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番外編 その②

キャラクター深堀り、世界観深堀りその二。


読める話。

女性将校に絡まれるヴェーク。ペネロペとアランの話。ヨハネとアランの話。などなど


◇



【ルカ・ロッシ視点】


 何万人もの兵士がひしめき合うあの地獄のようなターミナル駅を抜け、ようやく俺たちを乗せたベルリン行きの列車が、重々しい鉄の軋み音を立てて動き出した。

 線路の幅が違うとかで車両を丸ごと乗り換えるハメになった。将校たちに新しくあてがわれた食堂車は、前の特等車と似たようなグレードだった。違いと言えば年季の入り具合ぐらいか? 下士官の寝床は相変わらず隙間風の吹き込む『木箱みたいな貨物車両』だけどな。


 俺は暇つぶしに食堂車へと足を踏み入れた。

 以前の車両よりもブロック席が多く、空間全体が広々と感じられる。窓も大きく取られていて、奥には立派なバーカウンターまで備え付けられていた。もっとも、立派な棚には酒瓶の一本すら並んでねぇし、よーく目を凝らすとマホガニーの塗装が所々剥がれ落ちているのが見えた。

 そんな空間の中で、一人だけ異彩を放っている男がいた。お貴族様のヨハネ・ド・ブジョワ大尉殿だ。彼は窓際の特等席に優雅に足を組んで腰を下ろし、熱い紅茶でも楽しむかのようなリラックスした姿勢で『お本』を読んでいらっしゃった。あんなもん、あの難民キャンプみたいな駅のどこで手に入れてきたんだ? どうせおフランスの小難しい哲学書やら、気取った詩集やら、分厚い歴史書でも読んでるんだろうな。

 そう呆れ半分で近づき、何気なく手元の表紙に目を落とした瞬間──俺の腰のあたりで獅子の尻尾がビクッと驚きに跳ね上がった。


「お前、シャーロック・ホームズなんて読むん?!」


 思わず素っ頓狂な声が出た。ヨハネはページから視線を外すこともなく、ふっと薄く完璧な唇を綻ばせる。


「王道に面白いからね。ミステリーの古典にして至高だよ」


 すました顔で、がっつりエンタメを楽しんでやがった。驚いたのはそれだけじゃない。ヨハネの向かいの席には、すっぽりと椅子に収まるようにシェルピェン・ザウェク中尉が座っていた。彼女の小さな手の中にもヨハネと同じように小綺麗な本が握られている。その表紙に踊る英語のタイトルを覗き込み、俺はさらに目を丸くした。


『And Then There Were None(そして誰もいなくなった)』


 銀髪の可憐な少女が本をお読みになっている。なかなかにいい光景っすね。


「その本は?」


 シェルちゃんに聞いたのにヨハネが答えていた。


「連続殺人ミステリー」


 英語の連続殺人ミステリーを真顔で熟読してるのが、俺と同じく中尉の見た目少女かぁ。俺だって伊達に泥棒やってねぇから、英語のタイトルぐらいなら読めるけど……この部隊の将校たち、戦場のド真ん中で優雅に読書会を開いてやがる。しかもエンタメのな。

 机にはもう一冊あった。シェイクスピアのハムレットらしい、聞いたことはあるけど内容は知らね。俺でも題名だけは知ってるってことはそれなりの歴史ある本?

 俺はヨハネ側の背もたれを掴み、油を感じない艶のある綺麗な黒髪を見下ろす。


「もっと小難しい哲学書やら詩集やら歴史書やら読むかと思った」

「気取った上級階級かよ」

「ああそういうのは気取ってるって思うんだ」

「そんなの読んでも何一つ面白くない。暇で暇で仕方なくて、その場にあるのが本ぐらいだった時に手を出すモノだよ、哲学書も歴史書も」


 ほ、ほーん。こねくりまわした小難しい理屈よりも『面白さ』優先なんだな。

 ヨハネは顔を上げ、俺を見ながら聞いてきた。


「英語読める?」

「無理。簡単な単語しか読めん」

「残念」

「シェルちゃんは読めるん~?」


 シェルちゃんは顔を上げて、うっひ! 顔かわいい! 首を横に振った。え??


「たまに何言ってるかわかりません」

「た、楽しい?」


 シェルちゃんは手のひらをヨハネに向ける。


「先生から教わっております」

「ああ。そこの先生も先生なれて心の底から嬉しいでしょうね」


 シェルちゃんはヨハネを見た。


「容赦なくたくさん聞きまくっておりますが、嬉しいですか?」

「“楽しいよ”」


 今のすっげぇ含みを感じたの俺だけ?


「生徒が物語を楽しむために勉強してる姿を見るのは、結構楽しいね」


 ふーん……その言葉、バカな俺に対しても果たして言えるのかなヨハネ“先生”。


「んじゃヨハネ先生、俺に教えろや間違いなく小難しいシェイクスピアの本」


 挑むように隣に強引に腰掛けようとすると、ヨハネはスッと横にずれてくれた。おお、招いてはくれるんだな?

 ヨハネは受け入れた理由を教えてくれた。


「ドイツ語がわかるならできる。英語とドイツ語はゲルマン語の親戚、基本的な単語も似てる」

「エッそうなん?? 実は似てる?」


 シェルちゃんも教えてくれる。


「アップル(りんご)、アプフェル(りんご)、みたいにかなり似てます」

「そうだったんだ」


 俺は本を開く。さっそくわかんねぇわ。

 ヨハネ先生を呼べばさっそく教えてくれた。シェルちゃんといちゃこらしたいだけ、ってわけじゃないらしい、俺が教えて、と言えばすぐに答えてくれる。

 確かに微妙に単語の文字が違うだけで、意味がわかれば理解はできる。音も文字通りだから読める読める。なんなら文法もめっちゃドイツに似てる。けどなぁ文学的な表現ってやつかな? 小難しいところは頭が『???』なるわ。

 ヨハネ先生は途中で教えてくれた。


「イタリアやドイツよりも文法がシンプルだよね、名詞に性別がないから」

「めっちゃシンプルだけどめっちゃむずいこれ」


 ヨハネ先生は手にしていたシャーロック・ホームズを俺に差し出してくれる。なに?

 青い目と視線を合わせながら受け取った。


「ここまで内容理解できるなら、こっちの方が楽しめる」


 先生は俺のレベルに合わせた本を差し出してくれた。さっきまで自分で読んでたのに。

 ふーん。そう。好きな子との時間を邪魔されたって不機嫌になるかと思ったのに、俺が本を楽しもうとしてるなら教えてくれるし、なんなら面白いものを楽しんでくれと。ほーん。

 嫉妬に狂う見苦しい野郎じゃなかったんだな。

 俺は一ページ目を開く。


「そういえばシャーロックはじめて読むわ、なんならこういう本すらほぼはじめて読むわ、飽きたら帰るわ」

「舐めるなよコナン・ドイルを」


 お前めっちゃ自分の感情に素直だな。軍の支給品のまずいメシにはボロクソに言いまくるし、俺お前が黒パンを『建築素材』って呼んだのいまだに好きだわ、いや全部好きだったわ。その分気に入ったモノにはすっげー長々と何がいいのか語りまくるし、上機嫌になるとフランス語でつらつらとペラペラと言いまくる。なに言ってたかマジで何一つわかんなかったけど、声と手振りで伝わったわ。

 そして今も、野営地キャンプから本を手に入れて、何一つ惜しまず俺とシェルちゃんに教えててくれている。意外と器が広いんだな~。


 ──人生ではじめて小説を最後まで読んだ。気がついたら終わってて、窓を見たら月が見えて、ヨハネにこれを言ったら見たことないぐらい無邪気に笑っていた。


「……続きどこ?」

「だよな!」



◇



【シェルピェン・ザウェク視点】


 本は残り四分の一。明日の朝から読めば昼には読み終わります、ヨハネに語りたいのですがヨハネはまだ中身を読んでいないので明日のお楽しみです、ヨハネは今夜全部読むって言っていたのでね。

