【第二章 第六話 伝令、全裸で参上】
【ルカ・ロッシ視点】
俺は地獄から背を向けて飛んでいく。
黄金の翼が猛吹雪を切り裂く。炎と絶叫が入り乱れる最前線が、どんどん遠ざかっていく。
一瞬だけ後ろを振り返ると、雪雲の下で黒竜が天使の群れへ毒のブレスを吐き散らしているのが見えた。地上ではミノタウロスやケルベロスといった異形の獣たちが縦横に駆け回り、それを何万という白い翼の軍勢が飲み込もうとしている。
部隊は今にも決壊しそうだった。あの狂気に満ちた白い波に、全てが押し流されてしまいそうだった。
逃げて、いいのか、俺。
そうだよそうだよ! 逃げるべきだってあんなん!
意味わかんないよなぁなんで皆死にたがるんだよ可笑しいだろうがッッ! そもそも何ィ? フィレンツェでは俺がこの姿で飛んでても女の子が『グリフォンだ』って目を輝かせてくれたのに、ここじゃあ『ぼろ布』だの『犬』だの、あるドイツ人兵士(※ヴェークテルンではない)からは『イタリアの負け犬』だの! こちとら下半身ライオンじゃい! 上半身ワシじゃい! どこに犬要素があるんだよ言ってみろシュミート少佐!
幻獣の四肢が空を切る。翼が冷たい風を掴んで体を前へ前へと押し出す。向かっているのは安全な後方の本部。上官からの正式な命令なんだ逃亡ではない。なのに、なのになんでかなぁ? 俺の心は仲間を見捨てて一人だけ逃げ出しているかのような、嫌な焦燥感と罪悪感で張り裂けそうだった。
だって、だって俺は。
ペネロペちゃんが好きだ!
死の恐怖を振り払うように頭の中に浮かんだのは、高尚な大義名分なんかじゃなかった。
シェルちゃんも好きだ!
他の美人たち皆が好きだ! あーあヨハネも女の子だったら最高だったのになぁ! アイツは顔がめっちゃいいんだ絶対女の子だったら美人だって、なんなら俺即座にヨハネちゃんの犬になります。本気です。しかし現実のヨハネは野郎だ。おまけに雰囲気が明らか『庶民は近づかないでくれます?』って感じの貴族オーラ満載の鼻につく野郎だ。腹立つわ~存在が、いつかあのフランス貴族の顔面ぐちゃぐちゃにしてやるよ。まぁでも、あいつが本気で俺を見捨てたことはないから特別に顔は避けてやるよ。腹でどうだ?
極寒の風が顔を叩きつける。 俺は嘴を噛み締めた。
はぁ……他にも、あの部隊には美人がいっぱいいるのに。
後方の空が燃え上がる天使たちの炎で赤く染まっていた。世界が終わるようなあの地獄の真ん中に、美人たちが、野郎が、取り残されている。
あんな美人たちが大勢死ぬ世界なんて……絶対に、おかしいよな。
俺の行動原理はただそれだけだ。ドイツのためでも世界を救う大義のためでもないし、神への祈りでもなければ冷徹な上官への服従でもない。ただ『あんな地獄で彼女たちを終わらせたくない』という、極めて個人的で、人間臭くて、どうしようもなく真っ直ぐな想いだ。
でもさぁ、でもさぁ。たったそれだけで戦ったっていいだろ?! 逃げてるけどさ!
俺は黄金の翼を前へ前へと動かす。吹雪の中で首元に結ばれた黒鉄の『鉄十字』がカチャリと音を立てて揺れた。そのひんやりとした金属の重みが、あの冷酷な少佐から託された命の重さみたいで苦しい。
クソ! クソ! クソ! クソ!
「くそおおおおおっ!!!」
獣の咆哮とも泣き声ともつかない絶叫を上げながら、限界まで翼を広げた。
吹雪の空を黄金の光の筋が、本部へ向けて一直線に駆け抜けていった。
◇
後方本部の中庭に防空サイレンが鳴り響いた。
次の瞬間、猛吹雪の空から黄金の何かが急降下。
ドン!!
