【第二章 第十二話 悪魔と堕天使】
【ヴェークテルン・シュミート視点】
エドワード・バイロンの中で何かが割れた。
俺は知っている。東部戦線の極限状態の中で俺自身が経験したあの感覚。この場にいる能力者全員が、皮膚が逆立つ悪寒を共に感じ取っていた。エドワードの魂の奥底で、人間ではない『何か』が目覚めたことを。
隣で双眼鏡を構えていたカルロが、悲鳴のような声を上げた。
「えぇッ!? なにあれ悪魔?!」
ヒポグリフと共に落下していくエドワードの身体が、ありえない速度で異様に膨張を始めた。
筋肉と骨格が内側から爆発するように変形し、仕立ての良い英国紳士の軍服がビリビリと無惨に弾け飛ぶ。肥大化する肉体を突き破り、烏のような真っ黒な羽がびっしりと生え揃い、ドーヴァーの空へ大量の漆黒の羽毛をまき散らしていく。
斬り落とされた首の断面からは血の代わりに高熱の青い炎がゴウゴウと燃え盛り、鳥特有のしなやかで長い首には、不気味に蠢く六つの眼球。胸のド真ん中には鋭い嘴が裂けるように生え、前腕は歪なヒトの形を残しているのに、後ろ足は完全に鳥の鉤爪へと変貌している。本来あるはずの翼は奇妙なほど短く退化しており、ふっくらとした尾羽はまるでニワトリで。
「んはははハハハハハッッッ!!!」
悪魔の背中から圧縮されたエネルギーの塊が勢いよく飛び出した。それは実体を持つ肉の翼ではない。コウモリの羽を模したような、三対六枚の巨大な『青く輝く炎の翼』だった。
空を覆い尽くすほどの圧倒的な青い炎と、雪のように舞い散る漆黒の羽毛。
そこにはもう、紅茶を嗜む気高き英国紳士の面影など微塵も残っていなかった。
俺はその姿を一言でまとめる。
「首なしニワトリの、悪魔?」
神話すらも冒涜するおぞましい異形の姿を見上げ、俺はただ呆然と呟くことしかできなかった。あんなのもはや人間を辞めている、本物の悪魔だろうが。
俺たちが持てる力と知略のすべてを振り絞って首を落とした最強の死神は、死を極限の糧にして人智を超えた第二形態へ『真の絶望』へと成り果ててしまった。
カルロが慌て出す。
「えぁっちょっシュミート中佐なんっなんですかあれ!」
「知らん……」
アランも震えだした。
「えっ? えっ? えっ? 悪魔が目覚めちゃったパターン? 俺ら相手してたのまさかの悪魔? 死ぬ? 死ぬ?」
「気持ちはわかるが落ち着け」
「しかしあんなの人間じゃねぇ!」
「黙れ」
パニックを起こすアランを一喝したものの、俺の背筋にも冷たい汗が流れ落ちていた。
空では悪魔へと変貌を遂げたエドワードが、三対の青い炎の翼をメラメラと燃やしながら縦横無尽に飛び回っている。その暴力的なスピードと機動力は先ほどの比ではない。
標的となったのは、空中に残っていた黒竜ペネロペとその背に乗るシェルピェンだった。
絶望的なチェイスの末、ペネロペの腹部に魔王の巨大な鉤爪が食い込んだ。
竜の断末魔が鼓膜を貫く。
「ギャがるぁァァァァッッ!」
青い炎を叩き込まれ悲鳴を上げながら、巨大な黒竜が海へ墜落していく。
だが、その背に乗っていたシェルピェンだけは、落下する直前に魔王の燃える手に首根っこと胴体を掴まれていた。
「んははは! んはっ!! あぁ、こんにちは不死身のお嬢様」
上空から、まるで遊園地にはしゃぐ子供のような陽気な声が響き渡る。悪魔の姿をしているのに声だけは生前のエドワードのままという事実が、悪魔の狂気をさらに際立たせていた。
「ヒュッ……」
首を掴まれたシェルピェンの喉から恐怖に引き攣った短い悲鳴が漏れるのが、甲板にいる俺たちにも聞こえた。
エドワードは楽しげに笑いながら、絶望する少女へ狂気の二択を迫る。
「ヴェークテルンに再生してもらうか? それとも君も、ここで《覚醒》するか? あぁ! その方が楽しいかもしれない、ナァッ!!!」
エドワードは炎の腕でシェルピェンを掴んだまま、迫る黒竜の巨体を躊躇なく蹴り飛ばした。
俺の視界に映るのは完全に逃げ場を失い、魔王の掌の中に捕らえられた少女の姿。
「フーッ……!! フーッ!」
過呼吸のように荒い息を吐くシェルピェンへ、エドワードは至極優しげな声音で語りかけた。
「すまないなァ、こんないかにもな悪役の振る舞いで。君を大切に思っている誰かに、心当たりはあるかな?」
「……ッ」
「あぁ、居ないのか。それは残念だ」
