いかけに頷いた。
「………太守殿。もし、汧が抜かれたらどうするつもりだった」
「汧が抜かれても、陳倉があります。陳倉が抜かれても、こちらに来るには汧水を渡らなければなりません。敵軍も伸びきってしまうでしょうし渡河には時間がかかります。汧と陳倉と汧水。三つの足止めがあれば、その間に洛陽よりの本軍がいらっしゃるでしょう」
董卓は立ち上がると、鮑鴻に近づいた。
「なるほどな。ならば儂らは汧の将兵に感謝せねばならんな。将兵だけではない。民にもだ。戦において、籠城している城に援軍を送らないなどというバカバカしすぎる話があってたまるか!」
言いながら、董卓は鮑鴻の胸倉を掴み上げた。
「儂が汧城の守備を任されていたらな。援軍が来ないとわかった時点で城を開けて降伏する。城を枕に死ぬまで戦えと、そんな妄言を言い晴れるほどに、貴様は、この国は、汧の臣民に対して恩恵を与えていたのか? さらに言えば、儂が陳倉にいたらな。援軍を受け取れず、衆寡敵せずで汧が落とされれば、陳倉も開城する。上洛軍に加わるだろう。陳倉は汧水の近くの城だな? さぞや渡河拠点に関しても詳しかろう。この戦線で最も気を張るべきところは、儂らに従軍できる兵数ではなく、汧と陳倉が敵に落ちないことをこそ重視するべきであろうが。小僧が、賢しらに、策を弄そうとするでない!!」
「………タク殿。その辺りで。もう落ちております」
李儒が董卓の腕にそっと手を添わす。
それで董卓はようやく、鮑鴻が泡を吹いて白目になっているのに気づいた。
鼻を鳴らして董卓は力の抜けた鮑鴻を槐里県令たちに放り投げる。
「貴様らも貴様らだ。この小僧の言に従って、汧を見捨てるつもりだったのか!?」
問われた曹伷たちは頭を下げながらあわあわと弁明する。
「も、申し訳ありません。い、一理があるように感じましたので」
「一理はあろうよ。一理しかあるまいがな」
そう言うと、董卓は槐里県の官吏たちに背を向ける。
「儂らは別室で待機する。太守殿が起きたら、明日の行軍に向けて迅速に動き出せ。どういった予定で動くか、日暮れまでに決めてもってこい。国防を担う戦で重篤な判断ミスを犯したのならば、罷免は免れんと覚悟して動くがよい」
そう言い残して、董卓一行は太守府から出て政庁の中にある県令府の方に移った。
後には気絶をした鮑鴻と、青い顔をした県令たちが残された。
董卓たちが去った後の太守府の客間。
そこで、鮑鴻はすぐに意識を取り戻した。
「ま、まさかあそこまでお怒りになるとは」
そう言う鮑鴻に、曹伷がため息交じりに声をかける。
「だから私は反対だったのです」
「お、おま、お前、今更それを言うのは無しだろう!? 反論しなかったじゃないか!」
「心の中ではしましたとも」
「こ、この野郎………」
「曹県令の小狡さはいつものことでしょう。それよりもこれから如何するかを決めねばなりますまい」
鮑鴻と曹伷の言い合いに県丞の左彪が仲裁に入る。老齢の左彪だが、普段よりも更に幾ばくか老いたように見えた。
「どうするかって、決まっている。董殿のあそこまでのお怒りは想定外だったが、我々がやることは変わらない。各県に通達を出して、雍に軍勢を集結させる。董殿の視点では遅きに失したかもしれないが、ここからが西方防御策の本番だ」
「相手は十万の大軍ですぞ?」
左彪の言葉に、しかし鮑鴻は気にせずに続ける。
「総指揮は董殿が執る。こちらは動員可能な兵力を董殿に預けるほかない。それで対応できなければ、右扶風単体では対応不可能ということだ。場合によっては左馮翊や京兆にも増援を求める必要があるかもしれない。が、まずは郡内の兵力を董殿に預けてからだ」
そう言って、鮑鴻は先ほどから黙っているもう一人に視線を向けた。
「赫音。各県の兵の供出は確か一万六千だったな?」
問われた男はびくりと身体を震わせ、鮑鴻に視線を合わせる。
その顔色が見る見る間に赤くなっていく。
「は、は、はい。じゅ、十県から、一万六千を、供出いただく話は、つけて、おります」
槐里県県尉の樊達だ。極度のあがり症の男で、こうして喋っている間にもどんどん顔は赤く、汗を噴きだしている。
「う、う、内訳は、雍が千、陳倉千。美陽、郿、安陵、平陵、茂陵が二千。武功、と、鄠県、が五百、ここ槐里、からは、三千が、出せます」
右扶風郡には十五県がある。その十五県の内、北部三県と情報本部である渝麋国、戦地となっている汧県以外の十県から兵を供出する段取りはつけてあった。
軍事経験のない鮑鴻ではあったが、それでも民政に手を抜いてきたつもりはない。
右扶風郡の内部であれば、相応の政治力を持っていた。
