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番外編 その③

キャラクター深堀りと世界観深堀り第三弾。本編だけ読んでも楽しめます。


シェルとカルロの対決。ヨハネに狂うヴェーク。アランとヨハネが友人になる過程。などが読めます。




【特務機関となってからすぐ】

【シェルピェン・ザウェク視点】


 分厚いコンクリートに覆われた壁の向こうからは凍てつく吹雪の音も、雪を踏みしめる重たい軍靴の音も聞こえてきません。ましてや、空をつんざく爆撃の轟音や、絶え間なく鳴り響く死の銃声なんて、ここには一切存在しませんでした。


 私たち遊撃部隊が『国家直属・特別研究および警護部隊』という大層な名前の特務機関に昇格してすぐのこと。新たに案内された地下施設での暮らしは、東部戦線の泥に塗れた塹壕や、隙間風の吹き込む粗末な貨物列車を生き抜いてきた私たちからすれば、何一つ文句のつけようがないほどに快適なものでした。

 将校である私やヨハネには一人一部屋の清潔な個室があてがわれ、そこには沈み込むほどに柔らかいベッドと温かい毛布が用意されています。下士官や一般兵であっても、二人で一部屋という軍隊においては破格の待遇でした。冷たい雪に震えながら眠る必要も、いつ敵襲があるかと怯えて浅い睡眠を繰り返す必要もない。ここは狂気じみた地上の戦争から完全に切り離された、奇跡のように安全な箱庭でした。


 そして何より驚かされたのは、私たちの『食事情』です。


 シュミート大佐殿は特務機関の責任者という絶大な権力と国家から降りた潤沢な研究予算をフルに悪用……いえ、見事に活用し、なんと『一食につき十五人分』もの豪奢な食事を上層部へ要求したのです。

 シュミート大佐曰く『被検体である彼らには大量の血を作らせる必要がある。栄養価の高い最高級の食事を用意しろ』という、いかにもかつもっともらしい大義名分を掲げて。


 当然、私やヨハネさん、大佐殿たち数名だけで毎食十五人前ものコース料理を食べ切れるはずがありません。大佐殿の真の狙いはそこにありました。

 彼は毎食欠かさず、地上で待機している部隊の兵士たちを十人ずつ、この地下室へと呼び寄せるシステムを作ったのです。百二十一人のならず者たちが、四日に一度のローテーションで順番にこの部屋を訪れては、安全な空間で温かい肉料理や質の良いパン、時には香り高いワインにまでありつける。大佐殿は国を欺き忌まわしい研究を隠れ蓑にしながら、部下全員が等しく美味しい食事と平穏を享受できるよう、その冷徹な頭脳で完璧な環境を整えてくださったのです。


 今日もまた。

 大きなテーブルでは熱々のビーフシチューを頬張った兵士たちが、まるで子供のように目を輝かせて笑い合っています。その温かい声を聞きながら、私は配給されたばかりのココアの入ったマグカップを両手でそっと包み込みました。

 このかりそめの平穏が大佐殿の危うい綱渡りの上に成り立っていること。そして、私の身体から抜かれる血がその代償であることを理解していても……それでも、この温かくて満ち足りた時間は、私にとって何よりも尊いものに感じられました。


 こんな風にいつまでも平和に続けばいい、なんて思うのはフラグ乱立ですね。一番言ってはならないセリフですね。真っ先に死ぬのは私が愛した人ですね、ダメですダメです。  ふと、とある下士官、カルロ・モレッティ伍長から呼ばれた。


「シェル様」


 いつの間にか皆さんから『シェル様』と呼ばれるようになっていた。この待遇を受けられるのは、半分は私の血清のおかげ。だからこそ彼らは階級以上に尊ぶべき存在だと思ってくださった。もちろん許可しておりますよ好きに呼んでください。私も嬉しいですからね、ザウェク中尉と呼ばれるより何倍も。


「シェル様トランプでなんらかのゲームやりませんか?」


 ルカが慌てて首を横に振り、カルロの前で腕を広げた。


「ダメダメダメダメダメダメこいつめっちゃ強いこいつめっちゃ強いマジでダメです絶対に俺ワイン二本コイツにぶん取られたダメです」


 あまりにも必死すぎて笑ってしまった。


「私よりお強い方がいるだなんて到底思えません」

「おや?」


 他の隊員たちもソワソワしはじめる。ヨハネも私の発言に青い目を向けた。


「私はそういう勝負事の運だけはあるんです。チェスは負けますが、トランプなら一度も負けたことがありません」


 カルロがにやりと、自信満々に立ち上がる。


「お? やります?」

「ええ。どちらに幸運の女神が微笑むか試してみましょう」


 私達は食事を早めに切り上げ、机を片付け、さっそくゲームを始めた。

 選んだのは五枚のカードで役を作るドローポーカー。賭けのチップ代わりには支給された真新しいマッチ棒を使った。私達の周りで隊員たちがざわめく。


「シェル様めっちゃ強気……」

「あんな顔もするんですね」

「というかカルロなんでお前もそんな強気なんだよ『Ⅲ(三)』のくせに」


 ルカは一人『いいや、カルロはマジで強いからな』と冷ややかな目を隊員たちへ向けていた。

 ルカの言う通り、カルロの運は相当な強さだった。配られた手札だけで『フラッシュ』を引き当てたり、平然と『フルハウス』を揃えてきたりと、ただの陽気なイタリア人とは思えない悪魔的な引きの強さを見せつけてきた。

 しかし、私の運も負けてなんかいなかった。彼が強い役を出せば私はそれ以上の役でマッチ棒を根こそぎ奪い返す。互いに一歩も引かないシーソーゲームが続き、気がつけば机の上のマッチ棒の山は、次の一勝負で全てが決まる状態にまで偏っていた。


 そして迎えた最終戦。


 配られた五枚のカードを確認したカルロの口角が、ピクリと不自然に跳ね上がった。彼特有の、強烈な役を引き当てた時の顔だ。彼は三枚のカードを交換し、手元へ戻ってきたカードを見た瞬間、勝利を確信したように息を呑んだ。

 対する私の初期手札は、数字が見事にバラバラで、同じマークすら二枚とない最弱の『ブタ(役なし)』だった。運はここへ来て完全に尽きたようだ。

 しかし、最後に勝敗を決したのは運ではない。私からしかけた心理戦だった。


「私は……交換しません」


 私がそう告げた瞬間、周囲で見守っていた隊員たちがどよめいた。交換なし。それはつまり、最初に配られた五枚の時点で既に強力な役、ストレートやフラッシュ以上が完成しているという宣言に等しい。


「えっ……」


 カルロの顔から余裕が消えた。私は手元に残った全財産のマッチ棒を、両手で一気に机の中央へと押し出した。


「全て賭けます。勝負(コール)するか、降りる(フォールド)か、お選びなさい」


 声のトーンを極限まで落とし、瞬き一つせずに彼の赤い目を真っ直ぐに見据える。カルロの額からタラリと冷や汗が流れた。

 彼の役はおそらく『フルハウス』か『フォーカード』。普通ならば絶対に勝負に出る強い手札だ。しかし、彼は先ほどまでの私の異常なまでの『強運』を目の当たりにしている。もし私が一切交換なしで『ストレートフラッシュ』を引いていたとしたら? 私の氷のように冷たく自信に満ちた瞳を見つめ返すうちに、カルロの中で『確率』と『恐怖』が急速に逆転していくのが手にとるようにわかった。


「くっ……あぁクソッ! こんなの勝負できるわけがねぇ!」


 カルロは叫びながら、自らの手札を机に叩きつけて勝負を降りた。表にされたカードはスリーカードとワンペアが合わさった強力な『フルハウス』隊員たちから。


「うおっ!」

「なんであれで降りるんだよカルロ!」


 と非難の声が上がる。

 しかし、カルロは青ざめた顔で私を指差した。


「うるせ! うるせ! シェル様は最初から役が完成してたんだ! ストレートフラッシュを出されたら負けるのは俺だ! ……で、シェル様のカードはなんだったんですかッ!?」


 私は無言のまま、伏せていた五枚のカードを優雅な手つきで表に返した。ハートの2、スペードの5、クラブの7、ダイヤの9、ハートのキング。何一つ揃っていない。最弱の、役なし(ブタ)だった。


「……へ?」


 カルロの間の抜けた声が、静まり返った部屋に響いた。


「私の運は、先ほどの勝負でとっくに尽きておりました。最後の最後に使える武器は、運ではなく『知能』でしたね」


 彼が勝手に私の運を恐れ、勝手に自滅してくれただけ。机の上の全てのマッチ棒を自分の手元へと引き寄せながら、カルロは床にゴロゴロ倒れ込む。


「ぐぁぁァァッッ!!!」


 私は楽しくて楽しくて、愉悦で愉悦で!


