第十七話 ナポリの四日間
【ナポリの四日間:第一日目】
【靴職人の青年視点】
俺の武器は泥だらけのシャベル一本だけだった。
九月二十七日、ナポリ。
ほんの数日前まで同盟国だと思っていたドイツ軍はイタリアの降伏を知るや否や、掌を返して俺たちの街を蹂躙し始めた。男たちは労働力として連行され、逆らう者はその場で撃たれた。
もう我慢の限界だった。街のあちこちで市民が立ち上がり一斉に暴動をはじめた。
俺たちは必死だった。タンスやベッドを通りに放り出してバリケードを作り、女や子供は屋根の上から瓦礫やワインボトルの火炎瓶を投げ落とした。俺もシャベルを振り回したよ、迫り来る軍靴に泥臭くしがみついて抵抗したよ、靴しか作ってこなかったこの手ではじめて誰かに怪我を負わせたよ。
誇り高きナポリをこれ以上好き勝手にさせてたまるか。それだけで落ちていたシャベルを手にした。
そんな死に物狂いの抵抗が『奇跡』を起こした。
路地の狭さを利用してドイツ軍の歩兵部隊を誘い込み、屋根の上から雨のように火炎瓶を降り注がせた。炎に巻かれて陣形が崩れた兵士たちへ向けて、建物の陰から数百人の市民が怒号を上げて一斉に飛び出す。
俺はシャベルを握りながら走った。死体から奪い取った小銃を奪って、銃弾の雨の中走るしかなかった。隣で誰かが撃たれて倒れても次の者が跨いで突撃して、世界最強の軍隊を血みどろの肉弾戦で押し込んでいった。
そして夕暮れ時。
茜色に染まるナポリの広場から、ついにドイツ兵たちの背中が撤退していくのを見た。
……え、あ、撤退? 撤退してる? ドイツ軍が?
泥に塗れた石畳には、奴らの落とした軍旗が踏みにじられてて……そっか、そうなんだ。俺たちは自らの手で、街の一角を奪還した?!
──ワッッ!! と歓声が上がった。
俺は耐えきれなくて近くにいたお姉さん(母親と同年代だな間違いない)と思いきってハグしていた。そうするしかなかった! だって、ほら、ほら!! ドイツ軍の背中が見えるから!
誰もが泥と血にまみれながら、武器を天に掲げて抱き合った。地下室から持ち出した安ワインをラッパ飲みしたり、涙を流しながらナポリの歌を歌った。
「俺たちの街を取り戻したぞ!」
「勝てる! 俺たちはドイツ軍に勝てるんだ!」
肩を組み合い笑い合う俺たちの胸には、確かな『希望』が燃えていた。この勢いのまま明日にはナポリから完全に奴らを追い出せるかもしれない。
俺たちはそう信じて疑わなかった。この第一日目の夜、俺たちは誇りを取り戻した勝利の美酒に酔いしれていた。
◇
【ナポリの四日間:第二日目】
だが、翌朝。
ドイツ軍が本気で牙を剥いた瞬間、俺たちの抱いた希望は無残にも粉々に打ち砕かれた。
「動くな! 武器を捨てろ、薄汚い裏切り者ども!」
ドイツ語の怒号と鼓膜を劈くような連続した銃声。
手製のバリケードなんて重機関銃の前には紙切れ同然だった。俺は石造りの冷たい壁を背にして、息を殺して震えていた。隣に隠れているパン屋の親父も、血まみれの頭を押さえてガタガタと歯の根を鳴らしている。
路地の向こうから軍靴の足音が近づいてくる。黒光りする機関銃の銃口が、容赦なく俺たちの隠れる路地を舐めるように向いていた。
万事休すってやつかも。飛び出せばハチの巣になるし、このまま隠れていても数秒後には見つかって殺される。
だが俺たちが本当に「絶望」を知ったのは、銃口を突きつけられたことではなかった。
地響きのような重たいエンジン音と共に、路地の入り口を塞ぐように巨大な装甲車が乗り入れてきた。
その上に、ソイツは立っていた。
「……あ、あぁ……」
パン屋の親父が、シャベルを取り落としてへたり込む。俺も同じだった。アレはもはや人間の枠を超えている。
──それはまるで竜の子だった。
頭から生えた禍々しい黒い角。軍服の袖を肘まで捲り上げた両腕からは黒く硬質な鱗にびっしりと覆われている。長い黒髪を一つにまとめ、そこから見下ろしてくるのは、ひび割れたガラスのような黒と白のオッドアイだった。
