【第二章 第四話 白き波濤】
【ヴェークテルン・シュミート視点】
天幕の中に、雪が紛れ込んでくる。
隙間から入る風が地図の端を捲ろうとするたび、ヴェークテルン・シュミートは文鎮代わりの拳銃でそれを押さえた。地図には東部戦線の現状が書き込まれている。包囲線。補給路。孤立した陣地の位置。そして、圧倒的な物量を誇るソ連の軍勢がじわじわと包囲の輪を縮めている場所。
なぜこうなったのか。
答えは簡単だ。数だ。ただの数だ。
人口の三割が能力者であるこの世界においてソ連は兵士を掻き集めた。広大な国土と多すぎる人口を持つあの国は、戦争において量で質を潰す戦術を基本とした。量の中には最も発現しやすい翼の能力者が腐るほど混ざっている。白い翼と属性能力——炎、水、風。それだけでいい。戦場に立てる体と引き金を引ける指があれば、能力などそれで十分だ。
結果、吹雪の空を覆い尽くしてきたのは何万人という白い翼の波だった。
彼らは神の使いでも黙示録の使者でもない。ただの徴集兵。顔も名前も関係なく、ただ数として空を埋める白い翼。しかしその光景は、塹壕から見上げた兵士の目には紛れもなく終わりの景色に映る。
俺は地図から目を離さなかった。
どこかに突破口がある。物量では勝てないんだ、ならば質で、速度で、想定外の方向から穴を開けるしかない。それがドイツ軍の戦術だったはずだ。しかし今やその質の部分を担う能力者たちも消耗戦の果てに数を減らしている。
俺は右手で額を押さえた。
天幕の外から吹雪の音と気配が四つ。アイツらが帰ってきたな。
俺はテントに入ってきた四人を一瞥しただけで、必要な情報を全て読み取った。
コスタ大尉は顎を上げて歩いている。余裕の姿勢だ。これは演技ではなく天性のものだが、今日に限っては何かを隠す方向に機能していると直感で理解。ブジョワ中尉は前を向いたまま微動だにしない。表情が完璧に制御されて、これがまた逆に怪しい。何も考えていない顔は何かを隠している時の顔だ。
そしてザウェク少尉。服の一部が黒く焦げている、しかし肌に傷一つない。
最後。グリフォンの少尉が幻獣形態のままヨハネの後ろを大人しくついてきている。
これは絶対何かがあったな、敵の能力者と遭遇したか。
俺は指示を出す。
「報告」
コスタ大尉が一歩前に出た。
「物資の投下は完了。直後に敵の有翼部隊に強襲され交戦。即座に撤退しました」
完結で、明瞭で、瀟洒な報告だった。
しかし。
ザウェク少尉の服は黒焦げだが皮膚は無傷だ。炎を浴びたとしたら服だけ燃えて皮膚が無事である理由の説明がつかない。コスタ大尉は『即座に撤退した』と言ったが、グリフォンの羽毛の一部もわずかに焦げている。グリフォンは戦闘を避けるクソヘタレなイタリア人だ、羽毛が焦げているということは炎の射程に入ったということ。
つまり、即座に撤退は嘘だ。
そして物資の木箱の数が、出撃前に確認した数と一致しない可能性がある。もっとも、それは今ここで確認できることではないが。
俺は三人と一匹を見渡した。
しばらく黙る。三秒、五秒。
ブジョワ中尉の喉が小さく動いた。グリフォンが尾の先をぴくりとさせた。コスタ大尉だけが黒と白のオッドアイの視線を真っ直ぐ向けてくる。ザウェク少尉は……ただ静かに立っていた。
まぁ。今は泳がせておくか。いいだろう、お前らの秘密はここでは明かさないでおく。
有能な獣と使えない将校を天秤にかければ答えは自明。何万という白い翼が迫るこの前線で黒竜と念力『Ⅷ(八)』階位の使い手を処罰している余裕は存在しない。嘘をついたことへの追及よりも、次の戦局に向けてそれぞれの能力を保全することの方が百倍重要だ。
「ご苦労だった」
俺はそれだけ言って、地図へ視線を戻す。
「下がれ」
コスタ大尉が口元をわずかに緩めた。ブジョワ中尉は表情を動かさなかった。
四人がテントを出ていく。
◇
【ヴェークテルン・シュミート視点】
一人になったテントで、ヴェークテルンは再び地図と向き合った。
外が騒がしいな、なんだどうした。
天幕の壁越しに声が聞こえてくる。視線は上げなかったが耳はそちらへ向けると、なんだ? 誰の怒声だ。
「だぁぁぁから俺がお前を守ってやるって約束してんだろうがァ!!!」
まさかブジョワ中尉か? あんな低い声出せるのか、あの顔で? え~ちょっと見させろよ顔のいいやつの怒りに満ちた顔は最高だからな。