「ふっ、ふはっ、ふはははハッ! アッハハハハハハハ!!」


 腹から声を出して部屋に笑い声を轟かせる。


「あぁッ、カルロ、貴方の背後にいらっしゃる女神は最後の最後に私へ振り向いたようです」


 ある隊員が「悪に堕ちたシスター」と呟くと、すかさずヨハネが「ありだな」なにが? ヨハネは『それいいね』の顔をしていらっしゃた。

 カルロは弾けるように飛び上がる。


「もう一回! もう一回!」


 ヨハネが静かに椅子を引いて私たちのテーブルへと移動してきた。彼が参加するならとルカも加わり、ここからは四人でできるゲームへ移行した。

 しかし! 誰も私には勝てません。勝てるわけがありません!!

 私の武器はブラフだけではない。一度場に出たカードを全て記憶する暗記力と、相手の視線や僅かな指先の震えから手札を逆算する観察眼。トランプという限定された情報戦において私は無敵なんですよ。

 次々とマッチ棒を巻き上げられ頭を抱える男たちを前に、私は扇状に広げたトランプで口元を隠した。


「何回やっても同じですよカルロ・モレッティ。私を負かしたいのなら、チェスで挑んできなさい」


 意気揚々とそう言い放った私の背後で、観戦していたある隊員が「チェスだと負けるのかわいい」うるさいですね聞こえていますよ。

 すると、机に顔を伏せて絶望していたカルロが、うめき声を上げた。


「くっ……! チェスは、俺も負ける……!」


 その発言に周りの隊員たちから容赦ないツッコミが飛ぶ。


「バカか?」

「バカだな」

「なんでお二人ともチェスの自信はないんですか?」


 カルロは顔をガバッと上げると、開き直ったように叫んだ。


「そもそもルールよくわかってない!」


 もう一度数多の兵士から「バカが」「軍人としてどうなんだ」と一斉に罵られるカルロ。

 私はそっと顔を伏せた。なにも言わず、無言で水の入ったコップを手に取り、こくりと一口飲んで、誰とも目が合わないようにそっぽを向いた。

 ……だって、私もルールよくわかってないから。

 トランプのような単純な記憶ゲームならいざ知らず、チェスのように何手も先を読む理数系の論理パズルは、どうにも私の脳の構造に合わないんです。このまま有耶無耶にして別のゲームを提案しよう。そう思った矢先、ある兵士が満面の笑みで善意百パーセントの行動に出た。


「じゃあ、娯楽室からチェス持ってきますね!」


 あっあっあっあっあっ。


 ダメです。ストップ。持ってこないで。そういうのだけはダメなんです私は!!

 だが私の心の声も虚しく、重厚な木製のチェス盤が私たちの目の前にドンッと置かれた。白と黒の精巧な駒たちが、まるで複雑怪奇な数式の群れのように私を威圧してくる。

 私とカルロは、チェス盤を前に眉間に深いシワを寄せ、まるで爆弾処理でもするかのように恐る恐る駒に手を伸ばした。

 先行はカルロだ。彼は震える指先で小さな兵士の駒をつまみ上げる。


「え、えーっと、ポーンってこれでいい、んだよねっ?」


 彼が一つ前のマスへ駒を進めると隣で見ていたヨハネが、まるで三歳の幼児に絵本を読み聞かせるような、あまりにも優しい声で頷いた。


「そうだね。初手では二コマ進んでもいい」

「じゃあこれで!」


 続く私のターン。私も恐る恐るポーンを摘み、まずは二コマ動かしていく。盤面は一切の戦略性もなく、ただポーンがお互いに前進するだけの泥試合と化していた。次に私がもう一度ポーンを二コマ動かそうとすると、ヨハネがあまりにも優しすぎる声で諭してきた。


「シェル。二順目からは一コマだね」


 ビクッと肩が揺れる。


「……はい」


 私は何事もなかったかのようにすまし顔で駒を一つ後ろへ戻す。周囲を取り囲んでいた兵士の一人が、呆れ果てた声で呟いた。


「史上最底辺のチェス勝負」


 さらに別の兵士から純粋な疑問が投げかけられる。


「あの、ザウェク中尉、士官学校、どうやって卒業したんですか?」


 私は盤面から目を逸らし、地下室の無機質な天井の照明器具をぼんやりと眺めながら返した。


「どうしてでしょうね? 語学は楽しんで学べたのに、歴史などの暗記はごり押しでいけるのに……数学とか、こういう先を読む論理的なものって、どうしてあんなにもなにも理解できないのでしょうね……」


 先ほどまでの威厳は完全に消え失せ、そこにはただの、理数系科目に絶望する一人の少女の姿しかなかった。

 まぁ暗記物も一週間経てばほとんど忘れてるんですけどね。答案用紙を提出した瞬間から頭から消えましたよ。ふふ、ふふ、ほんっと死に物狂いで勉強して卒業しました。特に理数系が辛くて辛くて辛くて。暗記物ですら点数は平均ですからね。ふふ、ふふ。

 周りの兵士たちが好き勝手言いまくりました。


「意外と勉強できなかった側か」

「親近感沸いたわ~!」

「後で大佐に頼んで士官学校の成績寄越してもらおうぜ」


 私は背筋を伸ばし机を叩いた。


「ダメッッッ!!!」


 しかしこの一言に、悪い男たちが悪い笑顔を私に見せつけやがった。



◇



【シェルピェン・ザウェクの成績表】


■ 語学・コミュニケーション:【特優(S)】

■ 諜報・心理分析・尋問実技:【特優(S)】

■ 書類作成・軍用フォーマット実務:【特優(S)】

■ 戦史・軍規:【可(C)】


■ 数学・弾道計算・暗号論理学:【不可(D-)】

 重大な懸念事項。先を読む論理的思考、および数式を用いた計算能力が致命的に欠如している。試験において、完璧で美しい文字と一切のミスがないフォーマットで解答用紙が提出されたが、計算式と答えだけは八割間違っていたという事態が多発。



[教官総評]

 本候補生は、語学力、心理戦、そして決められた規格通りに完璧な書類を作成する事務能力において、他の追随を許さない圧倒的な適性を持つ。しかし、理数系および論理演算能力に関しては絶望的であり、戦術指揮や兵站の計算を単独で任せることは部隊の壊滅を招く危険性がある。 結論として、彼女の立案した作戦書類は見た目は世界一美しいが、計算は全て破綻している可能性があるため、必ず副官、あるいは計算が得意な者にダブルチェックを行わせること。




 ヴェークテルン・シュミートは、机の上に広げられた極秘書類『シェルピェン・ザウェクの士官学校時代の成績表』を一通り眺め終えると、深い疲労感を伴う一言を絞り出した。


「……極端すぎるだろ」


 その声には部隊を率いる指揮官として、常識外れの部下を実は前々から持っていた事実を知った呆れが、たっぷりと混ざっていた。

 彼の背後からこっそりと成績表を覗き込んでいたペネロペは納得したように頷き、たった一言でその異常な数値を総括する。


「ザ・文系特化少女ね」


 ヴェークテルンの右隣で。先ほどからソワソワと落ち着かない様子で視線を送っていたヨハネも、ようやくその紙面を盗み見て整った顔に微かな驚きを浮かべていた。


「数字を見ると脳が物理的に拒絶するタイプか」


 三人の意見は完全に一致していた。

 シェルピェン・ザウェクという女性は、特定の分野においてのみ常軌を逸した能力を発揮する『特化型の天才』であると。また、そういった天才タイプは常人なら簡単にこなせるような物事が『極端に、どうしようもなく苦手』という事実を三人はそれぞれの脳裏で噛み締めていた。