 女性だけの宿泊車を歩いていると、廊下にいた女性将校がおられたので敬礼。彼女も敬礼を返してくれましたが、突然。

 ガシッ! と両手で肩を掴まれ、彼女の部屋に強引に連行。私はあえて無抵抗で「なんですか?!」とだけ叫んでしまった。

 どんっ、と扉の壁に背中を押し付けられる。見上げると、彼女の透き通った青い目が冷たく光っている。


「……どうしてザウェク中尉はブジョワ大尉に好かれているのですか」


 あ。ぁ、あ~~~ッッ!!! 察。

 そうですか! 貴女はヨハネが好きなんですね! かっこいいですからね! 他の女性兵士すら見ますからねあの人を! そっかそっかそれで私を個室に連れ込む強行手段に出たと。

 私は彼女の両手首に、そっと両手を添える。


「そうですね、私は明らかに感情を向けられています」


 はっ、と彼女は息を飲んでいた。


「いつかは誰かに嫉妬を向けられ、場合によっては一部の女性グループから敵意を持たれるでしょうと、思っておりました」


 緩んだ両手を私は離さない。ぎゅ、と強く握りしめ、肩から下ろしながら彼女自身の手首と手首を合わせるように掴む。


「あらゆる女性を魅了する罪な男に恋をしたのですね。自分から近づいても無視か無関心ですよね、あの男は」


 ヨハネは女性に対してかなり冷たい。そうなっても仕方ないのかもしれません、何をしてもどうあしらっても向こうから来られては、最初から冷たくした方が得をする。その経験の積み重ねによって残酷なほど冷酷で、魅力に溢れ、余計に女性の心を掴む男性へと成長してしまった。そんな方が私に明らかな好意を向けているだなんて、ええ、嫉妬に狂い、己の魅力の無さを呪うでしょう。なんせ私の見た目は完全に子供。体すら未発達であると、ドラム缶のお風呂につかったときにわかったハズです。


「ごめんなさい。私に他人の感情を操る能力はありません、貴女の恋愛です、貴女一人だけの戦場です。貴女が挑み、戦い、四肢が弾けようともしがみつき殺して落とすしかないんです」


 私は金色の目で彼女を見続ける。その顔はぐしゃりと歪み、殺意と、怒りと、そして自分へのどうしようも無さに歯軋りしていた。


「恋は二人の戦場です。相手は鉄壁の防御力を誇る『Ⅷ(八)』の念力持ちです、私からの援護射撃をもらって嬉しいですか? 嬉しいのならそうしますが、私の銃弾はヨハネに当たってしまいますよなにをしても」

「……透明化の能力でどう戦えって?」


 彼女は、この隊で唯一の女性通信兵士。生粋のドイツ人兵士です。私のようなスラヴ人だからこそ、余計に許せなくなってしまったのでしょう。ヨハネに惚れるのもよくわかりますよ、本物のフランス貴族の男が戦場にポンッとそこで立ち、粗野な軍人達とは全く違う優雅な振る舞いをして、しかし、戦闘では誰よりも前に出て圧倒的な力で敵を吹き飛ばし、銃弾を弾き、我らがボスである中佐殿を守る動く要塞。

 対して、彼女は援護特化の能力者。触れた対象を透明化できる能力で、布を透明マントへ変え通信機を守る兵士。生粋のドイツ人だからこそヨハネに憧れすらあるでしょう。

 そんな彼女がどう戦えばいいのか。そんなの決まっております。


「言ったでしょう? 貴女の戦場だと。貴女が作るべき同盟は誰ですか? 私ですか? 撃ち殺すべきは私ですか? だとしたらもう一度戦術、外交、交渉について学ぶべきです」


 私は壁に押し付けられたまま、彼女から手を離す。


「シェルピェン・ザウェク中尉として正直に言います。敵地の地形も戦力も調べないまま自分の感情で突撃し、貴重な情報を引き出すこともできず自滅する。そんな指揮官に惚れてくださる敵国ではありません」


 私は扉の金属を能力で動かし、後ろへ下がりながら開く。


「頭を冷やして作戦を練り直してください。失礼します」


 敬礼と共に扉を閉めた。

 ……しかし。申し訳ないぐらい冷たく言ってしまいました。少しは同情するべきだった? いいえ余計に反感を買うだけです。軍人としての対処に落とし込まないと、個人での感情を抜きにした会話ができません。軍人として接すれば相手もそうするしかありませんからね。

 ほんっと、ヨハネは罪な男です。これまで何人の女性を無自覚に落としてきたんですかね?

 私は廊下の先を見……。


 ──ペネロペちゃんと、その他四名が廊下に居た。


 エ??? エ???


「シェル様……」

「おシェル様……」

「シェルピェン様……」


 いつの間にいた?! いつからいた?! くそうッ気づかなかった!!

 ペネロペちゃんが尻尾を揺らしながら目線をそらして、また私を見た。


「その~、まぁ、修羅場ってんなぁと思って来てみたら、ぜんっぜん、勝ってたっていうかぁ~、心強すぎるっていうかぁ~、まぁ、ドドド正論だったというかぁ~」

「いつからいたんですか?!」

「最初から」

「ペネロペちゃんッッ!!!」


 ペネロペちゃんは親指で食堂車を示す。


「とりあえず食堂車貸しきるぞ。中佐が居ようと関係ないわ私が追い出す」


 ペネロペちゃんは少佐ですが、どの部隊でも共通して『女性将校には頭が上がらない部隊』ばかりだそうですね。女性達が貸しきりで使わせてと言っても、一日ぐらいなら許してくれると思います。


 さっそくペネロペちゃんは食堂車にいるシュミート中佐殿を見下ろしていた。


「今から朝まで女性専用車にしてくれませんか?」

「見えないか? ベルリンにつくまでに処理しなければならない書類達が」


 机上には大量の紙があります。積み荷に関する書類や、ベルリンで支給してもらう物資についてや、無線で送られてきた情報のメモ書き。これらが大量にありますね。

 シュミート中佐は書類の一部をペネロペちゃん側に寄せた。


「これと、これ、あとこの山を処理してくれるのなら滞在を許す。俺はここでやるがいいな? 自室は完全な寝室にしたいんだ」


 私たちはお互い目を合わせた。

 ペネロペちゃんが「いい?」と聞いてくれて、全員で頷く。


「かしこまりました」


 ペネロペちゃんは山をごそっと抱えながら、一番広いボックス席へ向かった。私達もそれぞれ分類ごとの書類を持つ。

 ペネロペちゃんとその他四名がわちゃわちゃ話していた。


「仕方ない護衛として置いとくか」

「中佐殿なら他言しませんからね。そうですよね?」

「必要があれば他言する」

「堅物ってこういう時便利~」

「私コーヒーいれてくる」

「ダンケ」

「グラッツェ」

「メルシー」


 シュミート中佐殿が、もはや家具となっている。

 私は椅子に座りながら、書類の代筆を担当した。ベルリンの兵站局に『これを◯個欲しいです』と請求するための書類です。既に欲しい数が一部書いてあるので仕上げをすれば終わります。ペネロペちゃんは計算担当、彼女が計算して、私が書類を書く、この一連の流れを繰り返しながら私達は雑談をはじめる。

 フランス人の彼女が私を見た。


「私わかりました、シェル様には敵わないと」


 他三人も頷くとペネロペちゃんは自分のことのように誇る。


「だからシェルは強かだって言ったっしょ~?」

「ブジョワ大尉がなんで惚れたかわかった」

「シェルピェン様は子供の皮を被っただけのシスターですね」

「小銃持ったシスター様」

「やだかっこいい」


 コーヒーが届いた。皆で感謝していると、ペネロペちゃんが直球過ぎる話題を出してきた。


「というかぜっ……たい、ヨハネは過去に女が数多に居たろ」

「ぶっはッッ!!」

「うっすらとわかっていたことを……」

「危なッ! ちょっやめて?! 書類にかかったら雷飛ぶ!」


 私はシュミート中佐殿を見た。黙々と書類仕事をして、なにも喋らない機械と化している。

 ペネロペちゃんは特攻隊長なのでズケズケとここぞとばかりに言いまくった。


「絶対ね~三人は最低でもいるっしょ、仮に遊ぶタイプだったら二桁いってそう。どう? シェル」


 私?!


