【第二章 第十話 悪魔の救済】
胃袋が、内側から自分自身を消化しようとしている気がした。
三下鉄郎一等兵は、ひび割れたレンガの壁に背中を預けながら、ただ浅い呼吸を繰り返していた。
三日前から食糧は完全に尽きている。口の中に広がるのは、空からしんしんと降り積もる『赤い灰』の血生臭い味だけだった。
「……クソが」
鉄郎の周囲には、同じ小隊の兵士たちが泥まみれになって力なく横たわっている。ある者は撃たれた傷が化膿して熱にうなされ、ある者は飢えと疲労で虚ろな目を虚空に向けていた。 ここは中国・長沙。小野優明中尉の無茶な突破劇のおかげで、彼らはどうにか主力部隊との合流を果たした。しかし、それが地獄の本当の始まりだった。
「一等兵……腹、減ったな……」
隣でうわ言を漏らす若い兵士に、鉄郎は無言で自分の水筒を差し出した。中には透き通るような冷たい水がたっぷりと入っている。優明の能力のおかげで、彼らの小隊だけは「渇き」に苦しむことだけは免れていた。
だが、水では腹は膨れても熱もカロリーも生み出せない。むしろ水があるせいで、彼らは脱水症状で死ぬことも許されず、長い長い『餓死』の苦痛を味わい続けているのだった。
絶望は飢えだけではない。
ズズン……ズズン……。
地鳴りのような足音が、盆地を囲む山々の向こうから定期的に響いてくる。
鉄郎は泥に塗れた自分の小銃を強く握りしめた。無能力者である彼に与えられたのは、この細長い鉄の筒と鉛玉だけだ。
(あんなものと、こんな鉄の塊でどうやって戦えって?)
空を覆う東洋の炎龍、建物を一撃で粉砕する大虎。神話のバケモノたちの前では人間の命などただの紙切れに等しい。おまけに、大日本帝国の最強の守護神であった『大蛇様』までもが、この長沙の地で無惨に討ち取られたという絶望的な噂が陣地を駆け巡っていた。盾は砕け、退路は絶たれ、飢えだけが体を蝕む。
(優明の野郎……ちゃんと司令部に辿り着けたのかよ)
鉄郎は、水を与えてから姿を消した悪友であり上官の顔を思い浮かべた。彼が有能な能力者であることは知っている。だが、この圧倒的な地獄ではどれほどの異能を持っていようと、一人の力ではどうにもならない。無事に生き延びていてくれとただ祈るしかなかった。
遠くで、中国軍の砲撃の音が上がった。 赤い灰の降る街で、ゆっくりと、しかし確実に『日本軍の壊滅』が始まっていた。
◇
【小野優明 視点】
とある半壊した建物の裏路地でアーサーをぼんやり待っていると、空間にヒビが入り《鉄の扉》が開いた。フェイビアンへ資料を渡しに行っていた彼が、足音も立てずに戻ってくる。
「小野優明、ここは完全に包囲された。全員死ぬ」
「おっけー。じゃあ友人だけ助けるルートいきますわ」
数万の味方が全滅するという報告にも、俺はノータイムで頷いた。日本の勝利になんて興味はないもんね、鉄郎さえ生き残ればそれでいいわ。
だが、アーサーは無表情なまま首を横に振っる。
「そのルートを取って日本へ戻ったとしても、お前は『戦死しなかったから』と味方に心臓を撃たれて死ぬ」
立ち上がった俺は、思わずイライラと黒山羊の尻尾を揺らした。
「は? 意味わかんない」
『生きて虜囚の辱を受けず』だっけ? ただでさえバケモノだらけの地獄の戦場だってのに、こんな絶望的な状況でまであのクソみたいな『戦陣訓』が発揮されんの? 狂ってんね〜! どいつもこいつも、所詮は『神様の掌の上』で転がされてるだけの駒のくせに、変なところで人間としての同調圧力を発揮してくるから本当にタチが悪いわ~ッ。
「あ〜。じゃあ、イギリス運営につきますわ。ああでも安心してアサおじ、俺はやることやったら一旦日本に帰る」
「フェイ曰くお前は『家族を殺してくる』らしいが」
「すげぇ! そうだよ!」
自国が俺を殺すというのなら、答えは一つだ。
「俺実は兄弟居るんだよね。生きて帰ってきても血筋が減っただけじゃん? なら、俺しか居なかったら生き残っても生かしてくれるよね俺の親父は」
「その予定通りになります」
そっか、あの『未来が見えるフェイおじ』は、俺の展開すらも完璧に計算して、アーサーにバッドエンドを伝えさせたってわけか。すごいなぁ本当に未来が見えるんだね。
「じゃあ、鉄郎のとこ戻って説得してくる」
「どうぞ。二十四時間ぐらい待つ」
「さっすが英国紳士〜」
瓦礫に座ったままホログラムの画面を弄り始めたアーサーを残し、俺は急いで鉄郎たちのいる陣地へと駆け戻った。
◇
泥まみれの塹壕で息も絶え絶えになっている鉄郎の腕を掴み、周囲に聞こえないよう小声で囁く。
「鉄郎。だめだ、ここはもう終わる。俺たちだけでも逃げない?」
「……敵前逃亡? 俺とお前で?」
鉄郎は虚ろな目を向けながら、微かに笑って首を横に振った。
「誰がするかよ」
「わかってるよ。お前が、家族のために頑張りたいことは」
鉄郎は家族のために軍で働いている。軍の給金で少しでも家族に財産を残し、せめて温かくておいしい食事をとってほしい。たったそれだけの、ひどくありふれた願いのために、こいつは地獄のような戦場で必死に生き延びてきた。前々回のループもそう。今回もそう。
俺は知っている。こいつが毎回、家族への手紙を胸に抱いたまま死んでいくことを。
「でも、俺からしたらお前にこそ生きていてほしいんだよ。故郷に帰って、土いじって、ただ普通に生きてほしいな」
「……その話は何度もしたろ。俺は頑固だからな」
鉄郎はもう、立ち上がる気力すらないようだった。泥に塗れた銃を抱きしめたまま、静かに目を閉じる。
どうしてかな?