狂った魔王は残念そうに六つの眼球を細めると、次の瞬間には残酷な笑みを浮かべた。
「では、こうしよう。君も一度ぐらい『死』を味わってみろ。なかなかに悪くなかったぞ、殺されるというのは」
あ。待ッ。
──凄まじい肉の裂ける音が、冷たい海風に乗って響き渡った。
エドワードは両手でシェルピェンの華奢な体を掴むと、まるで濡れた雑巾を絞るように捻りあげ、そのまま彼女の胴体と下半身を真っ二つに引き裂いた。血の雨が海へ降り注ぎ、ちぎれた下半身がポイと捨てられる。
俺の喉奥から息が抜けた。
「あ゛……ぁ」
甲板で見上げていたカルロが息を呑む。
「ヒッ……」
誰もが言葉を失い、そのおぞましい光景に絶句するしかなかった。
だが、狂宴は終わらない。
エドワードは手に残ったシェルピェンの上半身をじっと見つめていた。二つに分かれた断面から、ウネウネと新しい肉体が異常な速度で再生し始めているのを見て、実験動物でも観察するような呑気な声で呟く。
「あぁ……やはり、心臓がある側から再生がはじまるんだな?」
命を、魂を、完全なオモチャとして弄ぶ圧倒的な純粋悪。俺たちは為す術もなく、空に浮かぶ絶望を見上げることしかできなかった。
──その時だった。
突如として、エドワードの真下にある暗い海面が不気味に大きく盛り上がった。
ズドォォォォンッ!!!
巨大な水柱と共に、海を真っ二つに割って『第二の青い炎』が爆発的に噴き上がったのだ。
「なんだッ!?」
俺が目を丸くした先で、死の淵へと沈んだはずの男が空へと舞い上がっていた。
エドワードの業火に焼かれていく。
現れたのは海へ落ちたヨハネだ。
だがその姿は先ほどまでの人間のものではなかった。
彼の背中にはカラスのような漆黒の翼が一対二枚に生え揃い、その巨大な翼のあちこちから、不気味な六つの青い眼球がぎょろりと下界を睨み下ろしていた。
エドワードと同じ『青い炎』の力に覚醒した、まごうことなき『堕天使』の姿。
海水を蒸発させながら空へ舞い戻ったヨハネは、悪魔の掌の中で真っ二つに引き裂かれた少女の姿をその目で捉えた。瞬間、部隊で一番理知的で冷静だったヨハネの目から、全ての理性が完全に消え失せた。
「……コロス」
地獄の底から響くような、純粋な殺意の塊となった声。
「やってみろ」
対するエドワードは、本気で殺し合える『極上の遊び相手』を見つけた歓喜に打ち震え、酷薄な笑みを浮かべた。
悪魔は不要になったシェルピェンの上半身を、まるでゴミのように俺たちのいる戦艦の甲板へと放り投げる。ドンッ、と。甲板の上に、放り投げられたシェルピェンの半身が痛々しい音を立てて転がった。
ドーヴァーの空で二つの青い炎が激しく衝突し、神話級の凄まじい空中戦が開幕。
ドゴォォォンッ!!
ズドォォォンッ!!
空が青く燃え上がり衝撃波が海面を叩き割る。その常軌を逸した激闘を見上げながら、俺は静かに、そして確実に勝利を確信していた。
……勝ったぞ。
エドワード・バイロンは強すぎる。あまりにも戦闘狂すぎた。彼はヨハネという規格外の遊び相手との殺し合いが楽しすぎるあまり、今自分が『なんのためにドーヴァー海峡に来たのか』という本来の任務を、頭の中から完全に忘却していた。
ほーら見て!
我らがドイツの軍艦が、何事もなかったかのように海峡を抜けていくよ! スーッと、スーッとな!!
これでいいんだ。《アイギス》殺しの名誉も喜ばしいが、今回は『船を逃がすこと』が一番も最も最大に重要なこと。
俺たち遊撃部隊は最強の魔王から完全に目を逸らすことに成功したんだ。空中の狂宴の真下を、我がドイツ軍の巨大艦隊が誰にも邪魔されることなく静かに海峡の出口へと進み、地平線の向こうへ消えていく。これでいいんだ。前代未聞の『ドーヴァー海峡突破』は、俺たちの戦略的勝利によって成し遂げられたんだ。
俺はすぐに投げ飛ばされた彼女を見る。
「ザウェク中尉!」
俺は駆け寄り止血の措置をしようと手を伸ばした。
「え……ッ?」
彼女の千切れた胴体の断面から『真っ白な帯』がウネウネと這い出し、自ら新たな骨と肉の形を作り上げて再生を行っていた。その帯には見覚えしかない、俺が治癒の力を使うと出てくるあの帯だ。
俺は何も言わずにそれを見つめ、軍服の上着を脱ぐ。再生途中の痛々しい下半身を隠すようにそっと被せてやった。
……お前は一体なんなんだ? 死なないのか? 何故?
