【第二章 第一話 多国籍塹壕にて】
【第二章 第一話 多国籍塹壕にて】
時は一九四一年、冬、東部戦線。
マイナス三十度を下回る極寒の雪原に掘られた泥の塹壕は、もはや兵士たちの巨大な墓標と化していた。
氷のように冷え切った泥壁に背を預けながら、フランス軍の捕虜、《ヨハネ・ド・ブジョワ》中尉は、ただ静かに白い息を吐き出していた。能力階級『Ⅷ(八)』の『念力』を持つ彼は、今やドイツ軍の使い捨ての兵器としてこの最前線に立たされている。死への絶望すら凍りつくような世界だった。
だが、彼の深海のように青い瞳は、先ほどから一点に釘付けになっていた。
塹壕の片隅。支給された粗末な防寒着にくるまり、自分の背丈ほどもある重い小銃を抱きしめるようにして浅い眠りについている、とある少女。
その少女は雪と同化しそうなほど美しい銀色のショートヘア。身長は百五十センチ程度。どう見ても十二、三歳にしか見えないその小さな少女を見た瞬間から──ヨハネの胸の奥で、強烈な痛みに似た感情が狂ったように警鐘を鳴らし続けていたのだ。
なんでだ。どうして俺はあの子から目が離せない……?
捕虜である自分が他人の心配などしている場合ではない。しかし、彼女の小さな肩が寒さに震えるたび、ヨハネは自分の心臓が素手で握り潰されるような錯覚に陥った。理屈ではない。魂の奥底に刻み込まれた何かが『この子を絶対に守らなくてはならない』と絶叫している。
ヨハネが無意識のうちに自分の分厚い外套を彼女にかけてやろうと一歩を踏み出した、その時だった。
「シェルピェン!」
ある女性将校が少女の名前を呼ぶ。
シェルピェン、って言うんだ。名前の音的にドイツでもフランスでもないな、ポーランド辺りか?
女性将校は少女の隣に並ぶとコートを開け膝のなかにおいでと示す。シェルピェンはフニャッと頬を緩め年上のお姉さんのコートの中で暖をとっていた。女性特有のスキンシップだ、特に違和感はない。
いや、ある。女性将校は明らかに幼い容姿のシェルピェンの後頭部に鼻を添え、スーーーッと匂いを嗅いでは『ハフッ』と恍惚の顔を見せた。うわッ。
「私の子供ってことにして大尉にしちゃいたい……」
「コスタ大尉殿、お言葉ですが同じコートで眠るだけでもかなり軍規が」
──ここで名前を呼ばれてしまう。
「ブジョワ中尉!」
「はッ!」
俺は銀色の少女から遠ざかり、捕虜としてこの部隊の司令官へ挨拶しに向かった。
◇
俺はテントの中で挨拶をする。
ここがマイナス三十度の世界だろうとなんだろうと、敬礼で一ミリでも動くことは許されない。
「出頭致しました、ヴェークテルン・シュミート少佐殿」
直立不動で声を張り上げると、机で海図と睨み合っていた金髪の青年将校が冷徹な金色の目をこちらへ向けた。若くして少佐の地位に就き、強力な雷の能力を有する純粋なドイツ人の能力者。彼こそが、自分たち使い捨ての能力者を最前線で管理する死神だ。
シュミート少佐が口を開きかけた瞬間。
──ゴォォォォォォッッ!!!
鼓膜を、空気を、凍りついた皮膚すらも内側から揺さぶるような、おぞましい獣の咆哮が戦場に轟いた。
「敵襲か」
少佐は迷うことなく天幕を蹴り開けた。
シュミート少佐が指示。
「《幻獣種の能力者》か! 今すぐコスタ大尉を出撃させろ!!」
「既に“脱いでおります”!」
「さすがは痴女だな!」
俺は咄嗟にテントの向こうを見てしまう。
そこにはマイナス三十度の吹雪の中で、見事なプロポーションの女性が下着を上も下も豪快に放り投げている真っ最中だった。
彼女は変身する能力の特性上、あらかじめ服を脱いでおかなければ軍服がすべて引き裂かれてしまう。理屈はわかる、幻獣種の能力者特有の事前準備だ、仕方がない。しかし、ここは数ヶ月間も女っ気のない男ばかりのむさ苦しい最前線で。
「コスタ大尉殿!」
「グラッツェェエ!(ありがとう!) グラッツエエエエエッ!!」
「この地獄の果てで最後にビーナスの彫刻を見られるなんて……あぁ神よ……」
最後のは同郷のフランス人だろう。
迫り来る化け物の恐怖など完全にどこかへ吹き飛んだように、塹壕の泥に這いつくばった野郎どもの野太い歓声と熱狂が止まらない。
少佐の「ラテンどもがッッ!! 銃を構えろ!」という怒声も完全に無視されていた。この塹壕には将校だけでなく寄せ集めの一般市民も混ざっているため、シュミート少佐はあえて電気を放ち兵士に静電気を走らせなければならない。ビリッと黄金の電気がラテン人どころか同じドイツ人にも走る。ああ、確かにしっかりと見ていたよ、そこのドイツ人グループもね。
だが、その熱狂は一瞬にして凍りつくこととなる。
メキメキ、ゴキァッ!