能力階級『Ⅸ』ドイツ軍がナポリの暴動をたった一日で徹底的に捻り潰すために送り込んできた、絶対的なバケモノ。装甲車の上から無表情で街を見下ろす能力者──《ペネロペ・コスタ》の姿を見た瞬間、俺たちは悟った。
ナポリは終わる。俺たちは今日、誰一人として生きてこの壁の裏から出ることはできないのだと。
◇
【ナポリの四日間:第二日目】
【ペネロペ・コスタ視点】
ナポリの空は煙のにおいがした。
私が立つ装甲車の足元には無惨な光景が広がっていた。石造りの美しい街並みは砲火で削り取られ、通りにはタンスやベッドで作られた粗末なバリケードの残骸が散乱している。瓦礫の隙間にうずくまっているのは、私がかつて暮らしていたナポリの市民たちだった。
血を流して震えるパン屋の店主。泣き叫ぶ子供を庇うように抱きしめる母親。昨日から決死の抵抗を続けていた彼らは完全に追い詰められ、石造りの壁を背にして死を待つばかりとなっていた。
とあるドイツ兵が私を見上げる。
「少佐殿。いつでも掃討可能です」
私の横で冷たい金属質な声が響く。
ドイツ軍の親衛隊将校が虫ケラでも見るような目で市民たちを見下ろしている。彼の背後には重機関銃を構えた数十名のドイツ兵が整列していて、今にも引き金を引かんと殺気を放っていた。
私は無言のまま、自分の両腕を見下ろした。
黒くて、硬くて、鱗にびっしりと覆われた腕。頭から生えているのは禍々しい黒い角。とある家の窓ガラスに映る私は何度見ても人間とは言えない姿をしていた。
その胸元に輝くのは能力階級『Ⅸ』の鉄十字。ただ人を殺し、蹂躙し、恐怖で支配するためだけにドイツ軍が私に与えた呪いの階級。
胸元で冷たく光る少佐の階級章を見つめながら、私はパリの空を思い出していた。
あの日、私は軍を脱走した親友を見逃した。見逃さなかったら私は私ではなくなるから。
幼い頃、シェルとはいつか戦争が終わったら、二人で小さなお店でも開こうねと約束してた。今はお店屋さんよりも誰かと結婚して普通に暮らしたいかな、でもね、離れててもいいからねシェルとはずっと友達でありたいの。ごめん嘘ついた、一緒にナポリに住め。美味しいピザと安いワインを飲みながら私と住め。私の子供に名前をつけろ。
シェル、私はね、あの日あなたを見逃したことを一度も後悔していない。その後何故か《アイギス》と戦って無事に疑いが晴れたからいいけれど、けれど、あなたのいないこの息苦しい軍服の中で、私はずっと自分の生きる意味を探していた。
私は何のために、このバケモノのからだを持っているのか、と。
眼下で一人のナポリ市民と目がバチンと合う。
泥だらけのシャベルを握った男だ。彼の瞳には私に対する恐怖と強大な暴力に対する諦めが浮かんでいた。彼らにとって、私は自分たちを殺しに来た『絶望』そのものだろう。
違う。私は、絶望を運ぶために生まれてきたんじゃない。
「撃て!」
ドイツ将校が右手を振り下ろした。兵士たちの指が機関銃の引き金に掛かる。女たちの悲鳴が小さく上がった。
「──待て」
私の声はひどく静かだった。周囲の空気を凍らせるような絶対的な響きを持っていて、私も驚きながら振り向いた将校と目があった。
「コスタ少佐? 何を……」
私は将校の言葉を無視して、ゆっくりと首元に手を伸ばした。堅苦しい軍服の第一ボタンを外す。続いて第二ボタン、第三ボタン。布の擦れる音が異様に静まり返った路地に響き渡る。
「少佐……? 貴様、何をしている?」
将校の声に焦り、困惑、少しの下心混ざりの視線が混じる。
私は視線を背後へと向けた。そこには、私の直属の部下として配属されている十数名の兵士たちが立っている。彼らは皆、ドイツ軍の中に組み込まれた『イタリア人』の能力者や一般兵だった。
昨夜、私は彼らにだけ密かに告げていた。『明日、私たちは死ぬかもしれない。だが、犬として死ぬか、誇り高き人間として死ぬかは選べる。私に続く覚悟がある者には背中を任せる』と。
部下たちの目を見た。誰一人として怯えている者はいなかった。彼らの瞳には押し殺してきた静かな怒りの炎が燃えていた。
私は深く息を吸い込み、忌まわしいドイツの軍服を両手で掴み。
──一気に脱ぎ捨てた。
そう、上半身を下着だけにしてあげた!