だからこそ、鮑鴻が発した軍令に、各県は疑問を抱きながらも従ったのだ。
しかし、城が軍事的緊張に置かれるということがどういうことなのか。それを実感として理解できていなかった鮑鴻の初動は、失態ともいえる有様だった。
それを理解しているが、それでも、鮑鴻はやるべきことをやらなければならない。
貧しい商家の出だった。
その経済力を足掛かりにして太学に入学し、そこから必死に学問を学び、士大夫と交流をもった。知識を研ぎ、弁舌を磨き、周囲に認められた。
だからこその今の地位だ。
豪族の強力なパイプもなければ、名門の教育も受けられていない。
それでも地を這いずりながら、泥を舐めて必死に成り上がってきたのだ。
兵力の逐次投入は愚の骨頂。人を、資源を、無為に損なう悪逆だ。
そう感じたからこそ、洛陽の討伐軍を待った。
汧を抜かれ、陳倉を落とされ、汧水を渡られたとしても、兵力を小出しにするのは避けるべきだと、そう判断した。
今でも間違っていたとは思えない。
ただ、どちらの方策を取ったとしても、瑕疵は残ったはずだ。
ならばこれは戦を指揮する将の好みでしかないはず。外れを引いただけだと、鮑鴻は決めつけた。だからこそ、こうしてすぐさま次の段階に思いを巡らせられる。
鮑鴻は気づいていない。
布陣をしただけでも、汧城にとっては救いになったということを。上洛軍にとっては脅威になったであろうことを。
董卓は何も、まとめ上げた兵力で突撃を行えばよかったと言っているのではない。
兵力を損なわずに軍事行動を起こすことは不可能ではないのだ。
そこに思い至れない鮑鴻は、未だ、青い。
半刻後(約一時間後)。
県令府県令室に鮑鴻と槐里県官吏たちが参上した。
思った以上の速さに、董卓が訝しげに眉を上げる。
しかし、鮑鴻は董卓の予想を超えていた。
「十県より一万六千の兵力を動員可能です。一度、雍県に各々が集合し、そこからまとまっての行軍になります。十県の内、陳倉県は、全兵力で汧水の渡しを行います。その後、陳倉守備部隊を残し、陳倉からも千の兵力が合流します。雍から陳倉までは一万五千で、汧水を渡った後は汧まで一万六千での行軍です」
鮑鴻は地図を広げながら董卓とその部下たちに説明を開始する。
「既に各城いつでも進発できるように準備は整えてあります。こちらが伝令を放ち、二日の内には全軍が雍に向かい始めます。遅くとも一週間もあれば雍に全軍が集まるでしょう」
その言葉に、董卓麾下の将たちは鮑鴻を見直したように見つめる。
しかし、董卓はまだ不満だった。
「練武。ここから汧まで行軍するとしてどれほどかかる」
問われた華雄が地図を覗き込む。
「んー。平坦な道のりなんやろ? あー、でも川があるんかいな。まあ、ここでちと時間食うとして、四日ってとこちゃうか?」
その言葉に鮑鴻は目を剥く。
「よ、四日? さすがに一週間はかかりませんか?」
「まあ、進軍慣れしてない軍やとそれくらいかかるかもな。けどま、ウチは長距離移動は慣れとるからな。洛陽から渡された兵を切り離してええんやったらもう少し早く行けそうやな。ま、ゆうても、三日かな」
鮑鴻は華雄の言葉が信じられないかのように黙って首を振る。
しかし、董卓は華雄の意見に頷いた。
「そんなものだろうな。洛陽の兵は切り離さん。向こうに着くまでのちょうどいい鍛錬だ。走らせろ」
「お、お待ちください。体力を削りきって布陣しては危険です」
董卓の決定に鮑鴻が待ったをかける。
そんな鮑鴻を董卓は睨みつけた。
「小僧が。誰にものを言っている? 進軍先での布陣など、物の数でもないわ。洛陽組がへばろうと、儂の直属の兵が意気軒昂に残っておるわ。全軍の練度が同じな訳なかろう」
そう言うと、董卓は立ち上がった。
董卓が中座した後の県令室では沈黙が支配した。
室内の全員が鮑鴻に視線を送る。
鮑鴻は董卓から侮られていることを感じ、下を向いて唇を噛みしめていた。
そんな気まずい空気の中、小柄な女が動いた。
「と、いうわけで~」
董卓の妻。董卓私兵団の参謀。
李儒である。
「太守様は~、増援を送れる県に、伝令を送ってください~。我々は~、一足先に汧に向かいます~」
「………………わかり、ました」
李儒の言葉に、鮑鴻は絞り出すように返事をした。
李儒は頷くと、視線で室内の私兵団指揮官たちに退室を促す。
その視線を感じ取ってほとんどの人間が動き出す中、視線の意味を理解しなかった華雄が首を傾げている。
李儒はため息を吐くと、
「練武殿~。明日の行軍に向けて、指揮系統の最終確認を~。それが終われば明日に備えて休んでください~」
そう言われてようやく合点のいった華雄も動き出す。