「え、えっと、これを私から言うのもなんですが、もしも遊ぶタイプであれば冷たくあしらうことはないかと」

「あ~確かに?」

「むしろ困っていた側だからこそ、デフォルトの標準基準で女性に冷たくした方が得だった、のではと」

「ありありのあり」


 フランス人の彼女が首を横に振る。


「いや、ああいう男こそ、昔は遊んで火傷して反省して冷たくなった路線」

「あーね」

「ありそう」

「そっちかも」


 私はなにも言わないでおいた。こういうのはね、聞くに徹するのが一番なんです。私からしたら過去は過去、今は今。何人と遊び、弄び、泣かせようと、今のヨハネが完成したという『結果』は変わりません。

 フランス人の彼女もまた深く掘り下げていた。


「でも絶対に三人は関係あったねあれ。多くて五人? ワンナイトゥッ含めて」

「シェル様、もしプレイボーイで数多の女性と関係あってもアリ?」


 私?! 私か。


「正直、どうでもいいですね。恋愛関連の過去なんて永遠のブラックボックスでいいんです」

「大人~」

「シェル様大人~」

「ああでも」


 私はコーヒーのカップを手に、真っ黒であんまり美味しくないそれに映る天井の照明を見た。


「手慣れていらっしゃる、とは感じますね」

「だよねー!!」

「やっぱ感じるか! シェル様もそうか!」


 この前、ペネロペちゃんたちが狩りに出けた日、ヨハネが特等車から食料を強奪した日、その日ヨハネから秘密の共犯関係を誘われました。あの時のヨハネの誘い方は、他の女性であれば間違いなく乗っていたでしょうね。私は豊かさを求めた強奪はもやもやするのでお断りしましたが。

 私がコーヒーを飲んでいるとペネロペちゃんは中佐殿を見た。


「中佐殿なんか知っ」

「知らん。興味ない。聞いてない」

「チッ。堅物が、男同士なら何人とヤッたかの話ぐらいするでしょ」

「ノーコメント」


 シュミート中佐殿はこちらに一切、一秒も、断固として、目を向けずに書類だけを見ていた。

 ペネロペちゃんは煽るようにあえて大声を出していた。


「はっ! どうせ一切誰とも付き合ったことないから男同士の話題にも入れてないんだアレ」


 フランス人とドイツ人が中佐殿を見た。


「シュミート中佐殿は……まぁ、いや、ご本人がいるところで言うのは失礼だとわかっているんですが、男同士が気楽すぎてそのまま大将まで登り詰めそう」

「だいぶ失礼」


 だが、そのご本人は「ダンケ」とだけ返していた。あれは皮肉を受け取ったのではなく、『大将まで登れる』と部下から背中を押されたと思い、受け取ったのでしょう。

 ペネロペちゃんが、おそらく他の男性であれば心に傷を残すセリフを雑談の範疇で言っていた。


「誰からも中佐殿に惚れてるとかの話出てこないもんね」


 中佐殿が安心の息を吐き出した気がした。部下には手を出さず、出される隙もないと、あのペネロペちゃんが話していたので心のそこから安堵したのでしょう。恋愛関係には絶対に巻き込まれたくないのですね。

 フランス人の彼女とペネロペちゃんが、明らかに中佐殿を恋愛対象としての貶しをはじめる。


「絶対モラハラ」

「俺様」

「家に帰ってこない男」

「仕事しかしない男」

「金すら一々理由言わないと出してくれない男」

「最悪、絶対それ」


 これにはさすがに中佐殿が顔を上げた。ただの人格否定ですからねこれは。

 中佐殿が鋭い目で口を開きかけたその時、ずっと静かに黙っていたスイス人の彼女が口を動かす。


「浮気は絶対しなさそう」


 彼女はカップを両手で包みながら、ぽつり、ぽつりと溢す。


「指揮官としては素晴らしいと思っております。本心です。こうして女性だけの場をご用意してくださるので、お嫁さんができたら人として尊重はしてくれると思います。ただし家に帰ってこなさそう」


 女性を女性扱いする男性ばかりの軍で、中佐殿は個人として尊重してくださっている。踏み込まず、上から役割を押さえつけることもなく、合理的であれば権利を当然のように与えてくださる。女性の総意として『ロマンチックな恋愛はしてくれないが、浮気はしない。仕事人間ではあるけど、上司としては最高だ』と私も思います。

 中佐殿はなにも言わず書類に目を落とした。最後の一言には、やはり否定できないのですね。

 ペネロペちゃんはソファに寄りかかりながら、私に計算の終わった紙を差し出してくれた。


「逆に誰向いてるの結婚に」


 女性達は好き勝手に上げていく。


「通信兵の男二人」

「あーね」

「クマの処理してくださった軍曹、あの人、あと十歳若ければ私は落ちてた」

「かなりわかる」

「意外とルカ・ロッシ」

「え?!」

「義理堅いヤンキー属性ほど女性を大事にするよ~? しかもイタリア人、女性至上主義、料理めっちゃおいしかった」

「確かに~!」


 盛り上がってきたなぁ。私はミスを作らないよう書類に集中、彼女たちの声を音楽の一つとして聞き続ける。


「ペネロペ様は下士官から猛アタックされてません? どうですかあのフランス人」

「ナシ。どうせ顔と胸しか見てないアレ」

「あの人農家出身だけど、男達の髪の毛整えてる床屋開いてません? 意外と優しいかも」

「余計にチャラいわ」

「中佐殿もお願いしてませんでした?」


 中佐殿は一言「上手いぞあの男」そうなんだ~!


「だが勝手に『アシンメトリーにさせて』と拘りをぶつけてきたところがフランス人らしさで減点」


 けれど手先の器用な床屋の店主に切ってもらうしかなかったと。芸術とファッションを中佐殿にねじ込むなんて、度胸あるじゃないですか。

 フランス人の彼女が聞いていた。


「ブジョワ大尉は?」

「ああ、見たことある。そういえばやけに髪の質について語っていたな、絶賛していたよ。あの下士官は俺にはいつもゴワゴワの野良犬のようだと言ってくるのにな」


 皆さん中佐殿の金髪を見た。


「硬そう」

「ああ、確かに艶ゼロ」

「シェル様つやっつやしてるのに」

「ヨハネも確かに綺麗だわ」


 私も硬そうだなと思った。髪の毛なんて効率重視で石鹸でごしごし洗うだけなのでしょうね。というか中佐殿、こういう話題には混ざってくれるんですね。

 ドイツ人の彼女は自分の長い髪を指先で撫でた。


「私お願いしようかな」

「中佐殿の髪、確かに整ってますよね」

「次停車する時お願いしよ」


 ドイツ人とスイス人の二人はショートカットがお好みらしい。私は一気にショートカットにして、伸ばして、背中まで来たらまた一気にバッサリ切っちゃいます。でも前髪が確かに長くなってきた。

 ペネロペちゃんはずっと伸ばしているのでパス。私は切ってもらうことにしました。自然と誰が例の下士官に髪の毛を切ってもらうかの順番について話し合っていた。


 こんな感じにコロコロと話題が変わりながら、気づけば午前一時。中佐殿が仕事を切り上げたので私達も解散。



◇



 次に私たちの列車が息をついたのは、帝都ベルリンでした。駅のホームには忙しなく行き交う兵士たちの軍靴の音と、怒号が入り混じっています。弾薬や冬用の外套、大量の糧食といった積み荷が、何台もの台車に乗せられて次々と私たちの貨車へと運び込まれていました。