 ヴェークテルンは執務室の重厚なマホガニーの机に肘をつき、痛むこめかみを指の腹で強く押さえた。


「なんなんだ? なんでたまにこういう、コミュニケーションや他者の心理推測は異常に得意なくせに、数字が絡んだ途端に一切できなくなるような、極端なヤツがいるのはなんなんだ?」

「そういうタイプだったとはねぇ……」


 ヴェークテルンの左隣で腕を組んだペネロペは、黒い竜の尻尾をぱたぱたと揺らしながら過去の記憶を引っ張り出す。


「そういえば、前に簡単な計算をお願いしてもやんわりと断られたわ。その代わり『書類の清書や文字を書く作業なら』って、すっごく喜んで引き受けてくれたような記憶がある」


 ヨハネは理解できないとばかりに、地下室の天井を照らす無機質な照明器具をぼんやりと見上げた。


「英語を教えた時は、すぐに発音も文法も覚えて、自分から進んで勉強していたのに……」


 人間の脳って不思議だなぁ。

 ペネロペはヴェークテルンの手元から「ちょっと貸して」と成績表をサッと横取りし、さらに細かな教官の所見欄まで嬉々として読み込み始めた。「おい」とヴェークテルンが咎める声を上げたが彼女はお構いなし。ヨハネも吸い寄せられるように、彼女の隣でその文面に目を落とす。


「え〜もはや成績表すらかわいい〜」


 愛しそうにクスクスと笑うペネロペの言葉に、ヴェークテルンはボソッと「どういうことだよ……」と呟き、執務室で勝手に盛り上がる部下たちを無視して自分の仕事に戻ろうとした。

 だが、ペネロペの悪戯な声は止まらない。


「完璧少女より、こういう弱点がある方が可愛いよね〜、ね?」


 ペネロペは黒と白のオッドアイをヨハネの整った横顔へ向けた。同意を求めるその視線に対し、ヨハネは表情を崩さぬまま静かに答える。


「見られても困ります」

「えー? じゃあ、成績表見ちゃったって本人に言う? これ絶対に絶望して泣きそうになるって。もしくは顔を真っ赤にして部屋から出てこなくなるかもね」


 言葉を聞いた瞬間、ヨハネの動きがピタリと停止。一秒、二秒、三秒……五秒。冷たく美しい彫刻のような男は、頭の中で『顔を真っ赤にして部屋から出てこなくなる銀髪の少女』の姿をじっくりと、本当にじっくりと精密にシミュレーションし……やがて、極めて真面目なトーンで結論を口にした。


「……嘘はいけません。ご本人にしっかりと、お伝えします」

「うっわ悪ィ男! わりぃ男!」


 完全に私欲にまみれたその即答にペネロペは指を指して爆笑した。彼女は上機嫌にシェルピェンの成績表をヒラヒラとさせながら執務室の扉へ向かう。その後ろを、いそいそと、しかし足取り軽く追いかけるヨハネ。彼らは扉を出る直前にだけ軍人らしくビシッとヴェークテルンに敬礼をし、足早に退出していった。

 バタン、と。重い扉が閉まり、執務室には再び静寂が訪れる。

 彼らを見送ったヴェークテルンは一人静まり返った部屋で、先ほど下士官からこっそりと受け取っていた『別の茶封筒』を机の引き出しから静かに取り出した。それは士官学校を卒業した、この部隊の、隊員全員分の、極秘の、成績表の束だ。

 冷徹で完璧な顔を保ったままヴェークテルンは封を切る。

 紙束を取り出し偶然一番上に並べられていた名前《ヨハネ・ド・ブジョワ》の文字と、圧倒的なスコアの数々を見た瞬間。

 ヴェークテルン・シュミートの金色の瞳が獲物を見つけた猛禽類のように、狂信者のように、歪に三日月型に吊り上がった。


「んふ~~~ッヌひひひひひィ~」


 若きエリート大佐の口から出たとは思えない、粘着質で気味の悪い笑い声が地下室に響き渡る。

 極秘情報を独り占めした彼は、一日中誰にも邪魔されることなく、隊員たちの過去の成績を勝手に眺め回し、彼らの士官学校時代を勝手に脳内で空想するという、指揮官の権力を最大限に乱用した至福の時間を過ごしていた。

 だが、彼は竜姫の成績を見た瞬間。


「……チッ。なんでオールSなんだよ」


 その成績表だけはろくに見ず、次を手に取った。



◇



【シェルピェン・ザウェク視点】


 大広間のソファで隊員たちと談笑していると、ペネロペちゃんが凄まじいほどの笑顔で部屋に来た。

 あらあらどうしたんですか、楽しそうですねと、その手にあった『紙』と『名前』を見た瞬間。


「ぎゃぁあああああ─────ッッッ!!!」


 私は一秒で思考。

 なんでなんでなんでなんでなんで私の成績表がペネロペちゃんの手にアッ後ろにヨハネ居るあの顔は『見ちゃった』の顔だどうしますかこれ、奪い取る? 燃やす? 撃つ? 選択肢はただ一つ!


『逃げる』


 私は一秒で思考した。ペネロペちゃんに敵うわけが無いので即時撤退。大広間の隣にある廊下を走り、私の個室を能力で扉を開け、ベッドへ飛び込み閉じ籠る。

 カチャ。と能力で鍵を閉めた。


◇


 ペネロペは、現れてから三秒以内に自室へ逃げた真っ赤に染まった顔と、銀色の髪を目線で追いかけた。


「はっや」


 隊員たちもそれを眺める。


「素晴らしいほど速い戦略的撤退」

「えっ、成績表……?」

「あー、だから逃げたのですか」


 誰も竜から物を奪えるわけがない。なら、事がおさまるまで部屋に閉じ籠るのが最善。しかし成績表を見た隊員は今後ずっと忘れることはないので一時的な回避でしかない。

 ペネロペは明るい声で室内へ。


「見る人、挙手」


 バッ、と全員手を挙げた。




◇




【アラン・ルフェーブル視点】


 上層部からの監視の目が光る、息の詰まるような野外合同訓練が終わった直後のこと。

 雲一つない青空から容赦なく照りつける太陽のせいで、俺たちは皆、分厚いフィールドグレーの軍服の中で汗だくになり舌を出した犬のように喘いでいた。

 だが、俺たちの部隊には『我慢』という概念が存在しないフランス貴族が約一名いらっしゃる。


「……不快すぎる」


 ヨハネ・ド・ブジョワ少佐殿は忌々しげに額の汗を拭うと、周囲の目など一切気にすることなく暑苦しい黒の軍服の上着を乱暴に脱ぎ捨てた。さらに内側のシャツのボタンまで外し、はだけた薄着のまま、近くにあった訓練用の手桶を掴み上げる。バシャッ! と。豪快な水音が響き、冷たい水が彼の頭から勢いよく降り注いだ。

 濡れた黒髪が透き通るような白い肌に張り付く。水滴が完璧な造形の顎のラインを伝い男らしい喉仏から、薄着越しに透ける引き締まった胸筋へと滑り落ちていく。普段の『冷たく気高い貴族』としての顔に、荒々しく野性的な『男の勇ましさ』が融合したその姿は、同性の俺から見ても理不尽なほどに絵になっていた。くそがよ。まるで一枚の宗教画が、炎天下の泥臭い訓練場に突如として現れたかのような錯覚すら覚える。くそがッ。

 あーあ。また監視役の女性がポカンと口を開けて見惚れてるよ。ん? よぉく見たら見ない顔だな、新しく配属されたから余計にヨハネ様の美しさに胸撃たれたか。はじめて見るとさらに顔がよすぎてそれしか見えねぇよね~~~くそが。

 俺はすっかり慣れた光景に目を反らし、ふと気になって視線を横へ向けた。こういう時、俺たちの指揮官であるヴェークテルン・シュミート大佐殿がどんな顔をして『ヨハネ様』の供給を浴びているのかを確認するのは、彼の部下としての嗜みの一つ。


 大佐殿は少し離れた木陰に直立不動で立っていた。


 軍服にはシワ一つなく、いつものように冷酷で隙のないエリート将校の顔を作ろうと、必死に顔面神経を総動員して戦っている最中だった。

 ああ、俺には聞こえるよ彼の葛藤が。


(こらえろヴェークテルン・シュミート。周囲には監視がいる。ここで上官としての威厳を崩しては……ッ、だが、あの水も滴る美貌と男らしさの完全なる造形美……ッ! なんだあの美しい生き物は……ッ!!)


