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【第二章 第五話 ヨハネの黙示録】



【ヨハネ・ド・ブジョワ視点】



 十二月五日 夜明け。


 大地が揺れた。


 目を覚ますよりも先に、骨を震わせるような重低音が体を叩き起こした。地震ではない。地面の下から何かが唸っているわけではない。地面の上だ。俺たちが横たわっているこの極寒の雪原のずっと向こうで、とてつもない質量の何かが規則正しく地面を踏み荒らしている。


「総員警戒!! 起きろ!!」


 塹壕のどこかで声の裏返った絶叫が響いた。俺は毛布を蹴り飛ばし、小銃を掴んで天幕の外へ飛び出した。凍てつく塹壕の縁に腹這いになり、地鳴りが聞こえる東の地平線を見る。


 朝焼けが、なかった。


 代わりに空が白かった。


 雪雲のせいではない。空全体が、羽ばたく翼でびっしりと埋め尽くされていた。

 俺は息を詰まらせたまま、数秒間、その光景をただ見つめた。真っ白な翼が地平線の向こうから巨大な波のように押し寄せてくる。一人ではない。百でも、千でもない。万だ。何万という数の白い翼が朝の光を完全に遮り絶望の影を落としながら、こちらへ向かって飛来してきている。

 ウソだろ、アレ全部が有翼能力者か?!

 地上からは雪を深く踏み抜く重い足音が響き続けている。岩を砕き凍土を割る音だ。視界を遮る吹雪の中から、規格外の巨体が五つ、ゆっくりと輪郭を現しす。


 その幻獣種は——ベヒモス。


 歩く要塞そのものである陸の巨獣。さらにその脇を白い毛並みを持つ二頭の巨大な狼——フェンリルが、獲物を探すように鼻先を揺らして歩いている。奥には砲弾すら弾き返すであろう石の鎧を纏った有翼の化け物ガーゴイルの姿もあった。

 俺の脳裏に幼い頃に教会で教わった聖書の一節が、ふと蘇る。


 あぁ……これは完全にアレじゃねぇか。


 空を完全に支配する真っ白な翼の天使の軍勢。

 不衛生な塹壕の底に蔓延し続ける伝染病。

 先の見えない泥沼の殺し合い。

 そして、生きとし生けるもの全てを等しく凍りつかせる真っ白な雪——冬将軍。


 四騎士が、揃っている。


 空から突然パァンと弾けるような音がした。ラッパの合図の代わりに轟いた砲声を皮切りに、上空の天使たちが一斉に能力を解き放つ。数万の炎が雪雲を赤く染め上げながら、雨のように塹壕へ降り注ぐ。地上では無限に湧いてくるソ連の歩兵たちが、底なしの淵から這い出たイナゴの群れのように、怒涛の勢いで陣地へと押し寄せてきた。


 まさしくだな。


 ヨハネ・ド・ブジョワは見た。神への祈りすら届かないこの東の最前線で、まるで聖書に記された『ヨハネの黙示録』をなぞるかのような、圧倒的な世界の終わりを見た。

 これほどの絶望を前にしては、念力を持つ俺一人の力なんてちっぽけな砂粒に等しい。俺たちは今日、ここで死ぬのだろう。


 いや、まだ断言はできない。


 悲鳴と爆音が交錯する塹壕の上空で、天を裂くような巨大な咆哮が轟いた。

 炎の雨を弾き飛ばし、漆黒の悪竜が塹壕から飛び立った。北欧神話において世界を終わらせる破壊の象徴、黒竜ニーズヘッグ。かの竜の中身はイタリア人の女性ペネロペ・コスタだ。彼女は絶望に染まる兵士たちの頭上を越え、たった一騎で空を埋め尽くす十五万の天使の軍勢へと、真っ向から突っ込んでいった。

 絶叫と爆発が支配する塹壕の底で、その声だけは異常なほど冷徹に響き渡る。


「総員、陣地を死守しろ!!」


 ヴェークテルン・シュミート少佐の声だ。彼の声が鼓膜を叩いた瞬間、絶望で硬直していたドイツ軍の防衛線から異形の影が一斉に雪原へと躍り出た。


「撃てぇぇぇッ!!」


 怒号と共に四体のミノタウロスが陣地の最前列へと展開する。人間の二倍を優に超える筋肉の塊のような巨躯。その肩には、本来なら戦車の車載用であるはずの、歩兵が撃てば反動で腰が砕ける巨大な重機関銃が担がれていた。


 ダダダダダダダダッ!!


