【第二章 第三話 堕ちる天使】
【とある天使兵視点】
逃げられた。まぁいい。
俺は分厚いウールのマフラーを鼻先まで引き上げ、猛吹雪の向こうへと消えていった黒竜の巨大な影を目で追った。逃げられた。物資の投下も許した。俺たちが放った炎は念力使いの障壁に阻まれ、決定打にはならなかった。ふふ、それでいいんだ。
マイナス三十度の上空で俺の背に生えた真っ白な翼が羽ばたくたびに、凍りついた雪が粉々に砕けて散る。今日の任務は別にあったのだから、これでいい。
「大尉殿!」
風の音に混ざり、隣に並んだロシア人の声が響いた。俺は前を向いたまま、答える代わりに視線だけを横へ向ける。
「我々四名の《天使の隊》ならば、あの負傷した竜一匹くらい狩れます! 今ならまだ追えます、大尉殿! 戦果を!」
吹雪の中でそいつの顔は功名心に赤く紅潮していた。自分の背に生えた白い翼を神の与え賜うた奇跡だとでも信じているような、無邪気で、憎たらしくて、底抜けに輝く瞳だった。
戦果、か。
俺の喉の奥で何かが鳴った。最初はただの乾いた吐息だった。それが次第に震えを帯び、やがて声帯を揺らして形となる。
「ははっ。ハッ、あはははは!!」
「だっ、大尉殿?」
狂ったように笑いが込み上げてきた。白い翼を広げたまま、猛吹雪の真ん中で俺は腹を抱えて声を上げて笑い続けた。後ろに控えている二人、ポーランドから連れてきた俺の本当の部下たちは、無言のまま吹雪の中に滞空している。
こいつらはわかっている。だから笑わないが、俺だけはどうしても笑わずにはいられなかった。
「お前、俺がどこ出身か忘れたか」
ピタリと笑いを収める。
代わりに腹の底に残ったのは、この東部戦線の冬よりも、はるかに冷たくて黒い泥のような感情だった。
「俺は……ポーランドだ」
ロシア人の顔が引き攣った。動揺ではない、理解だ。遅すぎる理解がその脳髄に染み渡っていくのがわかった。吹雪の中で白い翼を持つ青年は、ようやくいくつかの事実のパズルを繋ぎ合わせ始めているだろう。
前任の指揮官であったロシア人少佐はなぜ先の戦闘であっけなく死んだのか。今回の強襲任務で、なぜ大尉である俺が率先して指揮を執ったのか。今夜、俺たちの動きがなぜあの黒竜の部隊に筒抜けだったように感じたのか。そして、なぜ激戦の中で『味方のロシア兵が死ぬ』という完璧なアリバイが必要だったのか。
凍りつくような絶望がそいつの顔を蒼白に染め上げるまで、俺はたっぷりと時間を与えてやった。
「この隊でロシア人は」
俺は囁くように言った。極寒の風が、その言葉を残酷なほど明瞭に相手の耳へ運ぶ。
「もう、お前しかいないんだよ」
俺が顎をくいと動かした瞬間、後ろの二人が音もなく動いた。
拳銃の撃鉄を起こす硬質な音すら吹雪が飲みこむ。ロシア人の青年は口を半開きにして何かを叫ぼうと、逃げようと翼をばたつかせた。だが遅い。マイナス三十度の上空で同じ能力を持つ三人に三方を囲まれた状態から逃げる道など、この世に存在しない。
俺はロシア人の青年を見下ろし銃口を向ける。
「ポーランドの土を踏み荒らした代金だ」
俺は躊躇いなく引き金を引いた。
パァン、と乾いた音が一つ。
弾丸は正確に胸を貫き白い翼がびくりと痙攣して力を失った。悲鳴を上げる間もなかった。青年の体が瞬く間に雪の白と混ざり合い、マイナス三十度の暗い底へと真っ逆さまに落下していく。
俺は眼下の暗がりを、ただ無表情で見下ろした。
さっきの話で言えば。
あの黒竜は背中から落ちた銀髪の少女を追いかけた。自分の命の危険も顧みず、全速で急降下して味方を救うことを諦めなかった。俺は逆のことをした。味方を冷酷に見捨て、自らの手で撃ち落とした。
どちらが天使らしいかなんてどうでもいい。神の使いらしくある必要がどこにもないから、俺たちは今日ここにいる。背中に真っ白な翼が生えていようとも俺たちは天使じゃない。翼などただの移動手段、国家が死んだあの日から復讐のための道具となった。それ以上でも、それ以下でもない。
後ろの二人が俺の左右に並んだ。一人が短く報告する。
「任務完了です」
「ああ」
もう一人が吹雪の向こう、ドイツ軍の陣地がある方向を顎で示した。
「引き上げますか」
「当然だ」
俺たちは翼を広げ吹雪の中へ悠然と身を翻した。
誰かが死んだ。それだけのことだ。この狂った戦争では毎日何万人という人間が死ぬ、問題は誰に殺されるか。敵の砲弾で無意味に肉片にされるより祖国を奪われた俺の怒りに殺される方が、まだ死ぬ意味があるというものだ。
なんて、身勝手な自己正当化ができるほど俺の心はまだ憎悪に煮えたぎっていた。
マフラーを引き上げ前を向く。吹雪の向こう、東の空がわずかに白み始めていた。もうすぐ夜明けだ。東部戦線の夜明けはいつも誰かの死の匂いがする。今夜は俺が死なせた。明日は俺が死ぬ番かもしれない。それすらどうでもよかった。祖国が地図から消えたあの日から、俺は自分の命の使い道をとうに決めている。ロシアの旗が掲げられた土地を、一枚でも、一寸でも削り取れるなら、俺の命などそのための弾丸で十分だ。
暗い雪原が遠ざかる。真っ白な翼が三つ、夜明けの吹雪に溶けていく。
遥か下の陣地では今頃、俺たちがわざと見逃した物資を囲んで誰かが笑っているかもしれない。あぁそうしてくれ、ドイツのお前らは俺らのおかげで救われたんだ。
やがて空には誰もいなくなった。
活動報告にヴェークのイラスト(自分で描きました!)を載せたので、お暇な方はぜひ見てみてください!
※ちょっとネタバレあるかもしれん