 俺には大佐の心の声が手にとるように聞こえてるよ。

 大佐はワナワナと肩を震わせ金色の瞳を限界まで見開き、呼吸を忘れた陸上の魚のように口をパクパクとさせている。やがて、軍規も、威厳も、自制心も、彼の中の全てが『ヨハネ・ド・ブジョワの美しさ』の前に完全敗北した瞬間。


「ギーーーィッッッはッッ!」


 突如、甲高いブレーキ音のような、人間の声帯から出たとは思えない奇声が響き渡った。

 直後、大佐殿は自らの両腕で顔を力強く覆い隠し、そのままバタンッ! と棒のように真っ直ぐ砂埃を上げて地面に倒れ伏したのだ。


 あーあ。またやってるよ。


 全員がそんな顔を大佐へ向けていた。

 大佐は両腕で顔を隠したまま「んふっ、ひ、ひぃぃ……んっは」と気味悪く小刻みに震えている。完全に致死量超えてるわコレ。

 周囲の監視役の兵士たちが「し、指揮官殿が倒れたぞ!」「衛生兵!」とざわめき始めたのを見て、慌てて他の隊員が止めにはいる。


「結構です!」

「私達が運びます!」

「いつもの発作です!」


 俺は走り出した。地面で「素晴らしい……最高だ……」とブツブツとうわ言を繰り返す上官の体を必死に揺さぶり、息の荒い上官を叩き起こすしかなかった。マジでなんなんだよこの男。



 ──食堂で。俺達の背後に居た一般の女性将校の会話を俺は盗み聞きしていた。


「あのフランス人少佐に、どうして指揮官の大佐殿が……なんていうのでしょう? 狂乱? しているのは、アレはなんなのでしょう?」


 俺は笑いを押さえ込み、机に肘をつけ片手で顔を隠す。


「私達よりも嬉しそうに倒れてましたね」

「お気に入りの部下……にしては違いますよね」

「あの少佐と同じ部隊の女性将校が羨ましいと思いはしましたが、な……はい。うん」


 そうなるかー!! しかしまぁわかる。他人目線だと完全に『エリート純血ドイツ人大佐が異様なほどフランス人少佐をお気に召している』光景にしか見えないよな! アレは定期開催される、もはや発作だからなぁ、仕方ない仕方ない。我らが大佐殿は顔のいいヤツがお好きだから、恋愛の意味ではなく、美術品としてね。

 次に聞こえた言葉に、俺とカルロは耐えきれる気がしなくて、その場で腕を組み笑い合った。


「私は“そういう関係”なんじゃないかと」


 ガシッ! と掴み合うしかねぇだろ!


「んははははは!」

「ふははははは!」


 愛人関係!! まさかの! いやいやそんなわけがねぇだろ!

 ヨハネはシェル様しか見えていない。シェル様のためたら世界を炎で焼き尽くせるほど彼女を愛している一途な男だ。そして大佐殿はヨハネの顔がすきなだけの一般(?)異常男性ってだけ。こんな二人ができてるわけがねぇだろ! あー、面白すぎるゴシップだった。

 二人で息を整えながら配給の食事を胃袋へ掻き込む。声を出しすぎてその他のドイツ人オンリー将校たちから目を向けられちまった、逃げるぞカルロ。赤い目を合わせると彼も頷いてくれた。

 誰かがドイツ語で小さな会話をしているのを聞きながら、急いで立ち上がる。

 そんな時、その女性将校たちの言葉を俺は聞いてしまった。


「けれど大佐殿は、“劣等民族の少女”を特別に匿っているそうです」


 俺もカルロもその言葉から逃げ出した。



◇





【アラン・ルフェーブル視点】


 俺たちにとっての『シェルピェン・ザウェク様』は、他の純血主義に染まったドイツ人たちからすれば彼女はただの“劣等民族の少女”でしかない。おまけに十二歳の見た目で成長が止まった奇病持ちだ。能力者の中にたまに現れる、老いることは無いが、ある日突然、眠ったように息絶えてしまうという残酷な時限爆弾を抱えた存在。

 そんな原因不明の奇病は昔から魔女やら妖精やら、人々から好き勝手なレッテルを貼られ迫害の対象になっていた。


 そんな暗い現実を振り払うように、俺は特務機関専用エリアと化した地下へと足を向けた。

 冷たく無機質な長い廊下を進み、無数に広がる鉄の扉を無視して歩く。警備中の隊員に軽く敬礼を返して、内鍵のかかった一番奥の鉄の扉を押し開けた。


 ここは戦場とは無縁の箱庭の世界。

 まるでどこぞの高級ホテルのように整いすぎた室内の大広間。その中央の豪奢なソファで、ブジョワ少佐殿は長い足を組み、優雅に分厚い本を開いていた。フランスの骨董屋で彼が大金を払って入手した『能力者に関した歴史書(※発禁本)』だ。間接照明のオレンジ色の光に照らされた彼の青い目は、まるで夜と夕日が混ざり合っているような幻想的な色合いを帯びていた。

 俺が足音を殺して近づいたにもかかわらず、ヨハネは視線を本に落としたまま心地よい低い声で言葉を鳴らした。


「能力者はかつて、魔女、魔法使い、妖精、時には『神から与えられし奴隷』として扱われていた歴史があるよね?」

「……その本、さすがの大佐殿でも見つかれば一発で押収されますよ」

「あの男の気配は覚えたから大丈夫」


 何を言ってんだ? 俺は眉をひそめながら、ヨハネ様の座るソファの脇へと歩み寄った。


「気配? 足音でわかるってことですか?」

「いいや、気配そのものだよ。分厚い壁の向こうに居ようと、あの鉄の扉の手前までならわかる。誰が来ているのかぐらいはね。ああ、もちろん一度その気配を覚えないとわからないけど」


 何を言ってんだ?? 呆れる俺の隣でヨハネ様は視線を本から外し、サイドテーブルに置かれていたすっかり冷めきったコーヒー入りのコップへと右手を向けた。触れることすらなく、念力でふわりとコップを宙に浮かす。そして空いた左手のひらに、あの『青い炎』をぽっと宿した。彼はその業火を、まるでガスコンロのように微調整しながらコップの底に当て再加熱。コポッ、とコーヒーが沸騰する音が鳴ると、彼は炎を消火した。

 そのまま空中に浮かんだコップに直接唇を寄せ、熱々のコーヒーを優雅に一口飲む。


「本当に最近のことなんだけどね。あの悪魔と戦った翌日から、なんだか妙なんだ。そのヒト特有の臭いとかあるよね? それと似たようなものを壁越しでも『感じる』ようになった」

「……ただでさえ能力階級『Ⅸ(九)』に上がったっていうのに、まだ能力が成長してるんですか?」


 これ以上強くなったらどうなるんだよ。

 念力がある。翼がある。全てを灰にする炎を扱える。その上、広範囲の気配探知まで目覚めている? もはやバケモノだろ。ああ、もちろん最大級の敬意と畏怖を込めての『バケモノ』だ。

 俺はため息を吐き出しながら、向かいの椅子に腰を下ろした。


「能力者は遺伝しない。能力者同士が結婚しても、子供に能力は引き継がれない。だから単なる突然変異なんだろうと、俺はずっと思っていたよ」


 ヨハネの静かな言葉に、俺はつい、心の奥底に沈めていた自らの過去を口走ってしまった。

 他に誰もいない、この静かで安全な空間の空気に当てられたのかもしれない。


「……俺の一番下の妹は、能力者でしたよ。父親が能力者でね。もし遺伝しないのなら、なら、なにが原因で発現するんでしょうね?」


 両親は能力を持った妹だけを狂ったように可愛がっていた。父親は自分と同じ能力者の子供が欲しくて、ただそれだけのために無駄に多くの子を作った。俺のような『ハズレ』の無能力者たちを何人もな。

 ヨハネは俺の声に混ざった微かな自嘲を察したはずだ。頭がいいからわかるに決まってる。だが彼は、あえてその暗い過去には一切触れず、視線を本に戻して淡々と話を続けてくれた。