どうして生きようとしてくれないんだろう?
俺には理解できない。どんなに泥水をすすってでも、どんなに醜く他人の命を奪ってでも、生きていればそれでいいじゃないか。どうして、醜く生きることすら諦めているんだろう。どうしてこんないいヤツが、理不尽に死ぬことをこれほどあっさりと受け入れてしまうんだろう。
『生きて虜囚の辱を受けず』
人間が勝手に作った、そんなくだらないルールのために。
あぁ……わかんないなぁ、人間の気持ちって。心の底からこいつを救いたいと思っているのに、俺の言葉は何一つこいつの心には届かない。
俺は冷たくなっていく鉄郎の背中を見つめながら、ただ静かに呆れていた。
「……わかったよ。ねぇ鉄郎、ちょっと着いてきて」
「それぐらいならなんなりと、中尉殿」
俺が声をかけると、鉄郎はフラフラとした足取りで立ち上がった。
そのまま彼を連れて他の兵士たちの目が届かない誰も居ない路地裏へと誘い込む。そこで俺は、右手を虚空に伸ばした。
──ポンッ。
軽い音と共に、俺の手の中に突如として『ランタン』が現れた。少し探せばどこにでも転がっていそうな、鉄でできた古いランタンだ。
「これ、なぁんだ?」
「えっ、えっ、えッ!? 今お前、それどこから出した!?」
手品でも見るかのように目を丸くする鉄郎に、俺はランタンを掲げて見せた。
「これね『魂を保管するランタン』なんだって」
「……は?」
意味がわからず呆然とする鉄郎を、俺はランタンを持ったまま、そっと抱きしめた。
骨と皮だけになった痩せた背中に腕を回す。鉄郎の匂いがした。汗臭くて、泥臭くて、それに血と火薬のにおいも混ざった、ひどく嫌な臭いだ。
「な、なんだよ急に。は!?」
「お前の匂い、絶対忘れないから」
愛おしい親友の体温を感じながら、俺は迷うことなく、右手を鉄郎の背中へと突き立てた。
人間の脆弱な肉を裂き、肋骨の隙間をすり抜け、その奥で微かに脈打っていた『心臓』を直接握り潰す。
「え、ア──。ごふッ」
鉄郎の口から大量の血が溢れ出し俺の肩を濡らした。
ビクンと大きく跳ねた身体は、すぐに糸が切れた操り人形のように重くなり、俺の腕の中へと崩れ落ちる。同時に、俺の左手に握られた鉄のランタンの中に、ポゥ……と淡く温かい《魂》が灯った。
「……よし、確保」
俺は血塗れの右手を振り払いながら静かに息を吐いく。
生きて日本に逃げれば『戦陣訓』で味方に殺され、ここに残れば死ぬだけ。なら、肉体を殺して《魂》だけを抜き取り、俺が持ち帰るのが一番安全で確実な『親友救出ルート』だ。
俺はランタンの中で揺れる鉄郎の魂に向かって、優しく微笑みかけた。
血塗られた右手を軍服のズボンで適当に拭いながら、俺はランタンを片手にアーサーの待つ裏路地へと戻った。
瓦礫に腰掛けていたイギリスの諜報員は、俺の姿を、俺が下げている淡く光るランタン――を見ると、氷のように冷たい目で口角を上げる。
「お帰り悪魔」
「……知ってたの? 俺がこういう選択をすること」
俺がため息まじりに尋ねると、アーサーはホログラムの画面を消去しながら肩をすくめた。
「ああ、知っていた。フェイビアンはお前を心底怯えていたよ。……あれは『本物の悪魔』だってな」
「心外だなぁ。だから俺、ただの普通の人間ですって」
アーサーは鼻でふっと笑い飛ばした。
「ハッ。普通の人間は友達を笑顔で殺さねぇよ」
その言葉には何の非難もこもっていなかった。ただ、純粋な事実を述べるような、冷たくも小気味よい響きがあった。
「まぁ、そこはそうかも」
俺は同意だけしておいた。
よし次だ。俺がやるべき事は終わったし、あんたもやるべきことを終わらせた。
お互い同時に《赤の鍵》と《銀の鍵》を宙にかざし、同時に《鉄の扉》を前に手を振った。
先に声をかけたのは俺だ。
「また連絡するね、じゃーねー!」
「また後日な、東の悪魔」
二つの扉が同時に閉ざされ、空間のヒビごと幻のように消滅する。
後に残されたのは、ただ果てしなく続く人間たちの殺し合いと、絶え間なく降り積もる赤い灰の音だけだった。