次はグリフォンの声。甲高い二十歳特有の切実な叫び声がした。
「もうイヤだぁぁぁ!! 家に帰らせろ!! 夏の海で泳がせろ!! 俺を普通の一般人に戻してくれぇ!!」
呆れるわ~~~。
俺が呆れている間に中尉が鳥を慰めてくれた。
「また似たような命令が来る! これ以上の規律違反は顔面にレンガを投げ飛ばすぞ!!」
「ぴー……」
「何が『ぴー』だ小鳥か!」
「ぴー……ぴー……」
俺は立ち上がり天幕の隙間から外を覗く。
そこにいたのは、雪の上で全力で縮こまるグリフォンと、その首根っこを掴んで怒鳴り続けるブジョワ中尉の姿。グリフォンが怒られた犬みたいになっていて、ふ、ふへへへ、お前よく見たら犬みたいだな? 獅子の下半身はあったかそうでモフモフしてそう。
俺は何かが胸の奥で静かに満たされ、天幕を出る。
雪を踏む足音に気づいたブジョワ中尉が即座に敬礼する。グリフォンが顔を上げ、金色の目と目が合った。グリフォンは敬礼の代わりに首を縮める。
俺は中尉へ目を向けると、彼の整いすぎた顔が少し引きつった。
「グリフォンの主人として名乗り出る者は、現状貴様だけのようだな」
いいじゃん、そういうのは助かる。俺は指揮官だ部下の育成時間なんてあるわけがない、グリフォンの躾は彼にお任せしてしまおう。
俺はグリフォンへ視線を移す。
「ちなみに貴様はなぜ人の姿に戻らない」
グリフォンが不動の姿勢で答えた。
「はッ! 服を燃やされましたので!!」
バカだなぁ、なんで支給品を失うんだよ後で死体から剥ぎ取れ。
はぁ。しかたないのでこれで許してやるか。
「では俺の専属ベッドとなるなら、食事の横領を見逃してやろう」
テントの外で一瞬の静寂が落ちた。
ブジョワ中尉が目を剥いた。その目が『頼む、何の話か分からないと誤魔化せ、ただの確認だ、それを言え、言ってくれ』という全霊の祈りを発している。
だがバカは、グリフォンは、一秒も迷わなかった。
「ありがとうございますッ!!」
ブジョワ中尉の顔が、ゆっくりと、しかし確実に死んでいった。
ほらやっぱりな、あのトカゲ女ならやると思ったよ。竜のエサ代はやはり高くつくらしいが、既にそれなりの貢献はしてくれているんだ一々取り締まる方がナンセンス。
しかしそれはそれ、これはこれ。
俺はグリフォンへ命名する。
「今日からお前は『ぼろ布』だ。わかったかぼろ布」
「はいッ!!」
よしよし、いい犬だ。
「ではその辺で寝転がってろ」
「はい!」
ルンペンと名付けたグリフォン——ルカ・ロッシ少尉は、尻尾を振りながら雪の上に盛大に横たわった。今日からあったかい寝床ができたぞ俺、やったな! あの伝説のグリフォンのベッドだ最高の暖かさと柔らかさだろう。
俺はテントへ戻りながら、すれ違いざまに空を仰いだブジョワ中尉へ一言だけ告げた。
「ブジョワ中尉。グリフォンの引き渡しを感謝する」
「……お役に立てて光栄です、少佐殿」
中尉は敬礼。その表情は完璧に制御されていて、いやぁ顔がいいって顔がいいな。
俺は再び地図の前に座る。
外からルンペンのご満悦そうな鼻息が聞こえてくる中、物量差の計算を再開した。白い翼が何万いようと突破口を見つけるのが仕事だ。感情は余計だ。合理的に考えろ。
今夜は少しだけ地図の計算が進みそうな気がした。
◇
十二月四日 深夜
──俺は祈っていた。
ヨハネ・ド・ブジョワは、毛布の端を握りしめながら、凍りついたテントの中で目を開けたまま祈っていた。
隣ではペネロペ・コスタ大尉が重い外套を羽織り、その腕の中でシェルピェン・ザウェク少尉が小さく丸まって眠っている。吹雪の音が途切れるたびに、シェルピェンの細い肩が寒さに揺れた。
俺は自分の両手を見た。
能力階級『Ⅷ』の念力。あらゆる物体を自在に動かし、砲弾を空中で叩き落とし、人間一人を数百メートル吹き飛ばせる力。これだけの力があるのに、この力では、あの子を温めてやることは不可能だった。念力に熱はない、あるのは力だけ。勢いも速度も精度もある、しかし熱だけはない。
俺は小さく息を吐いた。
己の信じる神への、静かな独白をはじめる。
もし神がおられるなら。
念力の力など要りません。能力階級が最下層になってもいい。その代わりに、俺に炎の力をください。あの子の指先一本でも温められる、小さな炎でいい。
そんな独白に誰も答えなかった。テントの外では吹雪が唸り、マイナス三十度の夜が続いていた。