 彼らが引き金を引くたびに文字通り地面が揺れた。押し寄せるソ連兵の波と、その奥から迫るベヒモスに向かって、太い火線が吹雪を切り裂きながら一直線に走る。雪と泥と肉片がまとめて宙に吹き飛んだ。


「噛み砕け!!」


 塹壕の縁では別の獣が吠えていた。ケルベロスだ。三つの頭を持つ漆黒の魔犬たちが、陣地の隙間を縫うように縦横無尽に駆け回る。塹壕に流れ込もうとするソ連の歩兵群へ飛び込み、その強靭な顎で次々と首や手足を咬み切っていく。極寒の雪原に生温かい血飛沫が舞う。防寒用の分厚い外套ごと人間の骨と鎧を噛み砕く鈍い音が、絶え間ない銃声に混ざって俺の耳に届き続けた。地上はすでに狂気に満ちた神話の戦場。

 だが。空の光景は地上の凄惨さすらも霞むほどに、もっと凄まじかった。

 黒竜ニーズヘッグが一匹、空を埋め尽くす十五万の白い翼の只中へと突っ込んでいた。体当たりでもない。爪による引き裂きでもない。大きく開かれた黒竜の顎から、漆黒の煙のようなブレスが、天使たちの密集した群れの中央へ向けて静かに吐き出された。


 あれは炎ではない。


 毒だ。


 空気を伝い風に乗って拡散する致死の猛毒。白い翼の羽ばたきによってさらに広範囲の陣形へと巻き込まれていく。猛毒の靄に触れた天使から順に、悲鳴を上げる間もなくその体が硬直した。純白だった翼が、みるみるうちにどす黒く変色し始める。羽毛が腐り落ち、肉が爛れ、飛行能力を失った者たちが雨のようにボロボロと空からこぼれ落ちていく。

 圧倒的な物量で空を覆い尽くそうとしていた人海戦術。 それは空気感染する広範囲の猛毒を持つニーズヘッグに対して、これ以上ないほど最悪のカウンターとして働いていた。

 一人が堕ちる。巻き込まれた次が堕ちる。その次も、その次も堕ちる。何万という白い翼が次々と黒い腐肉に染まり、力なく雪原へと墜落していく。


 ソ連の天使たちがもたらした『黙示録』に対して、北欧『ラグナロク』の破壊竜が真っ向から世界の運命に抗っていた。


 俺は、その圧倒的な蹂躙劇を塹壕から見上げながら呆然と息を吐いた。こんなの人間が出ていい戦場じゃねぇよ、怪獣と怪獣による神話対戦だ。

 ほら、そこの無能力者のフランス人兵士なんて小銃を捨てやがった。何をする気かと眺めていると、鞄から荷物を抜き取り食事を詰め込んでいく。逃げる気か? 意味あるのか? 逃げた先にあるのは天使の炎だけだというのに。



◇




 そんな狂気に満ちた神話大戦の地上。

 天使の業火と竜の猛毒が交錯する塹壕の、ちょうど真ん中で。


 俺の専属のペットことルカ・ロッシ少尉が、幻獣の姿のまま本気で空へ逃げようとしていた。


「終わり! 終わり! 神が世界を終わらせるんだ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」


 情けない悲鳴を上げながら黄金のグリフォンが巨大な翼を広げる。雪を蹴り立て、今まさに全速力で安全な後方へと飛び立とうとした、その瞬間。

 俺は飛びつき、手綱を両手でガッチリと掴んだ。


 全力で引いた。とにかく全力で引いた。


「うぉあああッ!?」


 ルカが半泣きで必死に羽ばたいている。強風が塹壕の雪を巻き上げる。俺は塹壕の泥の中に両足のブーツを深く沈めて踏ん張り、手綱一本を握りしめて、数百キロの巨体が浮き上がるのを物理的に引き留めていた。


「離してくれえええええ!!! 死ぬ!! 絶対に死ぬ!!!」

「離すかバカヤロウッ!! お前がいなくなったら誰が俺を背中に乗せて飛ぶんだ!!」


 俺は能力を使っていない。念力を使えばこの程度の巨体など一瞬で地面に縫い付けることができる。だが、上空の天使の炎から陣地全体を守るための障壁を展開するのに、能力の大部分を回さなければならなかった。だから俺は己の純粋な「腕力」と「気合い」だけで、死に物狂いの幻獣の逃亡を阻止していた。あぁクソッ! にしたってコイツやっぱデカいし力がありすぎる、俺の腕の筋肉が悲鳴を上げてんじゃねぇかその力を戦士として使いやがれ。