「もしも、この本の内容が事実ならば。能力者の能力は《魂》が由来となる」

「オカルトですか?」

「かもしれないね。これは歴史書を装ったオカルト本だった」


 ヨハネは本のページをパラパラと捲り後半の黄ばんだページを俺に見せた。そこには奇妙な図形や、見たこともない言語がびっしりと記載されていた。


「前半は歴史。だが後半には『魔術』について詳細に記載されていたよ。魔術の行使の手順についても、まるで教科書のようにご丁寧にね」


 ヨハネはふと顔を上げ周囲を見渡した。そして鉄の扉の向こう側を透視するかのように見つめ、誰も近づいてきていないことを確認する。


「試しにやってみたよ。この本に書いてあった《エズ級魔術──衣装変更》というものを」


 彼は分厚い魔導書を机の上に置き、机の下からあらかじめ用意していた『私服』の束を手にして立ち上がった。

 そして、薄く形の良い唇が、呪文を紡ぐ。


「《エズ級魔術──衣装変更》」


 次の瞬間、俺の目の前で常識が完全に崩壊した。

 ヨハネの全身を突如として虚空から現れた『黒い帯』が幾重にも覆い尽くした。まるで彼自身が巨大な繭に包まれるかのように。だがそれはほんの一瞬の出来事。黒い帯がしゅるりと解け、空気中に溶けるように消え去った後には──。

 先ほどまで窮屈な軍服を着ていたはずのヨハネ・ド・ブジョワが、手に持っていた私服姿へと一瞬で変貌して立っていた。


「はぁッ?!!」


 俺は椅子から転げ落ちそうになりながら、素っ頓狂な悲鳴を上げた。


「は、はぁぁぁ?!」


 なになになになになに?! あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない。

 異能の力で物を浮かすのはわかる。炎を出すのもわかる。だが、これは違う。明らかに次元の違う完全な超常現象のファンタジーだ。

 呆然と目を剥く俺を見下ろす私服姿の美しきバケモノは、ひどく満足そうに悪戯な笑みを浮かべていた。

 ……待てよ。落ち着け俺。科学と銃弾が支配するこの軍隊において、魔法だなんて非科学的なものが存在するわけがない。そう、絶対に、断じて、あるはずがないだろ!

 俺は自らの常識を守るため強引に一つの結論を導き出し、パチン! と景気良く指を鳴らした。


「あ、わかった! 手品だ! なぁんだ少佐殿はそんな器用な大道芸までできるようになったのですね! いやぁ驚いた、見事な早着替えでしたよ」


 俺が引きつった笑顔で必死に現実逃避を試みると、ヨハネ様はそんな俺の必死な抵抗を鼻で笑うこともなく、ただ静かに、その深海のような青い瞳で俺を真っ直ぐに見つめてきた。


「君も『気配』がある側の人間だよ」


 ……は? 俺は振り上げた拳を下ろす場所を見失ったように、ぽかんと口を開けた。


「だから、さっきから言う気配って、なんなんですか……?」


 俺は無能力者だ。ただの、フランスの田舎町から引っ張られてきただけの平凡な男だ。炎も出せないし、空も飛べない。

 だがヨハネの眼差しは冗談を言っているようには見えなかった。オレンジ色の照明に照らされた彼の横顔は、まるで俺の魂の奥底まで見透かしているかのように、静かに、確信に満ちていた。


「この本曰く《魂》と《魔力》はイコール。魔術を使うには《魔力》が必要らしい」

「オカルト?」

「今さっき見せつけただろ?」


 あれは、あれが、現実だとは俺は思いたくなかった。そんなのが存在してしまうのなら、なら。待てよ?


「少佐殿。その気配とやらがある隊員は他にもいるのですか?」

「全員に気配はあるけれど、比較的あるなぁと感じるのは君だね。ああ、俺達の隊で最も気配が濃くて、強くて、多すぎるのは《シェルピェン・ザウェク》だ」

「それは好きだからゆえの盲も」

「違う」


 否定はっや。


「君がもしも俺と同じく、この変な感覚が備わっていればわかるよ」


 ヨハネはシェルピェンの居る方角を見ると、青い目を伏せて、ゆっくりと顔を大きく反らした。


「……あの子はまるで青い太陽のように眩しすぎる」

「それは客観的な事実ですか? 口説き文句か何かではなく?」

「俺からすれば事実だね」


 ほんとかな~??

 ボソッとヨハネは呟き、腕を組んでいた。


「見ようとしなければ見えないからいいけれど」


 なんっか嘘臭い話ばかり聞かされてるなぁ俺。いや、見たんだけどさ実際に。

 ヨハネ様は本を念力で浮かして手に取り、軍靴ではなく革靴を鳴らして自室へ向かう。


「おいで《アラン・ルフェーブル》」


 その声はまるで悪魔が人間を禁忌の世界へ誘うような、甘ったるくて誘惑的な、抗いがたい妖艶さを孕んでいた。

 俺は考えた。その怪しい本になにが書いてあるのかは知らないが、ヨハネが何をしたいのかは察した。俺を実験台として、そのあやしいオカルトな《魔術》をさせて検証したいんだな? 本の内容が事実かどうかを俺を通して見たいんだな?

 それなら、ああ、ついていこう。

 俺はソファから立ち上がり、悪魔の部屋へ足を踏み入れた。


「ちなみにその気配が次に多いのは?」

「俺」


 なんかめっちゃ腹立ったなぁ今の。なんでだろう?


◇



 ──ヨハネ様曰く。

 この部隊の中で最も気配が多いのはシェルピェン様。二番目はヨハネ様ご自身。三番目にペネロペ様の気配が多く、俺は平均よりちょっと多いな? くらいらしい。

 俺に白羽の矢が刺さったのは、能力者以外の人間で、かつ『共犯』のような関係になってくれるのが俺だけだったからだそうだ。これも同じフランス人のよしみってやつかな?


 無機質な鉄の扉の向こう側、ヨハネ様の個室に足を踏み入れると、そこは戦場の空気とは完全に切り離された異質な空間だった。薄暗い間接照明の中、革張りのソファに深く腰掛けたヨハネ様に俺はフランス語で尋ねた。


「大佐殿は?」

「八番目辺りかな? いや、九番? でも彼のは少し変わってて……濃縮されてる感じがして、よくわからない」

「どういうことですか?」

「俺もよくわかってない」


 最強の能力者をもってしても理解不能な大佐殿の気配ってなんだよ。怖すぎるだろ。

 俺が心の中でツッコミを入れていると、ヨハネ様は膝の上に置いていた分厚い本を開き、俺の目の前へと差し出してくれた。骨董屋で彼が大金を出して買ったという、あの黄ばんだ古い本だ。

 視線を落とした瞬間、俺は首を傾げた。


「……なんでこれフランス語で書かれているんですか」

「謎だよね? シェルに歴史の範囲だけ見せたらポーランド語で読めるって」

「意味わかんねぇ~」


 読む人間の母国語に合わせて文字が変換される魔導書? もう完全にファンタジーの領域じゃねぇか。

 俺は頭を抱えながらも、とりあえずヨハネ様が指差したページに目を落とした。えーとなになに?