 この数時間の補給の合間を利用して、私たち女性将校グループは例の床屋──フランス出身の《アラン・ルフェーブル》伍長に髪を整えてもらうことにしました。

 もちろん、改札の向こうに広がる首都ベルリンの街並みには、お洒落な美容院がいくつもあるはずです。しかし、軍の列車で移動中の私たちに、勝手に陣地を離れて街へ繰り出すような自由時間はありません。そもそも血と泥と硝煙の染み付いたこの軍服で、華やかな帝都の美容院のドアを叩くのは少々場違いというものです。

 ルフェーブル伍長は冷たい風が吹き抜けるプラットホームの片隅に、列車の備品であろう木製の椅子をぽつんと置きました。そこが本日の特設サロンというわけですね。

 先にスイス人の彼女が椅子に腰掛けると、彼は手際よく、古いテント素材を縫い合わせて作った即席の散髪用マントを彼女の肩にふわりと被せる。


「お任せください、中尉殿。必ず美しく仕上げてみせますよ」


 彼はフランス人特有の少しだけキザな笑みを浮かべると、腰のポーチから使い込まれた銀色のハサミを取り出しました。遠くで鳴り響く機関車の蒸気音や、怒号のような号令。その殺伐とした背景音に混じって、シャキッ、シャキッ、と小気味良いハサミの音が、プラットホームの片隅に響き始める。

 伍長の隣では、同じく伍長であり能力者である男《カルロ・モレッティ》がバケツとタオルを準備。炎の能力でお湯を暖め、暖かなタオルを準備すると、大雑把に切り落とした彼女の金色の髪を軽く濡らして、ついでに頭皮を洗っていた。お湯の少しの石鹸の香りが、彼女の頭を優しく解していく。


 一時間後に完成。綺麗な金髪のショートカットに、彼女は鏡を前に頬を緩めていた。


「ダンケシェーン」

「お気に召しましたか?」

「ええ! もしも次があればお願い」

「もちろんです」


 彼女は私の元に駆け寄り、青い目を静かに輝かせる。


「とってもとっても本当に気持ちよかった」



 私は下士官のお二人に視線を向けました。


「え~! 期待していいですか?」

「どうぞ」

「お任せを!」


 スイス人の彼女と入れ替わるように、私も木製の椅子に腰掛けます。すぐにモレッティ伍長が、自らの炎の能力で適温に温めた蒸しタオルを私の頭皮に優しく押し当ててくれました。氷点下の風に晒され続けて強張っていた頭の芯に、じわりと解けるような温もりが染み渡っていく。肩まである銀色の髪を丁寧に濡れタオルで拭い、わずかに石鹸の香りがするお湯で汚れを揉み出される感覚は、思わずうっとりと目を閉じてしまいそうなほどの心地よさでした。

 十分に下準備が整うと、今度はルフェーブル伍長が私の正面に立ちました。


「では、前髪と毛先を整えさせていただきますね」


 静かな声と共に、シャキッ、という鋭い音が響きます。

 ふと目を開けてハサミの先を見上げた時、私は少しだけ驚きました。私の前髪を梳(す)くルフェーブル伍長の薄茶色の瞳は、先ほどまでの「女性将校を口説こうとするフランス兵」のものではなく、純粋な『職人』のそれに変貌していた。

 一切の迷いなく、最も美しいラインを見極めるように私の毛先を見つめる真摯な眼差し。きっと、私のすぐ後ろで腕を組んで待機しているペネロペちゃんも、この真剣な横顔を見ていたのでしょう。昨晩の女子会で『顔と胸しか見ていないチャラ男』と彼を切り捨てていた彼女の評価も、この職人の目を見れば、ほんの少しだけ改められたかもしれません。


 私も髪の毛を整えてもらって、気持ちをお二人へ告げる。


「ダンケ! とってもスッキリしました」


 ルフェーブル伍長もなんだか満足しているご様子。


「冗談とか口説きとかではなく、本当にソワみたいな髪でした。な、なんというか、本当にソワみたいで」


 ソワ? なんだか感動? 感激? していらっしゃる。

 モレッティ伍長はルフェーブル伍長に聞いていた。


「ソワ?」

「ザイデ」


 ああ! 絹(ザイデ)か。


「イタリア語だと、えーっと、セータ?」

「セータ! ああ! 確かに! 俺もセータなんて触ったことすらないですが、セータみたいでした!」


 お世辞ではないんだろうな。数多の兵士の髪を触ってきた二人からすれば、本当の本心からの感激でしょう。


「ありがとうございます」


 次のお方に譲ると、背後から会話が聞こえた。


「一番綺麗な髪だったかも」

「ね」


 ンフッ、嬉しい! 純粋に褒められると嬉しいですね。

 ペネロペちゃんからも、整えたばかり、洗ったばかりの髪の毛を撫でられた。


「私のくるんくるん癖毛と違うもんね~」

「ペネロペちゃんのはワイヤー並みに頑丈な髪ですよね」


 竜だからでしょうか、ペネロペちゃんの髪の毛は試しに一本だけ引きちぎろうとしても、鉄の糸のように硬くて、全力で引っ張ってはじめてちぎれる、と本人が言ってましたね。

 ペネロペちゃんはパサパサと私の髪の毛を揺らすように撫でていた。そこに羨ましさはもはや無く、違う生き物に触れる目と手付きです。

 そこへ、モレッティ伍長が頭を洗う隙にルフェーブル伍長が私達のところへ来た。


「コスタ少佐、毛先とか前髪だけでも整えませんか?」

「ハサミがボロボロになっちゃう」

「え?」

「ハサミが負ける」

「……え??」


 鉄のワイヤー並みに硬すぎる糸をハサミで何度も切れば、当然ハサミが負けます。鋭さが失われ研がなければ使い物にならなくなる。

 だからペネロペちゃんは髪の毛を伸ばしています。その方が体を守ってくれますからね、彼女の場合。

 彼女は諦めた目でルフェーブル伍長を見ていた。


「濡らしてもバインバインに跳ね回るスーパー自己主張強すぎ癖毛ですが?」

「なら、頭だけ洗って髪に絡まった砂やらホコリやら落とすのは?」


 ペネロペちゃんは三秒ほど固まった。珍しく直感で動かず、じっくり考えている。


「……じゃあ、お願いしても?」

「もちろんです。といっても、今のお客様の次になりますが」

「ええ、それで構わない」


 ──ペネロペちゃんも頭を洗ってもらっていた。モレッティ伍長が頭皮をタオルで洗って、髪の毛もしっかり暖めて。ルフェーブル伍長がなが~い髪の毛をほぐすようにといて、たまに塊になっていたダマは思いきって切って、整えて。

 ルフェーブル伍長は呟いていた。


「すげぇな、マジでハサミで切れない」


 彼の手には軍用ナイフがあった。ナイフでないと切れないなんて、これが竜の髪なんですね。

 ふふんと、ペネロペちゃんは当然のように言った。


「ね? だからバケモノでしょう?」


 きっとペネロペちゃんはどこに行っても、何をしても《ニーズヘッグ》としてあれやこれや言われ続けたのでしょう。人の姿をしている時は女性として小言を言われ、竜の姿のときはバケモノとして恐れられる。

 だからペネロペちゃんは他人の恋愛には興味あるけど、他人からの好意には一切見向きもしない。

 ルフェーブル伍長は髪をとかしながら言葉を返す。


「ええ、竜姫様には相応しい髪です」


 ジャキッ、とダマが切れる音がした。


「絹のような髪は確かに最ッ高の手触りでしたよ。そこは正直に言います」


 ルフェーブル伍長は私ではなく、ペネロペちゃんだけを見ていらした。


「ですが、俺個人はこっちの強すぎる方が好みです」


 あら、ペネロペちゃん顔が驚いてる。一般的な尺度ではなく、個人の尺度でペネロペちゃんそのものが好きなんですって。確かに彼はいつもペネロペちゃんと遭遇すると褒めまくりますが、他の方を口説いたところは見たこと無い、気がします。