そうして最後に室内に残った李儒は、県令室から出る前に振り返った。
「何事も経験です~。鮑太守。汧に布陣した我が軍の動き、よく見て学んでください~。戦とは人と人との小競り合い。人は心を原動力に動きます~。だからこそ、攻撃側は守備側の心を砕こうとしますし~、守備側はどうにかして心の炎を燃やそうとします~。意外や意外~。戦場では物質的な質量よりも、精神的な恐怖や諦めの方が天敵なのですよ~」
頑張ってくださいね~、と言い残して李儒も室内から去った。
鮑鴻はのろのろと立ち上がる。
完全に舐められていた。
その事実が鮑鴻を蝕む。
董卓は貧しい家の出で、その武芸の才を見込まれて異民族戦線で出世を重ねた男と聞いていた。豪族でもなければ名門貴族でもない。
だから鮑鴻はタカをくくっていた。
境遇の近い董卓であれば、鮑鴻を認めてくれると。
しかし結果としてそうはならなかった。そんな甘えを抱いてことに、鮑鴻は無自覚だったが、今は自覚してしまった。
恥、怒り、嫉妬。
いろいろな負の感情が鮑鴻の内で渦巻く。
しかし。
「金満。各県に伝令を送るぞ。洛陽よりの討伐軍は先陣として汧に布陣する。各県の連合軍は雍に集結。一週間の後に汧水を渡って汧に向かう。十県にそう伝えろ」
鮑鴻はここで腐らなかった。
自分のできることを最大限にこなす。
そして、汧で董卓の動きを目に焼き付けると決めた。
(偉そうに言ったが、どれほどのことができるよ、董仲穎――――――)
暗く、しかし、メラメラと、ゴウゴウと、燃える炎を目に宿し、指示を出してくる鮑鴻に、気圧されたように曹伷は拱手を行う。
慌てて動き出す曹伷に、鮑鴻は思い出したように声をかけた。
「ああ、それと。陳倉には追加で伝令を。洛陽よりの討伐軍一万五千の兵。陳倉城の全力を挙げて汧水を渡河させてほしい、と。討伐軍は明日出陣して三日目には到着するとのこと。船を陳倉城の対岸に集め、対岸で待機しているように、と」
「わ、わかりました!」
「それから金満。お前の溜め込んでいる武具。こういう時のために利となるから黙認している。財をつぎ込んで集めたその武具を、惜しみなく放出するように。いいな」
「っ」
鮑鴻は金遣いの荒い県令・曹伷に鋭い視線を向ける。
曹伷は武具の蒐集家だった。
県内の軍備増強のためといって、公費すら使って武具を集めた。
洛陽の正規の鍛冶師だけでなく、違法である闇鍛冶師たちが新たな武具の様式を考案すれば、金を払ってそれを一そろい手に入れるほどの熱狂ぶりだ。
県丞・左彪などは常日頃から曹伷の金の使い方に文句を言っている。しかし、鮑鴻はそれを特別咎めはしなかった。
今までは。
「これで実績を出せ。ここでお前の蒐集品が役に立たなければ、今後お前の楽しみは無くなると思えよ」
期せずして自分のコレクションを大々的に運用できると知り、更にその運用がうまくいかなければ今後の人生が灰色になると知った曹伷は、
「か、か、かしこまりましたぁ!!」
顔を赤くしたり青くしたりしながら拱手をして室内から飛び出ていった。
「さて、赫音。忙しくなるぞ。『槐里の赤鬼』の力、中央に見せつけてやろう。恕堅。金満と共に留守を頼む」
鮑鴻はそう残された二人に声をかけて準備のために移動を始めた。
残された二人は返事をして鮑鴻の退室を拱手で見送った後、お互いに頷き合ってそれぞれの準備のために動き出した。
翌日。
四月二日。
董卓率いる討伐軍は陽が登り始めると共に前線に向けて動き出した。
黎明の中、一万五千の軍が、汧城に向けて進軍を開始した。
そもそも、辺章たちが汧県に攻め込んだかどうかも史書には記述がないので、鮑鴻の作中での動向は第一次辺章韓遂の乱においては完全に創作なのでお気を付けくださいね。
・鮑鴻。字を伯和。出典:史実
今回の戦犯枠。
鮑鴻がやらかしたことでややこしくなったが、そもそも、董卓の要求している作戦(地の文における正解描写)に関しては、かなりの熟練が必要になるので、鮑鴻がやろうとしたら壊滅待ったなしでしょうね。
・曹伷。字を金満。出典:オリジナル(ランダムキャラ生成で作成)
性格は『人望がない』『収集癖』
武具を集めることが趣味であり、税を横領して武具を集めるので人望がない。
・左彪。字を恕堅。出典:オリジナル(ランダムキャラ生成で作成)
性格は『堅物』『小食』
曹伷の趣味をお説教する口うるさいお爺ちゃん。
・樊達。字を赫音。出典:オリジナル(ランダムキャラ生成で作成)
性格は『照れ屋』『菜食主義』
恥ずかしがり屋で人の前に立つと赤面してしまう。
敵は排除すればいいので勇猛果敢に敵陣に切り込む。着いたあだ名は『槐里の赤鬼』。