『【魂と魔力の相関理論】

 魂の内包エネルギーと魔力は、本質的に同一の概念として定義される。

 また、魔力は生命体に内在するのみならず、大気中にも遍在している。わかりやすく近代の機構に例えるならば、《魂》とは魔力を駆動させるための『エンジン(機関)』に過ぎず、魔力はその動力源たる『ガソリン(燃料)』として機能する。このエンジンたる魂の構造および魔力の許容量は個体の属する種族に依存して明確な差異が生じる。例を挙げるならば、悪魔は──』


 なにこれ~~~。え? なにこれ~~~。

 いや待て、一旦読み進めるけど、マジでなにこれ~~~。


『【魔術の行使手順および階級規定】

 魔術を行使するための基本原理は以下の通りである。

 第一段階として、術者の体内に存在する魔力を媒体とし「魔術語」を構築する。魔力によって術式を精密に形成し、最終段階としてそれを外界へ展開する。これを物理現象に例えるならば、あらかじめ導線を敷設し、最後に電流を流して着火させる工程に等しい。起爆と同時に魔術は事象として展開される。

 なお、事象の展開において複雑な「演算」が要求される場合もあるが、それは上位指定である『ファブ級魔術』以上に限られる。

 よって本書の前半部においては初級基礎魔術たる『フォノ・エズ級』の教要を記し、後半部において応用技術を伴う『ファブ・準ライ級』の解説を──』


 未知の単語の連続に脳がショートしそうになりながら、ある程度まで目で追ったところでヨハネ様が静かに聞いてくれた。


「どこまで読んだ?」

「ふぉの? とか、ふぁぶ? とか、階級が書いてあるとこまで」

「一回説明どおりにやってみてほしい、隣に初級の魔術一覧があったよね?」


 やってみてほしい、と涼しい顔で言われても困る。俺は思わず聞き返した。


「少佐殿は、いえ、ヨハネはどれほどで、できましたか?」

「三日はかかった。感覚がわからなかったからね、わかったらすぐにできたよ、簡単なものなら」


 それがさっきの瞬間着替えか。三日で魔法使いになっちゃったよこの男。

 俺は本から顔を上げ放心混じりに呟いた。


「……魔力やらなんちゃらやら、実在した?」

「しかもかなり現代的な教科書として記載されている。エンジンやらガソリンやらの例えは、もはや学生向けの言葉だったよね」

「確かに。確かに……?」


 言われてみれば、オカルトチックな外見の割に内容はひどく論理的でわかりやすい。

 俺が戸惑っていると、ヨハネは本を指先でなぞりながら自らの推理を教えてくれた。


「この本は、もしかしたら『教科書』かもしれない。前半の歴史書は確かに能力者に関する歴史書だった。けれど、後半はとってつけて張り付けたような内容だし、よく見ると紙の大きさが違う」


 俺は改めて本を横から覗き込んだ。本当だ。明らかに大きな紙束の上に、一回り小さな紙束を不自然に乗せて再編集したような、歪な構造になっている。


「そしてその本には結局『準ライ級魔術』が無かった。二冊セットだったんだ」


 つまり、この魔導書は『下巻』あるいは中途半端な寄せ集め。あの薄暗い骨董屋には続きの『上巻』がまだ眠っているかもしれないということか。

 俺が思考の渦に沈みかけていると、ヨハネは俺へ手を差し伸べるように優雅に促した。


「とりあえずやってみて」

「どうやれと?」

「体内の血液を動かすように、その本に書いてある文字を作る」

「ど、どうしろと???」


 ヨハネ様は非常に優しく、丁寧に教えてくれた。

 だが彼のそのアドバイスは、俺にとっては永遠に理解できない類の感覚だった。


「能力を使うときと似たような感覚だね」

「俺にはその『能力』がありません」

「本曰く『金属の類い』が最も多く魔力が含まれる物質らしいね、なにか感じない?」


 彼は念力で棚をカタッと開け、忍ばせていた拳銃を引き寄せ手に取る。

 そう言われても、なんも感じねぇよ! 感じてたら既にわかっとるわ!

 ヨハネ様が本を貸せと手を伸ばすので、お返しした。


「もしくは文字と記号を描いて発現させるヤツがあったような……ああ、あったこれだ」


 そのページには、四角い枠の中にびっしりと文字やら記号やらが記されていた。


「うっわ、まさになオカルト」

「おそらくこの文字と記号が魔術語ってやつ。計算式なんじゃないかな? 『o』が何回も出てるし、説明にも演算方法のコツなんて書いてある」

「数学か?」

「似たようなものかもしれない。これとセットで魔術の指定範囲も書かないといけないらしいからね」


 ペラペラと紙を捲り見せてくれた。◯メートル指定範囲式、◯平方メートル式……って。


「え? 数学??」

「数学だよね?」

「まさかこんな本で『メートル』出てくるなんて」


 範囲計算に、面積計算に、体積の計算まで書いてあるぞこれ。数学の問題集かよ。

 ヨハネはくすりと笑いながらある箇所を指差す。


「ほらここ読んでみ? 『目標の体積と半径(π)を求め、適切な魔力を係数として代入』」

「数学じゃねぇか!」

「君、ちなみに数学は」

「そこそこにはできましたね」


 と言ってはおいたが、勉強だけはそれなりにできましたよ? 暗記物も数学も平均以上には。満点は取れないけど。

 ヨハネ様はソファに深く寄りかかり、棚から紙とペンを念力で浮かして俺に差し出してくれた。宙に浮かぶそれらを受け取る。俺からしたらこの光景の方が《魔術》ですね。


「書きたくないからやらなかったけど、やってみて」


 この野郎……。

 まぁものは試しだ。ヨハネもやっていた《エズ級魔術──衣装変更》を紙で記入。教科書通りの計算をして、出てきた数字を適切な代入するように、見よう見まねで図形を描いていく。定規とか使わないとでは? と思ったけど、とりあえず形にはしてみた。

 うーん。できたけども、それでこれをどう発動すれば。


「にしても久しぶりに計算した……」

「魔術はゴリゴリの理数系分野かもしれないね」

「ファンタジーすら頭良いヤツ有利かよ」


 夢がねぇなぁ。いや、ロマンではあるんだけど、夢がねぇよぉ。

 問題はこの後だ、どうやって魔力(ガソリン)を流し込んで発動(着火)させるか。そもそも実在するのかそういう不思議な力が。能力者が居る時点で疑うのも変だけどな、科学でもまだ能力者の能力について判明しきれてないらしいし。

 すると、ヨハネは紙に手をかざし、グッと押し込んだ。

 インクが着火。青い炎が描いたインクをなぞるように走ると、ヨハネは黒い繭に包まれる。先程と同じくしゅるりと消え去ると、彼は軍服の姿でそこにいた。

 す、すげぇ……よくよく考えたら、なんて便利な《魔術》でしょう。

 ヨハネも目を見開いて驚いていた。


「あ、できた。なるほどね、そういうことか」


 その手もとにあった紙は、何事もなかったかのように燃えてなんていなかった。

 彼は顔をあげ、深海の目を俺に向ける。


「一度作れば何度でも簡単にできるのが記述式。いちいち頭で考えながら体内で練り上げるのが実践式。ああ、なるほど、面白いね?」


 ヨハネはもう一度魔術をやろうと紙に触れた、その時。

 ブチッと切れるように、焦げたインクから赤い炎が飛び出し、ボワッと火災。机は木製だ。慌てて部屋に置いてあった花瓶をヨハネは念力で引き寄せ、中身を逆さにした。ジュワ! と煙が上がる。しかし水が足りない。俺はすぐに寝室のすぐ隣にあるシャワー室へ走り、おいてあったバケツに水を組んで、机にビシャッ! と水をかけた。


 ジュワ! と完全鎮火。机が少し焦げてしまった。


 俺達は無言で、何も言わず、お互い目を合わせる。先に口を開いたのは俺だった。


「……大佐殿には」

「ついうっかり能力で焦がしたことにしよう」

「……ですね」

「一回限りか。誰でも使えるようになるけど、儚いね」


 俺達はもう一度、先程と同じ席に座り、焦げ臭い香りを感じながら本を見た。

 ヨハネは口に手を添える。


「しかしこれ、戦争での戦い方が変わってしまう。中には《圧縮》だの《拡大》だの、荷物を可能な限り減らせる便利すぎる魔術があった」

「兵たんそのものがかきかわっちまう……」

「《水属式》なんてものもあってね、魔力量に合わせて水を生成できると」

「こっわ! 誰でも水の能力者に? こっわ!」


 つまり。一人の兵士が戦車部隊の全弾薬や、一個師団の食料を圧縮して持ち運べるようになるという、戦争の概念そのものを根底から覆す兵器に早変わり。さらに《水属式》があれば、砂漠戦や塹壕戦での「水不足」という軍隊最大の弱点すら無効化までできる。