 ふと、視線を感じた。激戦の指揮を執っていたはずのヴェークテルン・シュミート少佐が、俺たちの泥臭すぎる綱引きを二度見していた。


「ブジョワ中尉」


 地響きの中にあっても、相変わらず冷徹に透き通った声だった。


「はッ!!」


 俺は手綱を引いて背筋を反らせたまま無理やり返事をした。少佐は暴れるグリフォンと、それを腕力だけで押さえ込んでいる俺の腕を交互に見比べた後、氷のように冷たい真顔で言った。


「貴方、念力使いの割に、かなりの怪力をお持ちで」

「ありがとうございます少佐殿!!」


 俺はやけくそに大声で返す。

 俺たちがそんなシュールな問答をしている間にも、雪原にはソ連の天使たちから降り注ぐ炎の雨が絶え間なく着弾し続けていた。



◇



【ヴェークテルン・シュミート視点】


 ヴェークテルン・シュミートは、暴れるグリフォンを冷徹な金色の瞳で観察しながら一瞬で状況を判断した。


 コイツはもうダメだ。


 ルカ・ロッシの恐怖は本物だった。震え、錯乱し、戦意を完全に喪失している。この極限状態では彼を無理やり前線に留め防衛力として機能させることは不可能に近い。無能な指揮官なら兵士を怒鳴りつけて無駄死にさせるが、俺は違う、無能な無能力者共と一緒にするな。

 ならば利用してやればいい。『死にたくない、ここから一刻も早く逃げたい』という強烈な生存本能を、この局面において最も正しい方向へ向けてやればいい。


「ぼろ布」


 俺は短く、鋭く呼んだ。

 ビクッと体を震わせ、グリフォンの黄色い目がこちらを向いた。


「そこまで逃げたいのならば、貴様に命令を与えてやる」


 ルカの耳がピンと立った。


「伝書バトとして、この書類を本部へ届けてこい。一人で」


 一瞬ルカの目に『後方へ逃げられる』という安堵の光が宿った。だが次の瞬間『一人で』という言葉の重みが脳裏に届いて、その目からスッと光が消え失せる。ヨハネの念力防壁もペネロペの援護もなく、無数の天使が飛び交う戦場から単騎で逃げろという意味だからだ。

 ルカの喉から、絶望に満ちたかすれ声が漏れた。


「……わかりました」


 俺は無言のまま歩み寄る。ルカの脇腹にある革のバッグに、ベヒモスの座標が記された書類を押し込んだ。それから自分の軍服の首元に手をやり冷たい指先で勲章の紐を解く。祖国ドイツにおいて、最高クラスの武勲を立てた者にのみ与えられる栄誉の証。俺はその『鉄十字』を、グリフォンの太い首にしっかりと結びつけ──きゅ、と帯を結ぶ。

 ルカが弾かれたように下を向き、自分の首で鈍く光る黒鉄の十字を見た。


「いいか」


 お前に託そう。逃げ足だけは速そうだしな。


「全速力で休まず飛べ。ベヒモスが投下された。ファフニール中将の支援砲撃がなければ、この陣地は一時間持たない。俺たちの部隊千人どころか、五万は軽く死ぬ」


 ほぼ確実な事実だ。昨日計算していたからわかる、俺たちはあの天使の軍勢に絶対に勝てず栄誉ある戦死の道しか残されていない。だが、我が国の《アイギス》が動けば戦況は一変すると。

 俺はグリフォンの黄金の毛並みを撫でた。


「本部まで、一直線で飛べるな?」


 俺はルカの目を真っ直ぐに見据え、初めてその呼び名を変えた。『ぼろ布』でも『犬』でもなく。


「グリフォン」


 ルカは、ハッとして顔を上げる。さっきまでの見苦しい恐怖と涙が消えていた。首から提げた鉄十字章が彼の心の中で何かのスイッチを入れたのだろう。使い捨ての駒ではなく『指揮官から千人の命を託された男』としてのスイッチを。


「はい」


 短く、力強い返事だった。


「行け!!」

「了解!!」


 黄金の翼が雪原の風を切り裂いて大きく広がった。

 ルカ・ロッシ少尉は塹壕の泥を力強く蹴り上げ、炎の雨が降り注ぐ神話大戦の空へと、ただ一騎で飛び立っていった。




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