石畳に雪煙が爆発。警備兵が一斉に銃を構えた。俺は煙の中から飛び出し両手をあげる。体のどこにも傷はない、けれど服が一切なかった。出撃前の任務で焼き落とされて以来、着替えを調達できていないから。
なので俺は完全な『全裸』だった。
「退け!! 俺はヴェークテルン・シュミート少佐殿の伝令兵だ!!」
羞恥? んなもん海に捨てたわ! 俺は首に結ばれた黒鉄の騎士鉄十字章を両手で掴んで警備兵に突きつけた。幻獣の体はそこらの人間より寒さに強いけどにしたって寒ぃよ。それでも俺はやるしかなかった、気合いと焦りで一秒でも早く伝えなきゃいけなかった。
警備兵が全裸のイタリア人である俺と鉄十字を交互に見る。
二秒後、道が開いた。
◇
──本部の重厚な木製の扉を俺は全裸で蹴り開ける。
ドンッ! と開く扉、一斉に向けられる視線。
燭台の灯りに照らされた広い会議室で、将校たちが俺を見た。書類から顔を上げた者、コーヒーカップを止めた者、思わず立ち上がりかけた者。その全員が俺を見て口を閉じた。ああもちろん全裸だよ今の俺は全裸の不審者だ。
俺は机に飛びついて書類を叩きつける。
「撃てェ!!!」
部屋の空気が止まった。
「この座標に今すぐ支援砲撃を撃てェ!! ベヒモスが五体いる! あいつらが全員死んじまうだろうがッ! 今すぐ読んでくださいお願い致します!」
何故だか誰も笑わなかった。むしろ、俺の全力の怒鳴り声に誰もが目の色を変え、軍の上層部として適切に動き出す。俺の首元では騎士鉄十字章が、灯りを受けて静かに光を返していた。
部屋の奥から低い声が一つだけ響く。
「見せろ」
将校たちが左右に割れた。
奥に座っていたのは、あ、ぁ、ドイツの《アイギス》ファフニール中将だった。本名忘れちゃった、皆様敬意を込めてファフニール中将って呼ぶから。
その方は俺が話で聞いていたよりもずっと大きかった。座っているのにその存在感だけで部屋の天井が低く感じて、ああ、これがアイギスの箔か。とりあえず誰か俺に服をくれアイギスの前で全裸敬礼は人として終わる。
中将は差し出された書類を手に取り、数秒だけ目を通した。
それだけだった。
「全砲門、射撃準備」
中将が静かに言った。声が大きいわけではない。なのに部屋全体が即座に動き始めた。副官が走り出し、電話が鳴り、怒号と指示が一気に飛び交う。俺が全力で飛んできた意味がその一言で実行に移されていく。
これが権力者かぁ。すげぇなぁ。
指示を飛ばし終えた中将は俺を見た。
「来い」
「はッ!!」
俺は裏返った声で返事をした。
俺は廊下を歩きながら、中将の隣に控えていた付き人らしき人物が『こちらをどうぞ』と軽いシャツとズボンを俺に渡してくれた。俺は走りながら着込む。
その横で、ファフニール中将は迷いなく上着のボタンを外しながら歩いていた。
あれ? 脱いでる?
中将が外套を脱ぐと付き人に差し出す。
「……階級と能力は?」
「はッ!! 階級は少尉、能力はグリフォンでございます」
幻獣種は能力と階級をつけて呼ぶ。ファフニール中将、ニーズヘッグ大尉、そして俺はグリフォン少尉。見た目と名前が一致した方が扱いやすいからだろう。
「ではグリフォン少尉殿、空の案内を頼む」
俺は了解と言いかけて、止まった。
え。前線に、戻るの? 俺が? 中将が自らが行くんですか、え?
しかし、この国で唯一生き残っている伝説のファフニールに、ただの少尉の俺が『ちょっと待ってください』なんて言えるわけがなくて。
「……りょ、了解です!!」
中庭に出ると、中将はズボンも迷いなく脱ぎ捨て付き人に差し出した。次から次へとバッキバキに鍛え上げられた裸となっていく。おおおおう体ヤベェな男として違うわやっぱ。
俺も慌てて自分も脱ぎながら、また脱ぐのか……。ボタンを外していると地面に伸びる巨大な影を見た。
中将の影が変わっていく。
人の形ではなくなっていた。四肢が広がり、首が伸び、白銀の鱗が雪の上に煌めく。ファフニール中将の本当の姿が吹雪の中庭で静かに顕現していた。
でけぇ。
ニーズヘッグより、でけえ。
ペネロペちゃん……俺、これ案内できる気がしません。