 もしこの『魔導書』の真の価値に上層部が気付いたら、どんな犠牲を払ってでも量産しようとするだろう。もはや、世界中のパワーバランスが崩壊してしまう。

 ヨハネが冗談半分で骨董屋から買ってきたこの一冊は、実は『核兵器の設計図』レベルの超絶ヤバい代物だったわけだ。

 ヨハネは俺を見ながら言った。


「これは、誰にもバレてはいけないまさに禁書だ」

「貴方それを俺にやらせたんですか?」

「面白半分でやらせた」


 まぁ、ヨハネの立場だったら、俺も面白半分でやらせるかもなぁ。

 ヨハネはにやりと頬をあげる。


「でも、《魔術》は誰でも使えることが判明した。この本は事実であることも。ただし、魔力さえ流せればね」

「結局俺はその気配? 魔力? がわかりません」


 俺が書いたあんな雑な文字でも、ヨハネが紙に触れたら使えたんだ。紙を量産して、俺もその魔力とやらが分かれば。

 ……いざというとき、ペネロペを守れるかもしれない。

 俺はヨハネを見た。


「もう少し研究しません?」

「やる? やる?」

「顔が笑ってますよ」




 まさかの『深夜の(非公認)ガチ魔術研究会』が結成されるとは思わなかった。


 戦争や人体実験が飛び交う殺伐とした世界の裏で。厳格な軍事地下施設の一室に男二人が集まり、フランスの骨董屋で買ってきた怪しい本を広げ、あーだこーだ言いながら数学の計算をしたり、たまに机やカーペットをうっかり燃やして水をぶっかけたりした。

 いやぁこういうのやっぱロマンがあって楽しいね! 少年心がくすぐられる、ってヤツだね! ヨハネも意外と悪ガキの部類で、普段は冷酷そうな雰囲気を纏わせる超絶美形な姿してんのに。


 ──俺がヨハネの部屋に踏み入れた瞬間、足元でぐしゃっと紙を踏んだ感触。嫌な予感がした直後。


 足元から噴水のように水が吹き出した。


「だッ、ァははははははは!!!」


 クソガキが。ソファから崩れるように笑い転げやがった。

 俺はびちゃびちゃな姿のまま部屋に入り扉を閉める。クソガキは床に伏せたまま、ひーひーと腹を抱えて息を整えていた。


「あ゛~~~ッ、満点!」

「何が?」

「いい顔だった、非常に満足のいく素晴らしい反応だった」


 パチパチ、と拍手を送られたが、俺はツバを吐いてやりたい気持ちしか沸かなかったよ。

 俺はヨハネの部屋にあるタンスを開け、濡れた手をヨハネの服で拭き。


「あ!」


 立ち上がろうと無視して、棚の奥にしまいこまれた正方形の紙の中から《ファブ級魔術──結界式・乾燥》を手に取り《魔力》を流した。紙はインクをなぞるように赤く燃え上がる。

 足元に黒い帯が正方形に走り、空中にも走り、俺を取り囲むように結界展開。ぶわっ! と濡れた全身が乾くと結界が解除。紙は焦げたのでもう使えない。ビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。

 後ろでボソボソと暴言並べるクソガキを無視して、俺は乾いた衣服でソファに腰かける。


 俺は改めて、不機嫌にソファに座るヨハネを見た。ヨハネが言っていた『気配』がようやくわかった。最初からずっと空気あったし、俺の体内にもあったし、ヨハネの中にもあった。目には見えないし、聞くこともできないし、音も聞こえないが、確かにそこにあった。どうして気づかなかったのかと聞かれても、両目の無い盲目の人間がある日突然目を手にいれたように、備わっていた機能を手に入れはじめて視界を見た感覚だ。

 だからこそわかったよ。ヨハネはまるで深海の底のようにどんよりと重たい気配がして、シェル様はまるで天国を照らす太陽のように心地よい気配がすることを。感覚の話だから表現ムズいけど、例えるならこれ。


「それでヨハネさんよ、《ライ級》の《短距離転移》はできました?」

「無理」


 俺達は今、本に唯一、一ページのみ残されていた《準ライ級魔術──転移式・短距離転移》を行おうとしていた。最も代表的な上級魔術がこれらしい。その次のページからは断絶された崖のように背表紙になってしまった。

 この魔術が成功すれば、こっそり施設から抜け出せる。ヨハネはいい加減この軟禁施設から出て、もし可能であれば魔術書の下巻を手に入れたいらしい。俺も欲しい。

 だが、ヨハネでも《準ライ級》は厳しかった。おそらくこれは準一級の魔術。計算式は記載されておらず、実践用の魔術語しかそこにはない。残念ながら俺はまだ『体内の魔力で式を描く』感覚が掴めなくて、紙にいちいち書くしかなかった。けれど、魔力を流す感覚だけは掴めたので前進はしてる。

 次はヨハネから聞かれた。


「そちらは? 何リットル限界?」


 俺は《水属式》で可能な限りの水を生成してみた。俺の魔力量どれぐらいなん? と思って。ああ、ヨハネはシャワー室のバスタブを十回満たしてもピンピンするほどでした。


「バスタブ二回分ですね」


 絶望的すぎる差が、こんなところでも発揮されるなんてな。


「よくわかりましたよ、能力者が能力使いすぎると、なんで疲れた顔したり気絶するのか。俺もバスタブを満たしたら意識が朦朧として視界がぐわんぐわんなりました」

「だろ? これ以上は死ぬってなるよね」

「なりましたわ……」


 バスタブに水が満ちようとしたその時、俺は足元から力が抜けて頭と視界がぐるぐると回り、しばらく立てなくなってしまった。あと一リットルも作れば意識が飛んでたと思う。

 おかげでわかった。能力者たちが使っていたのは《魔力》であると。あの本に書かれてある文章は全て事実だった。

 つまり《悪魔》は実在し、《魂》そのものが俺とヨハネでは違う。

 ヨハネは机にある魔術書をペラペラと捲る。


「能力を酷使することがいかに苦しいかわかったよね、気合いや根性ではどうにもならないことも」

「ええ、身に染みました」


 だから能力階級がある。同じ炎の能力者でも階級に差があるのは『魔力量』が違うからだった。俺はやっぱり能力はないけれども、媒体を通して扱ってわかりましたよ、彼らがいかに身を粉にして能力を使っていたか。

 ヨハネは本を捲る手を止め、対面に座る俺を見た。


「どうにかして下巻が欲しいけど、どう? なにかいい案ある? 大佐殿から許可は?」

「案もありませんし許可も降りてません。フランスのあの港まで片道一週間以上かかるんですよ? 三週間休暇くれって言いましたが……最大でも一週間まで、と」


 ヨハネはソファの上で足を組み、肘掛けに肘を添え、頬に手を添えた。


「ふんっ、堅物が」


 うわ。この光景をあの大佐が見たらすっげー笑顔になってんだろうな。

 だが、シュミート大佐殿はお優しいよ。


「一応、俺もフランスの捕虜兵士なんで……これ以上の待遇を求めるのも厳しいですね。一週間もらえるだけでもだいぶ譲歩してくれてると思います」

「それは……まぁ、そうだね。その通りだ」


 ヨハネは渋々といった様子で頷いたが、冷静に考えれば『一週間の休暇』が出たこと自体が軍隊の常識からすれば完全に異常だ。

 俺はただのフランス兵。ドイツ側から見れば敵国の捕虜であり、本来なら収容所で強制労働の末に使い捨てられるか、最前線の塹壕で肉の盾にされるのが関の山の身分だ。そんな俺が、基本的人権すら存在しないただの『奴隷』の俺が、軍の最高機密機関の責任者である大佐殿に対して『母国のフランスへ帰らせてくれ』と直接要求した。普通の指揮官はそんなふざけた要求を聞いた瞬間に『脱走』あるいは『敵国へのスパイ行為』と見なし、その場で眉間を撃ち抜いて終わりに決まってる。

 だが、あの大佐殿は俺を撃ち殺すでも激怒するでもなく、真顔で『三週間は流石に上層部へ誤魔化しきれないが、一週間ならなんとかしよう』と交渉に応じてくれた。その一週間の休暇を俺に与えるために、大佐殿が裏でどれほどの綱渡りをしているか、想像するだけで恐ろしい。おそらく俺の偽造身分証をでっち上げ、架空の極秘任務を捏造し、国境の検問を通過できるように各所に裏から手を回すんだ。もしその手の工作が上層部にバレれば、特務機関の責任者である大佐殿自身が反逆罪で処刑されかねない。

 敵国の捕虜一人の休暇のために、自らのキャリアと命を天秤にかけるアホな指揮官がどこにいる?