「……そう。お世辞として受け取っておく」


 ──三十分後、ペネロペちゃんも髪の毛を整えて、竜の尻尾を揺らしながら上機嫌に自分の髪を手でとかしていた。ホコリや脂が取れてスッキリしたのでしょう。


「グラッツェ、お二人とも」


 モレッティ伍長がふわふわな態度と口調でペネロペちゃんに聞く。二人はイタリア語で話していた。


「ペネロペ様スッキリした?」

「ちょ~スッキリ。グラッツェ」

「アランは本気でペネロペ様しか口説いてないからね~。あ! でも美人は褒めるよ? 褒めるのと口説くのは違いますからね」

「あらそう。それはどうも」


 何を話しているんだろう。私では出てきた名前しかわからなかった。



◇



【ヨハネ・ド・ブジョワ視点】


 帝都ベルリンでの喧騒をあとにし、列車はついに最終目的地であるフランスへ向けて鉄路を滑り出した。弾薬や冬用の外套、大量の糧食といった物資を詰め込んだ貨車は、重々しい軋み音を立てている。ようやく旅路の折り返し地点。まだ半分もあるのか、と溜息が出そうになる。

 ひたすらに長く、ひたすらに退屈な時間だ。

 暇で暇で仕方がない俺は毎日のように、ほぼ一日中を食堂車で過ごしていた。ルカから回ってきた『シャーロック・ホームズ』の続きを読んだり、手帳に日記をしたためたり、あるいはシュミート中佐殿の終わらない事務仕事を少しばかり手伝ったりして、泥のような時間をどうにか消費していく。

 夕方。窓の外が深い群青色に染まり始めた頃だった。

 作業の手を止めた中佐殿が、ふと立ち上がりバーカウンターの裏へと向かった。彼は誰にも見られないような死角にしゃがみ込むと、無言のままこちらへ手招き。なに? 俺達を呼んでる? いぶかしみながらも、俺と同じく暇を持て余していたルカと共にカウンターの裏側へと移動する。そして、中佐殿に倣って三人で身を潜めるようにしゃがみ込んだ。

 中佐殿は、おもむろに床下の隠し棚から『ある瓶』を取り出した。

 ──黄金の液体。薄暗いカウンター裏の影の中で、それだけがランプの光を吸い込んでとろりと輝いていた。


 ハチミツだ。


 俺とルカは同時にハッと息を飲んだ。こんな最前線の、しかも補給の乏しい軍の列車内に、これほど純度の高い甘味が存在するはずがない。驚愕する俺たちをよそに中佐殿は唇に人差し指を当てて『静かに』と合図を送る。そして、今度はカウンター下の小さな冷蔵庫を開け、ルカが大事に隠し持っていた『パルミジャーノ・レッジャーノ』の巨大なブロックを取り出した。

 なるほど、そういうことか。

 俺は小さく頷くと、念力を静かに展開した。カウンターの上の棚からペティナイフと小さな木製のカッティングボードを、音も立てずに手元へ引き寄せる。それを中佐殿へ差し出した。

 完璧な連携だね。軍事作戦でもここまで息が合ったことはない、断言する。

 中佐殿がナイフを入れる。パルミジャーノ特有の、シャリッとした硬いアミノ酸の結晶が崩れる音が微かに響き、不揃いな欠片がボードの上に並べられていく。そこへ、黄金のハチミツが糸を引くようにとろりと掛けられた。

 濃厚なチーズの香りと、花の蜜の甘い香りが狭い空間に混ざり合う。

 中佐殿が、普段の冷徹な顔をだらしなく崩し、ニヤッ、ニヤッ、と頬を震わせながら俺たちへボードを差し出してくれた。

 俺はルカと顔を見合わせる。同時に手を伸ばし、黄金の雫を一滴たりとも逃さないように、チーズの欠片を指でつまんで口へと運んだ。

 ぱく。と一口。


「ん……ふふッ!」


 噛み締めた瞬間、俺は思わず口元を片手で覆い隠した。パルミジャーノの暴力的なまでの強烈な塩気と旨味を、ハチミツの濃厚な甘さが完璧に包み込み、口の中で爆発的なマリアージュを引き起こす。

 なんだこれはッ!! 美味すぎる。あまりにも美味すぎる。最高としか言えないね、ああッ最ッ高だよ!

 隣を見ると、ルカもまた悲惨なことになっていた。


「ッ、ふ……ッ!」


 彼はチーズの旨味に完全敗北。美味さのあまり漏れそうになる笑い声を必死に堪えるため、自分の肘に鼻を押し付けて小刻みに震えていた。イタリア人の彼にとって、この母国の最高級チーズと甘味の暴力は劇薬に等しいはずだ。

 そして、俺たちにこれを振る舞った張本人である中佐殿はといえば。


「……ッん~~~ふふふふふ~」


 口を抑えながら、普段の彼からは絶対に想像できないような、やけに甲高い声を出して明らかに笑っていた。

 薄暗いバーカウンターの裏側で。ドイツ軍指揮官、イタリア軍のアウトロー不良、そしてフランス貴族の三人の大の大人が、まるで戸棚から菓子を盗み食いする子供のように身を寄せ合い、極上の味に震えながら笑いを噛み殺している。

 もし部下の誰かにこの光景を見られたら、軍法会議にかけられる前に恥ずかしくて死ぬかもしれない。だが、この甘美な盗み食いのような背徳感と最高の味覚は、間違いなくこの退屈な旅路の中で一番の極上デザートだった。

 俺達は終始無言で、デザートを五口分食べてから何事もなかったかのように立ち上がる。しかしルカは何かが耐えきれないようで。


「ゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロ……」


 人間の喉奥から、地響きのようなエンジン音がした。

 俺はルカの緑の目を睨み付ける。


「おい、シャトン(子猫ちゃん)鎮まれ」

「本能! 本能! 俺だって止めたくても止められねぇんだよこれ!」


 彼が言葉を発するのをとめると、またゴロゴロ、ゴロゴロ、喉に猫が居た。

 その様子に、中佐殿は動物好きを発揮。


「グリフォンって猫なんだ……じゃあ、あれか、じゃらし用意するか」

「人間です! 俺は理性ある人間です!」

「だがブラッシング好きだろ?」

「それは好きです!」



 じゃあ獣じゃねぇか。喉まで出かかったツッコミをどうにか飲み込み、俺は急いで自分の席へと戻った。さっきまでの堕落した記憶を一時的に消去、誰がいつ来てもいいように背筋を伸ばして本を開く。その直後だった。

 ガラリ、と食堂車の扉が開く。


 シェルピェンだった。


 入室してきた彼女の姿を見た瞬間、俺の胸に猛烈な後悔が押し寄せた。ああ、くそ! あと一分。あと一分だけ早く君がここに来ていれば、中佐殿も仕方なく君にあの極上の甘味を与えただろうに!

 俺が内心で地団駄を踏んでいると、シェルピェンの背後から、突き刺さるような鋭い視線を感じた。中佐殿とルカだ。シェルピェンを見ると強制的に二人も見える位置に居る。彼らは今、明確な殺意すら孕んだ目で俺を睨みつけて『お前、好きな女だからってさっきの秘密をバラすんじゃねぇぞ』という、共犯者からの強烈な圧力を俺にかけていた。

 俺は背中に冷や汗をかきながら、こちらへ真っ直ぐ歩いてくるシェルピェンを出迎えた。彼女の頭部は先ほどまでのパサつきが消え、しっとりと艶を帯びている。俺は整えられたばかりの彼女の髪の毛にすぐに反応を返した。


「とても綺麗だね。銀色の髪が、ようやく本来の美しい輝きを取り戻しているよ」

「ありがとうございます」


 俺の最大級の賛辞を彼女は全く照れることなく事実として受け取った。相変わらずだな、と思いながらも、俺はシェルピェンの肩越しに、壁に寄りかかってこちらを監視している二人の男へ視線を送った。

 ──ねぇルカ、あれは君のチーズだろ? 中佐殿、貴官のハチミツです。一口分、ほんの一欠片だけでも彼女に与えるのはダメですか?