普通ならば、軍人ならば、この事も上に報告するべきだ。だが何故だろう、そんなことをすれば彼女は永遠に檻の中に閉じ込められてしまうと俺の予感が告げていた。
その頭上では未だに、狂った悪魔の地震のような笑い声が轟き続けていた。
◇
【エドワード・バイロン視点】
「は、はッ。ふふは……ッ!」
俺は息を弾ませながら、炎の腕で掴み上げた男の胴体を無造作にぐしゃっと握り潰した。
全身の骨を砕かれたヨハネとかいう堕天使は、あまりの激痛に白目を剥いて完全に意識を飛した。
楽しい。最高に楽しい時間だった。俺についてこられるヤツが、この世界にちゃんといたなんて。
「ん? ……あれ?」
心地よい疲労感の中、俺はふと周囲の空を見渡した。
いない。
海峡の海面を埋め尽くしていたはずの標的の巨大戦艦も、護衛の船の姿も見えない。眼下に広がっているのは波打つだけの何もない冷たい海だけ。
「あ」
俺は、ようやく気がついた。自分がなんのために、このドーヴァー海峡へと飛んできたのかを。
「ア……あ、あっ、あ、あ……あ」
喉の奥から乾いた声が漏れる。やらかした。逃がした。俺はイギリス軍の迎撃要員としてここへ来たのに、目の前の戦いに夢中になりすぎて、ドイツ艦隊の海峡突破を完全に許してしまった。
「いや……!!」
俺は意識を失ってダラリと垂れ下がるヨハネの体を揺さぶりながら、早口で必死に言葉を紡いだ。
「いや違う!! 俺の本来の目的は『能力者の覚醒』だ! 俺はその通りに成し遂げたんだ! この世界が箱庭であることが確定したならば戦争など所詮は余興にすぎない! 誰もが勝てる戦争になど何の意味も無いんだ! そうだ! そうだろう!?」
俺は意識の無いヨハネの顔を覗き込み必死に同意を求めた。だが、完全に気を失った男から返事なんてあるわけがなくて。
虚しい波の音だけが、俺を嘲笑うかのように海峡の空へ響き渡っていた。
◇
大英帝国、ロンドン郊外の軍施設。
無事に生還したとはいえ、作戦目標であるドイツ巨大艦隊の海峡突破を『戦いに夢中になって完全にド忘れし、見逃す』という前代未聞の大失態を犯した俺は、自室のソファで深く項垂れていた。
「あーっ! あーっ! イヒッ、ヒヒヒヒヒッ!!」
その向かいの席では、同僚の予知能力者であるフェイビアンが、軍服の腹を抱えて床を転げ回っていた。
「お、おなかっ、お、お、くるじッ……ヒィィッ!」
「……」
酸欠で顔を真っ赤にしながら引きつけを起こすフェイビアンを前にしても、俺はただ無言でソファーに深く沈み込んでいるしかなかった。
どんな言い訳も通用しない。あの状況下で遊びに夢中になり、本来の任務をすっぽ抜かして敵艦隊を逃がしたのだから、彼に腹の底から笑われるのも無理はなかった。
「……」
フェイビアンの笑い声がいつまでも止まないため居た堪れず、俺は無言で立ち上がり、そそくさと部屋を出た。
向かったのは施設外れにある馬小屋だった。
薄暗い小屋の中。飼葉を食んでいた黒馬が主人の姿を認めて優しく鳴き声を上げる。
俺は藁の上に座り込むと、大きな愛馬の首に両腕を回し、自分の顔をその温かい毛並みにぐりぐりと押し付けた。
名前をつけていない黒馬は嫌がることもなく、大きな頭で俺の背中を優しく撫でるように擦り寄せた。
……これじゃない。
愛馬の温もりに抱かれているのに、俺の胸の奥は冷たくて底知れぬ空虚感がぽっかりと口を開けていた。
ドーヴァーの空であの綺麗な男と殺し合ったあの瞬間、確かに心は燃え上がった。ずっと求めていた充足感があった。だが、戦いが終われば結局は独りぼっちで何もない空虚に苛まれる。
……代わりに使ってしまってごめんな。何かが足りないんだ、俺には、ずっと。
なぁ、俺は一体誰と遊びたかったんだろうな? 誰と共に永遠を誓いたかったんだっけ? 何かを忘れているのに誰を忘れたかすら覚えていないんだ。
俺は目を閉じ、名も無き黒馬の温もりにもう少しだけ強くしがみついた。