嫌な骨の鳴る音が響いた直後、全裸だった女性の美しい肌が、どす黒い鱗に覆われ始める。
「下がれ! 潰されるぞ!!」
膨張する筋肉。弾け飛ぶ雪。兵士たちが悲鳴を上げて後退する中、彼女の頭部には禍々しくも立派な竜の角が生え揃う。
わずか数秒。前足だけで巨大な体を支え、地響きと共に立ち上がったのは、神話からそのまま這い出てきたかのような巨大な黒竜だった。
「ガアアアアアアアッッ!!」
黒竜が天に向かって咆哮を上げる。
雪原の向こうから迫り来る敵の化け物と、味方陣地に顕現した漆黒の悪竜。人間の矮小な命など一瞬ですり潰される、本当の地獄が幕を開けた。
「はぁ~~グラッツェ……」
とあるイタリア人は鍋を準備、彼は能力者だ。手のひらに鍋を乗せると能力の炎を点火、雪を溶かして煮沸、そこへパスタを投下。
隣に居たとあるドイツ兵士がその姿を三度見る。
「えっ? えっえっ? なにをしている?」
「いいもの見させて貰ったから用意しないと」
「パスタを?」
「当たり前だろうが!」
能力の無駄使いとはまさにこのこと。
俺は小銃を掴んだが、目先の雪原では真っ白な巨大な狼と漆黒の竜が争い、とても俺が入れる隙間なんてない。
東部前線に到着しわずか三十分で、俺は産まれてはじめて『フランスの実家に帰りたい』と思った。
◇◇◇
コスタ大尉は狼を追い払い、とある兵士が用意してくれたパスタを食べながらマンドリン(弦楽器)を手にポロロンと奏でた。
「では私から勝利の歌を一つ」
少佐が叫ぶ。
「やめろ!!」
コスタ大尉は無視してポロロン。イタリア語の華やかな歌が始まり、集まっていたラテン系の男も女も一斉に歌い出す。これは祭りじゃない、イタリア人コミュニティーの結成を祝う出発点であり日常の一つである。
少佐はその景色に額を押さえると、とあるイタリア人二人を睨み付けた。
「大尉殿が俺のパスタ食ってくれた!」
「よかったな」
「資源を無駄にするな!」
少佐はイタリア人能力者の背中へビリッ! 小さな悲鳴があがった。
すると少佐の隣をフランス人の男が過ぎ去る。服はドイツ軍だが顔つきでわかる、アレはフランス人で間違いない。彼は空の弾薬箱をペネロペ・コスタ大尉のとなりにしゃがんで差し出すと。
「大尉殿……あなたのその美しい黒鱗の輝きが私の真っ白な脳に焼きつ、ギャッ?!」
フランス人はびょんっと上跳び、あろうことか少佐睨み付ける。
そんなフランス人へ少佐は一言。
「ドピンクの間違いだろうが……」
あれぐらい普通だと俺は思うけど。美しくて華やかな女性がそこにいるのなら、ましてや少しは好意を抱いたのなら声をかけない方が失礼だと思う。エリートなドイツ将校には伝わらないかこの礼儀が、やはり文化の差というのは大きいね。
少佐はある兵士へ目を向けた。その兵士は初老の男で、彼は酒瓶を飲み干したところだった。その兵士は少佐と目があった瞬間、静かに中指を立て一言。
「クルヴァ」
ポーランド人だ。
少佐は軽蔑した冷たい目線を送ってから、また軍靴を鳴らす。ドイツ軍将校の背中が遠ざかると、シェルピェンが身を屈めながらこっそり駆け寄る。初老の男は彼女と目が合うと目付きが柔らかくなり、俺ではわからない言語で話し始めた。そうか、彼女はポーランド人だったか。
初老の男は彼女へ小さな瓶を差し出す。シェルピェンは首を横に振ったが、初老の男は彼女の胸に押し付け強引に持たせた。あれはきっと秘蔵の酒かなにかだろう。
「飲んで温まれ、お嬢ちゃん。ドイツの豚どもにくれてやるくらいなら君が持っていたほうがマシだ」
言葉の響きと男のジェスチャーから、なんとなくそんなことを言っているのだろうと察しがついた。シェルピェンは困ったように瓶を見つめた後、初老の男へ感謝を告げる。
俺の胸の奥でまたあの狂おしいほどの警鐘が鳴る。あの子にこんな地獄を歩かせちゃいけないと《魂》が叫んでいた。
活動報告にヴェークのイラスト(自分で描きました!)を載せたので、お暇な方はぜひ見てみてください!
※ちょいネタバレあるかもしれん。