 なんと、いらっしゃる。俺の目の前でふんぞり返っている『シュミート大佐殿お気に入りの部下、美しきヨハネ』含む仲間たちに、少しでも快適な環境を与えるためだけに、国家すら平気で欺く狂った上官が、いらっしゃる。

 俺は呆れと感謝の混ざった苦笑を漏らした。


「……本当、あの大佐殿には頭が上がりませんよ」

「そう? たまに気味の悪い奇声上げながら転げ回るのに?」

「やめてください。俺たちを養ってくれている最強のパトロン相手に」


 その奇声上げながら転げ回ってる原因は貴様だ《ヨハネ・ド・ブジョワ》自覚しろ。


 ──コンコン。扉を叩く音がした。


「シュミートだ」


 時刻は夜の九時。こんな時間に来るとは思わなくて。

 アッ、不味い。俺はヨハネと目を合わせた。

 机上に置かれた魔術書、不自然に濡れた床、ゴミ箱には破いただけの魔術の紙、タンスには濡れた衣服まである。


「上層部からの支給品を届けに来た。朝の七時に到着するハズが、大幅に遅れて」


 ひゅっ、と冷えていく体。ヨハネは無言で念力を掴い、タンスを静かにそぉっと閉め、本はベッドの下にスッ……と隠す。さながら裸の女性の写真を隠す思春期のガキみたいだな、今の俺達。

 ヨハネの代わりに俺が動くことにした。背後でヨハネが静かに『チェス盤』を置いて盤面を作っている。


「はぁ~い」


 俺は扉を開け、ヨハネを隠すように大佐殿を見上げた。夜だろうと軍服はぴっちり着ているし、その片手脇には木箱があった。ワインと菓子だろうな。


「こんばんは、大佐殿」

「ん? なんでアランが?」

「暇に付き合えとチェスしておりました」


 俺は振り向きながら、ソファの上で足を組むヨハネ様を親指で示す。机にはほどよく盤面の進んだ駒が配置され、おそらくだけどいい感じにヨハネが勝利に近い戦局だろう。大佐殿はチェスぐらい知ってるし、なんならかなり強い。


「邪魔して悪かった。これ運べ」


 大佐殿から木箱を受け取り室内へ運ぶ。ヨハネ様はワインがだいっすきだからな、定期的に部屋で飲んでいらっしゃる。ちらと箱の中身を見ると『サラミ』やら『干したプルーン』なんてあった。血液を作るための食事だろうな。

 俺が机の横に木箱を置くと、大佐殿は後ろで呟く。


「なんか……焦げ臭い?」


 俺もヨハネも内心で汗がだらッだらッに流れた気がした。


「なんか……気配がする?」


 嘘だろ?! このヒトも《魔力》がわかるヒト?!

 俺は背筋を伸ばしながら大佐殿へ振り向いた。


「気配? この部屋に居たの俺とヨハネだけですよ」

「ルフェーブル伍長の気配? が、タンスの前に複製? 増えてる? なんだ?」


 まずいまずいまずいまずいまずいまずい。

 俺が魔力を使って魔術を発動させたから、その場所に魔力が色濃く残ってしまった。しかも使ってからまだ五分も経ってない、十分ぐらいすれば消え去るんだけど、五分以内だと俺でもわかる『ここで使ったんだな』って感覚が。

 シュミート大佐は明らかにタンスの前を見て、俺へ疑念の目線を送る。ごくりと生唾を飲み込んだ。


「実は能力者だったり?」

「だとしたら心の底から神に感謝しバッチを貰いにいきますが?」

「まぁ、だよな」


 能力者だと支給される食事の量がちょっと多い。食事量が足りないと能力者は万全な状態で能力が使えないし、すぐに倒れたりするらしい。

 今思えば、あの本曰く『食事に含まれる魔力を接種することで回復していた』のかもな。

 大佐殿は金色の目を開く。


「もしかして」


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、俺の心臓が煩かった。


「アラン・ルフェーブル、三週間の休暇を求めたのはヨハネの故郷にでも戻って、なにかしらの紙でも手渡すつもりか?」


 うーん、違うけども! 違うけども! わんちゃんこれ反逆罪でこの場で俺捕まるかもしれねぇ! ごめんヨハネ俺は先に逝く!


「やけにヨハネの部屋だけ『紙の燃えカス』が多いらしい」


 アッ。逝く。

 俺のとなりでヨハネは立ち上がる。


「それで? 反逆罪の疑いで捕まえようとでも?」


 俺はもはや《魂》がこの体から抜けた心地で聞いていた。

 大佐殿は室内へ入り、扉を閉めてから告げた。


「これは黙認していることだが、ルカはグリフォンの姿で空から夜の警備をすることあるだろ? 三日間の休暇申請を俺に出してきて、そのままどこかへ飛び去った。これは俺の予想だがイタリアに帰っていたんじゃないかと」


 アイツなにしてんの?! グリフォンだからって国境の検問すっ飛ばしてダイレクト帰省? お前アウトローがすぎるって!


「アイツは一応でもイタリア側の軍人だ。もしも紙を渡したいのならそっちを使え」


 これは……セーフか?


「悪いが、ヨハネをこの施設からは一歩も出せない。アラン、お前もだ。本気で反逆や脱走を企てているのなら俺はお前を撃つが、違う、気がする」


 ごめん。こんなときに思うのも変だってわかっているんですが。

 俺!! 大佐殿が好きだ!!!!(※敬意)


「ヨハネが書いた密書を、アランが運び屋としてフランスへ届けようとしている。そして証拠の紙は燃やして隠滅している、どうせこれだろ?」


 ヨハネ様は胸を張り大変堂々と。


「そうだね。さすがに分かりやすすぎた、もっと慎重に動いて隠蔽するべきだったと学べたよ」


 ん? なんでこのヒトは普通に受け入れて普通に頷いて普通に『スパイ工作してました』って肯定してるんだ? それ、死ぬの俺ですよ?

 大佐殿は腕を組みながら、金色の目を鋭く光らせ俺とヨハネを交互に見た。


「見つかったのが俺でよかったな。ヨハネ、お前は『血清』があるから殺されることはないだろうが、フランス人である以上独房で飼われても不思議ではない」

「はい」

「アラン、お前も慎重に動け。場合によっては本当に俺はお前を撃ち殺す。冗談ではないぞ本気だ」

「はッ」


 俺は背筋を伸ばし、敬礼を返した。

 大佐殿はちら、と時計を見て、腕をほどく。


「夜分に来たことは謝ろう。くれぐれも、俺の手で殺す原因を作らないように」


 それだけ言い残した大佐殿は部屋から出て、静かに扉を閉める。

 静まり返った部屋。俺は廊下を歩く音が完全に消え去ってから腕を下ろし、ヨハネを見た。

 ヨハネはしばらく扉を眺め、大佐殿の魔力が遠ざかったと確信してから俺を見る。


「……あの男も《魔力》わかってたんだね」

「そうじゃねぇだろ」


 言うべきは「反省しよう」だろ。何いってんだほんっとこのヒトまじでなんなんだよ、なんで殺されないと思ってんだよ。


「そうだね、反省しよう」


 ああ言ってくれたわ。

 ヨハネは悔しそうにソファへ腰かけた。


「仕方ない。『下巻』は諦めるしか……ああ惜しいね、もしかしたら下巻には《長距離転移魔術》なんて凄まじい魔術があるのかもしれないのに」

「でもそれ絶対演算が大変なことに」

「魔力も大量に使うだろうね、この世界の物質の法則すらねじ曲げるんだから。あ゛ーッ悔しいッ」


 ヨハネ様はソファの横にある木箱から、念力でワインを取り出し、パシッと掴んだ。

 青い目が俺を見上げる。


「半分のませてあげるよ」

「メルシー!!」



 ──ワインをともに堪能しながら、最後の最後でヨハネは本気の反省を俺に示していた。


「俺の悪ふざけとワガママに付き合って、死ぬほど怖い思いをさせて悪かった。これはその報酬」


 この男は頑なに、絶対に、謝らない。謝るとしても女性だけだ。そんな男から貰ったワインボトルの半分は、なかなかに美味しかったよ。




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