 俺は青い瞳で必死に懇願した。しかし、二人の目は冷酷だった。絶対にダメだ。男の誓約を破る裏切り者は許さないと、やはり無言の圧力が首を絞めてくる。

 なんで! どうして!  秘密を共有した男の友情と、たった一人の女性への一途な愛が、チーズとハチミツを軸に天秤にかけられなければならないんだッ!

 涼しい顔を取り繕いながら、俺は心の中で絶叫した。


「ヨハネ、やっとシャーロックも読み終わりました! たくさんたくさん話したいのですが、今は大丈夫ですか?」


 彼女はちら、と後ろを見てから俺を見る。


「もちろん」


 俺は隣においでと空席を用意したが、彼女は俺の目前席に腰かけた。その様子にルカが「フッ」と鼻で笑いやがる。

 ああ、俺はどうしようもなく男でね、『男同士の暗黙のルール』を優先したよ。こういう時、もしもあのチーズとハチミツが俺のものだったら即座にご用意して、感想のツマミとして食べながら話していたのだけど、あの二つはそこの獣と中佐殿の物資だ。女を優先する男なんてダサいの極み、永遠にいじられる。

 だから、最後までシェルピェンには伝えなかったよカウンターの裏側に極上の品があることは。ああ悔しい。権力が欲しい。悔しい。


 ──シェルピェンが寝室へ戻ったその夜。ルカと中佐殿はなにも言わず、笑顔で俺の肩に手を添えてくれました。


◇


【ルカ・ロッシ視点】


 ヨハネが去ってから、シュミート中佐殿はツラツラツラツラと賛美の言葉を並べていった。


「やはりヨハネは造形の美しさだけでなく真の《漢》だ女に尻尾をふって媚びを売らず確固たる友情を優先できる強さと気品さを兼ね備えた」

「めっちゃおもろかったな~すっげぇ悔しそうな顔で」

「その顔すら素晴らしかったスタンディングオベーション」


 中佐殿は本人がいないのに、よく響き渡る拍手をパンパンパンとリズムよく鳴らした。


「恋愛至上主義のフランス人であるヨハネが義理を通してくれたことで証明されたな男の約束を守る漢こそ一番カッコいいと」

「あっそれはわかります」


 そこはわかるわ。中佐殿が盲目的に絶賛してるのマジで意味不明で、謎で、なんでそこまでヨハネを讃えるんだ?? ってなったけど、今のセリフで感覚を理解した。確かに俺も女性の前で尻尾ふるぜ? 美人にはかわいい! 言うぜ? けどだからって、自分の見栄のために男友達利用するのはちげぇよなぁ?

 ああ、認めるぞヨハネ・ド・ブジョワ。お前は鼻につくお貴族様でもなけりゃ女しか見えてねぇスジすら通さねぇアホでもない、立派な男だ!

 最初はもちろん『フランスの貴族が』って内心じゃあ見下しまくってたけど、美味しいメシには美味しいって絶賛しまくるし、英語がわからねぇ俺みたいなアホにも何回聞かれてもウザがらず答えてくれた。顔がいいだけの野郎じゃない、中身もぎっちり色々詰まってる懐の広い男だった。

 だから中佐殿は感激しすぎてペラペラ語ってるんだろうなぁ早口ドイツ語で。あと単純にこのヒト面食い。



◇



【シェルピェン・ザウェク視点】


 潮の香りと、凍てつくような冷たい海風。

 地獄のように長かった列車の旅を終え、私たち遊撃部隊はついにフランスの港町へと到着しました。灰色の雲が垂れ込める空の下には、出港を待つ無骨な軍艦が何隻も停泊し、忙しなく物資が運び込まれています。先ほどまで行われていたシュミート中佐殿による綿密な作戦会議も無事に終了し、あとはドーヴァー海峡へと打って出るだけです。

 私たちの任務は、本国へ向けて海峡を突破するドイツの水上艦隊を護衛し、来るであろう『最悪の敵』を迎え撃つこと。


 大英帝国の最強戦力《アイギス》エドワード・バイロン。


 別名『死神』とも呼ばれる彼は、世界最強と名高い炎の能力者です。彼に関する恐ろしい逸話は数多ありますが、最も有名なのは『たった一夜にしてドイツ艦隊を業火の海に沈めた』という話でしょうか。同じ能力者とは思えないほどに強すぎる、まさに規格外のバケモノです。

 そんな相手と正面から殺し合うだなんて、普通に考えれば正気の沙汰ではありません。しかし、もしこの絶望的な任務に成功すれば、私たちの隊は二度とあの過酷な列車の旅をせずとも済みます。船ならば一週間かからずにフランスからドイツへ戻れるうえに、なんと毎日一人二つずつ新鮮な卵が食べられるという破格の待遇を得られるでしょう。……たぶん。たぶんね。

 そんな決意を胸に、私は支給されたばかりの海軍用の防寒コートを引きずらないように歩いていました。しかし、港の乾いた石畳を歩く私たちの隊列に対し、周囲から向けられる空気は決して歓迎されたものではありませんでした。

 ふと視線を感じて顔を向けると、荷下ろしをしていたフランス人の労働者たちが、手を止めてこちらを睨みつけていました。彼らの瞳の奥にあるのは明確な『憎悪』です。無理もありません。このフランスという国はドイツによって敗北し、占領された土地です。彼らにとってドイツの軍服を着て我が物顔で港を闊歩する私たちは、国を蹂躙した憎き侵略者以外の何者でもないのですから。

 すれ違いざま、一人の労働者が忌々しげに足元へツバを吐き捨てるのが見えました。先頭を歩くシュミート中佐は一切気にする素振りも見せず、冷徹な表情のまま前を見据えて歩き続けています。

 私は、彼らの憎悪に満ちた目を静かに見返しました。私には、彼らの怒りが痛いほどよくわかります。なぜなら私も、彼らと同じように国を奪われたポーランド人だからです。


「……皮肉ですね」


 ぽつりと呟いた私の声は、冷たい海風にさらわれて消えました。彼らから見れば私は憎きドイツ軍の将校にすぎません。しかしこの部隊の中には、私のようなポーランド人もいれば、陽気なイタリア人もいて、あろうことか彼らと同じフランス人のヨハネまでもが、同じドイツの軍服を着て歩いている。戦争という巨大な渦は、本当に個人の意思や都合などお構いなしに、全てを飲み込んでしまいます。


「シェル」


 不意に、後ろからペネロペちゃんに肩をポンと叩かれました。彼女は周囲の視線など全く意に介していない様子で、私に向かって呑気にウインクをしてきます。私も小さく息を吐き前を向きました。

 フランスの人々にどう思われようと、今は関係ありません。まずはドーヴァーの空で待ち受ける『死神』をやり過ごし、明日をもぎ取るだけです。


◇


【アラン・ルフェーブル視点】


 潮風が吹き抜けるフランスの港町。

 俺とヨハネ・ド・ブジョワ大尉殿は、出港前の物資調達という名目で地元の市場(マルシェ)を歩いていた。

 当然だが、居心地は最悪だ。俺たちが着ているのは国防軍のフィールドグレーの軍服。すれ違う地元のフランス人たちは一様に憎しみと恐怖の入り混じった目を向けてくる。


「……まぁ、そうなるよな」


 俺はため息をつきながら、一軒のパン屋の軒先に立った。並んでいるのは配給制の硬そうなパンばかりだが、海の上で食う黒パンよりは百倍マシだろ。

 店主の初老の男は、俺たちの軍服を見るなり露骨に顔をしかめ、奥に居た妻に向かって早口で吐き捨てた。


「おい、豚どもが来たぞ。適当な残飯を高く売りつけてやれ。どうせ言葉なんてわかりゃしねぇ」


 俺が訛りあるフランス語で『全部聞こえてるぞ親父』とツッコミを入れようとした、その時だった。隣に立っていたブジョワ大尉殿が、冷ややかな青い目を店主に向け、信じられないほど流暢で、かつ洗練されたパリの貴族階級のフランス語で口を開いた。


「随分と不親切な商売ですね。ですが、その『残飯』とやらでは困ります。最前線で命を張る対価としてはあまりにも見合わない。棚の奥にある小麦の香りがする一番上のパンを四つ、適正価格で頂こうか」


 ピタリ、と。パン屋の親父も、奥の妻も、たまたま並んでいた地元の客たちも、全員の動きが完全に停止した。

 彼らはヨハネの美しすぎる顔と着ているドイツの軍服、そして今発せられた完璧な母国語を交互に見比べ、やがて最も最悪な結論へとたどり着いた。


「お前……フランス人か? フランス人が、その軍服を着て、ドイツの犬に成り下がった?! この売国奴(トラヒトゥール)め!」


 親父の顔が恐怖から一転して真っ赤な怒りへと染まった。

 あーあ。あーあ! なんで喧嘩売るのかなこの野郎! ただのドイツ兵なら『言葉の通じない恐ろしい占領軍』で済むけども、同国人だとわかった瞬間、俺たちは『祖国を裏切った最も醜い裏切り者』に一気にゴロゴロと最下層へランクダウンするのに! 

 けれど、ヨハネ・ド・ブジョワというプライドの高すぎる男は、ヨハネは表情をミリ単位たりとも崩さなかった。


「裏切り者、ね」


 彼は軍服の襟元にある階級章を指先でピンッと軽く弾いた。


「祖国が我々能力者をバケモノと蔑み、手放した結果がこれだよ。私はただ、能力者として生きる道を選んだだけだ。それに……」


 ヨハネは胸ポケットから軍票ではなく『本物の紙幣』を数枚抜き出し、カウンターに音を立てて置いた。


「芸術的なパンを焼く職人に、敬意と正当な対価を払う客を、国を売った裏切り者と呼ぶのですか?」


 親父は息を呑む。カウンターの上の金と、ヨハネの氷のように冷たくも美しい青い目を見つめたまま、完全に言葉を失ってしまった。

 俺はすかさず親父が硬直している隙に棚の奥から一番美味そうなパンを四つ鷲掴みにし、紙袋に突っ込んだ。


「ありがとよ親父! 釣りはいらねぇぜ!」


 俺はヨハネの背中を押し、殺気立つ市場から早足で抜け出した。


「あのっ、大尉殿、正論で地元民殴り倒すのはほんっっとうにおやめください。貴方はランクⅧの能力者ですからなんてことないんでしょうが、普通の兵士は路地裏で刺されます」

「なら俺の側に居ればいい」


 コイツ!


「それに、俺は事実を言ったまで。でも楽しみだね、あのパンは良い粉を使っていたと思うよ」


 あの状況でパンのクオリティ見極めてたのかよ……。

 海風に黒髪をなびかせながら、ヨハネはどこか満足げに微笑んでいた。本当に、このヒトのマイペースっぷりには毎度毎度驚く。俺が髪を整えた時ですら『腕がいいんだからもっと遊び心を発揮すればいい』だの『中佐殿の髪を貴方の趣味で遊んでしまえばいい。怒られたら俺が褒めておきますので』だの傍観者として遊びやがって。まぁ実際にやったのは俺なんですけどね~。

 俺は紙袋を抱えながらヨハネ“様”に聞いた。ああもちろん念のためドイツ語でね。


「というかあの紙幣は?」


 ヨハネ様はフランス語で答えやがった。


「おばあ様だけは俺の味方でね。困らないようにと、たまに札束を詰め込んだ瓶を届けてくれる。内側を真っ赤に塗ったイチゴジャム風にして」


 悪びれる様子もなく語られたその言葉に、俺は思わず天を仰ぎたくなった。うわ、この男マジの貴族で腹立つわ~。敵国の軍服を着て最前線にいる孫へ、検閲をすり抜けて札束を送るなんてさ。ただでさえ危険な行為なのに、その偽装工作すらいちいち手が込んでいて洒落ている。上品な老婦人が孫のためにジャム瓶の裏を赤い塗料で塗っている姿を想像してしまい、俺はなんとも言えない敗北感を味わった。クソッ。


「チッ」


 俺が盛大に舌打ちを鳴らすと、ヨハネは機嫌良さそうに微笑んだ。


「軍規違反」


 ふと、ヨハネ様はふと足を止めた。彼の視線の先にあるのは大通りから少し外れた路地裏にひっそりと佇む古い店だった。看板の文字は擦り切れて読めず、薄暗いショーウィンドウの奥には、ごちゃごちゃと様々なものが乱雑に積まれているのが見える。


「ん、そこの骨董屋寄るから待ってて」


 ヨハネ様はそう言うと、俺の返事も待たずに迷いなく薄暗い路地へと足を踏み入れた。

 待て待て待て? さっき市場で思い切り同国人のヘイトを買ったばかりだぞ。あんな死角だらけの場所に一人で入っていったら、血の気の多いレジスタンス崩れに囲まれて終わるぞバカか?


「路地裏連れ込まれて刺されますのでお供します」

「ああ、そうかもしれないね」


 俺が急いで隣に並びながら恨み言をぶつけると、ヨハネ様は悪びれるどころかフフッと楽しげに笑いすらした。

 ……この野郎ほんっとになんなん??? 俺の胃壁の厚さを試してんのか???

 カラン、とくぐもったベルの音を響かせて、なぜか俺が骨董屋の重い木の扉を押し開けた。店内は埃と古い紙、なめし革の饐(す)えたような匂いが立ち込めていた。外の冷たい海風が遮断されたせいか、妙な圧迫感がある。

 所狭しと並べられているのは錆びついた真鍮の鍵の束、いつの時代のものかわからない分厚い手帳、謎の紋章が刻まれた銀食器……まさにアンティークの掃き溜めのような場所だ。

 だが、俺の視線はある一点に釘付けになった。


「……マジか」


 薄暗い壁際に巨大な毛皮が乱雑に吊るされていた。ただの熊や狼じゃない。二つの頭部を持つ、異様に硬そうな黒い剛毛に覆われたそのシルエットは、間違いなく幻獣種《オルトロス》のものだった。

 ああいう希少な幻獣の素材は討伐された後に軍が全て回収し、研究機関や特権階級に回されるのが普通だ。こんな薄汚れた港町の骨董屋に無造作に飾られているなんてあり得ない。これはもしや、裏ルートからの横流し品か、それとも、没落したどこぞの貴族が金に困って売り払った趣味の品か。


「随分と面白い品揃えの店ですね」


 ヨハネはそんなオルトロスの毛皮には目もくれず、カウンターの奥で居眠りしている店主へ向かって、やはり流暢なフランス語で優雅に声をかけた。だからなんでだよお前反省してないのかこの坊っちゃんは。

 やけに若い店主はその言葉を聞いて、服を見てから、組んでいた腕をほどき背筋を伸ばす。


「……いらっしゃいませ。お探しものはありますか?」


 これまた訛りの無い、やけに綺麗なフランス語だった。

 ヨハネ様は一切驚きもせず、当たり前のように店主にうかがう。


「市場に出回らない古書などはありますか?」

「それなら二階にあります、こちらへ」


 ヨハネ様は店主の案内に従い、螺旋階段を登っていく。俺はその姿を眺め行くか行かないか考えてから、やっぱり着いていくことにした。ガチモン貴族がなにを買うのかめっちゃ気になる。

 二階はホコリだらけの図書館倉庫のようだった。歩くとキラキラと雪のように舞うが、本棚だけはやけに綺麗に整っている。

 店主は本を何冊か紹介。


「これはドイツ軍を批判した政治思想書、これはユダヤ系が作者の小説」


 店主はヨハネ様の反応を見ながら、ある分厚い一冊を手に取る。ずいぶんと古びた本だ、端がふにゃふにゃに崩れているし、紙はもはや黄色い。


「これは『能力者の能力についてや、歴史を記した書物をまとめた発禁本の一冊』」


 ヨハネ様は手を差し出し、本を受け取ると中身を軽く眺めた。


「いくら?」

「───で」


 たッッか?! 本一冊で?! さっきのパン何個買えるんだよ百個はいけるぞ?!

 だが、ヨハネ様は懐から曲がった札束を一塊取り出す。


「これで」


 なんで!! 札束を!! 懐の中で常に隠し持ってたんだよこの男は! 塗れたらどうするんだよ!


「あとその小説も」


 ヨハネ様はユダヤ系が書いた小説も指差す。マジかよ……。

 耐えきれず言ってしまった。


「それドイツ軍に見つかったら貴方捕まりますよ?」

「構わない」

「かっ、は??」


 当たり前のように受け入れたヨハネ様を理解できなかった。好きな子いらっしゃるんだよな? なんで平然と捕まることを受け入れているんだ?


「自由な思考すら許されず、それに従うなんて檻に閉じ込められた家畜と一緒だよ。だったら、中指立てながら禁止された本を読む方がよっぽど人間的だね」


 その言葉は埃っぽい図書館倉庫のような空間に、ひどく場違いなほど澄んだ響きを持って落ちた。

 捕まるリスクすら家畜にならないための証明として平然と受け入れる。この男の精神構造はどうなっているんだ? これが貴族の標準? 絶対違うだろ天性のモノだろ。

 唖然とした俺を置き去りにして、ヨハネ様は満足げに分厚い古書を小脇に抱え、さっさと螺旋階段を降りていってしまった。

 慌てて後を追って一階の店舗に戻ると、ヨハネ様は発禁本を買った余韻など微塵も感じさせない優雅な仕草で、再び薄暗い店内を物色し始めていた。ガラス張りの低いショーケースの中を深い青い目が滑っていく。やがて、その視線がある一点でピタリと止まった。


「……店主、あれを」


 ヨハネ様が指差したのは、鈍い銀色の光を放つ年代物の『懐中時計』だった。豪奢な宝石が散りばめられているわけではない。しかし、純銀の重厚なケースには植物の蔓を思わせる細やかな彫金が施され、無骨さと繊細さが完璧なバランスで同居している。戦場という過酷な環境で落としても、そう簡単には壊れないだろう頑丈さがあった。


 ……なるほどね。


 はい、合点合点。あんな実用性と美しさを兼ね備えた代物、誰に渡すつもりなのか考えるまでもないわ。見た目は幼いが中身はひどく理知的な、あの銀髪の少女中尉殿だろ? な?

 ヨハネ様は懐中時計のゼンマイをカリカリと指先で巻き、チクタクと規則正しい音が鳴るのを確認すると満足げに頷いた。


「それと、奥にあるその『万年筆』とインク瓶もお願いします」


 続いて彼が選んだのは、深い黒檀で作られた太めの万年筆だった。ペン先には金の装飾が施されている。こちらは自分用か、それとも、札束をジャム瓶に詰めて送ってくれるというファンキーな『おばあ様』へ手紙を書くためのものか。


「かしこまりました。全て合わせて───になります」


 やけに綺麗なフランス語を話す若い店主が金額を提示する。俺の金銭感覚なら三日三晩は寝込むような額だったが、ヨハネ様はやはり表情ひとつ変えず、先ほど懐から出した曲がった札束の残りをカウンターに置いた。

 店主は手早く懐中時計を小さなベルベットの箱に収め、万年筆とインクと共に、目立たない茶色い紙袋に包んでいく。


「……良い買い物をされましたね、大尉殿」


 店主はヨハネ様の階級章をちらりと見ながら、意味深に微笑んだ。その言葉が、アンティークの時計に向けられたものなのか、それとも二階で買った『世界に中指を立てるための本』に向けられたものなのか、俺にはわからなかった。


「ええ。おかげで、退屈せずに済みそうです」


 ヨハネ様は紙袋を受け取ると片手を軽く上げて店主に挨拶し、再び重い木の扉を押し開けた。

 外に出ると、どんよりとした曇り空と、凍てつくような潮風が俺たちを包み込んだ。俺の右手にはフランス人からぶんどったパン。ヨハネ様の左手には、ドイツ軍に見つかれば即座に軍法会議送りの発禁本と、恋する少女へのプレゼント。


「早く戻ろう。中佐殿が雷を落とす前に」

「誰のせいで道草食ってたと思ってんですか」


 冷たい風に黒髪をなびかせながら歩き出すその背中を見つめ、俺は本日何度目かわからないため息を吐きながら、慌てて後を追った。


「というか札束濡れたらどうするつもりで?」

「乾かせばいい」

「破けたら?」

「新しいものを使えばいい」

「どこぞのパンがなければケーキを食べればいい、かよ」


 は~あ、なんでこんな男が女性にキャーキャー言われてんだか。ご本人に権力や金があるってわけじゃないのに。


 ──船へ向かうと、ヨハネ様は中佐殿に紙袋の中身について聞かれていた。

 ヨハネ様は堂々と『ユダヤ系が書いた小説』の本を見せつける。生粋の、純血の、金髪金目のドイツ人将校に。

 俺の心臓は痛いほど跳ねすぎて苦しかった。

 ハァッハァッハァッハァッハァッハァッ……ッッ?! なにしてんの?! なにしてんの?! なにしてんの?! なにしてんの?!

 ヨハネ様は相変わらず整いすぎた顔で唇を動かす。


「小説を手にいれました。あと、歴史書も」


 だが、相手はヨハネ様の一挙手一投足がだいっっすきな男なので。


「そうか。これから《アイギス》を相手する絶望的な死闘が控えているというのに俗世の恐怖にすら囚われずいついかなる時も教養と知識への追求を忘れないなんてさすがの真の知識人だそんな貴官が我が隊にいることを誇りにすらおもう」


 いや著者を見ろ?! 見えねぇのか?! 顔が良すぎて脳が都合よく視界をシャットアウトしてんのかこの中佐殿は!!

 だがおれは、一人で勝手に胸を撫で下ろしていた。

 ヨハネ様は本を紙袋に戻すと、中佐殿は軍靴を鳴らして他の隊員からの話を聞きに向かう。な、なんてロックすぎる男だ。上官の贔屓を悪用して遊んでやがるぞ。

 ヨハネ様は俺を見て、イタズラが成功した悪ガキの笑顔を向ける。


「ほら、中指立てながら読むのは最高だろ?」

「もしもその行いをカルロがしていたら頭をぶっ叩いておりました」

「んふははははッ」


 何を笑とんじゃい。

 しかし、この男こそが、家畜になるぐらいなら中指を立てて禁書だろうと読むこの男こそが、芸術と自由を愛し、ロマンと愛に走るフランス人の気質そのものを体現していると俺は痛感した。

 ああ、その通りだ。ロマンと愛に走る男こそが、それこそフランス人だよな。

 しかしヨハネ様は。


「あっ。紙を買うの忘れてた。行ってくる」

「いい加減にしなさいよ??」


 ちょっとマイペースがすぎて付いていけねぇわ。



 ──そして、ついに《アイギス》との戦いが始まった。

 俺は海の戦場で見てしまったよ。『死神』と呼ばれた男がニワトリの悪魔となり、ヨハネが愛していた少女が雑巾のように上半身と下半身を捻られ、別れ、下半身が投げ捨てられた絶望の瞬間を。


 ──ヨハネが真っ黒な翼を開き、青い炎でニワトリと悪魔と戦う姿を。


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