バサリと黒い軍服が足元に落ちる。
「なっ……!?」
将校が後ずさる。同時に、私の背後にいたイタリア人の部下たちが一糸乱れぬ動きで自らの軍服を脱ぎ捨てた。階級章も、鉄十字も、すべて泥の上に吐き捨てるように投げ捨てる。
そして、彼らが構えていた小銃の銃口が、一斉に私達『ドイツ兵』へと向けられた。
「き、貴様ら、狂ったか! これは国家への反逆だぞ!!」
将校が顔を真っ赤にして絶叫した。
私は黒と白のオッドアイを細め告げる。
「反逆? そんなつまらないこと私がすると思ってる?」
太く長い黒竜の尻尾がゆっくりと揺れ動く。
「これは『ナポリの聖戦』よ」
刹那、私は装甲車の上から跳躍した。
人間の限界を遥かに超えた速度。黒い鱗に覆われた右腕が空気を叩き割り、悲鳴を上げる間もなく、将校と重機関銃を構えていたドイツ兵数名を一撃で路地の壁へと吹き飛ばした。
──ドッッ!! と轟音。土煙が舞い上がり、石造りの壁が蜘蛛の巣のように砕け散る。
パニックに陥ったドイツ軍から一斉射撃が開始。
「撃てぇええ!! 裏切り者どもを皆殺しにしろ!!」
私は飛んできた弾丸を目視で掴み、掌の中でキュルキュル動くそれを投げかえしてあげた。ヒュン! と風をきりとある兵士の固めを潰す。
鉛の弾丸など私の鱗には傷一つつけられない。私は両腕を交差させて弾雨を弾き落としながら、さらに前線へと踏み込んでいく。背後からは、私の決意に呼応した同胞のイタリア人兵士たちが、祖国を蹂躙した者たちへ向けて怒りの銃弾を撃ち放った。
そんな信じられない光景を。
壁際に追い詰められていたナポリの市民たちは、ただ呆然と見上げていた。自分たちを殺しに来たはずの階級『Ⅸ』のバケモノが。絶対的な恐怖の象徴であったはずの黒角の少女が。たった今、ドイツの軍服を泥に捨て、自らの巨大な背中を盾にして、雨のように降り注ぐ銃弾から市民を庇っている。
シャベルを握っていた男が、震える声で呟いた。
「あ、あの人は……」
私は背後にいるナポリの同胞たちへ向けて、そして私自身の魂に向けて、腹の底から叫んだ。
「立ち上がれ、ナポリの誇り高き民よ!!」
黒竜の咆哮のようなその声は絶望に沈んでいた街全体を震わせた。
「我々は今日から、ドイツの犬ではない! イタリア人として戦う!!」
その瞬間。
恐怖と絶望で凍りついていた市民たちの目に、信じられないほどの熱が灯った。
シャベルを握った男が立ち上がった。血まみれのパン屋が立ち上がった。隠れていた若者たちが、女たちが、次々と瓦礫の影から立ち上がり、手作りの火炎瓶や石ころを握りしめて前に出た。
──それは、歴史が動いた瞬間だった。
最強の「盾」を得たナポリ市民の絶望が、炎のような勇気と怒りに変わっていく。街のあちこちから地鳴りのような怒号が上がり、武装蜂起の波がドイツ軍へと押し寄せていく。
私は黒竜の尻尾を振り据えながら、押し寄せる同胞たちの熱気の中で薄く笑った。
ねえ、シェル。私ね、今スッゴく生きてるって感じがするの!!
私は血に塗れた右腕を振り上げ、世界最強の軍隊の喉笛へ噛みついた。
◇
【ナポリの四日間:第四日目 ── 真の覚醒】
九月三十日、朝。
四日間に及んだナポリ市民の武装蜂起は、ついに限界を迎えようとしていた。
《ペネロペ・コスタ》は瓦礫の山に背を預けながら荒い息を吐いた。階級『Ⅸ』の力である黒い鱗の腕は銃弾を弾き返すが、人間の皮膚のままの肩や太ももには無数の掠り傷が刻まれ、赤黒い血が止めどなく流れている。
二日目に彼女が軍服を脱ぎ捨ててから、ナポリ市民の怒りと勇気は爆発した。シャベルや鉄パイプ、奪った小銃を手にした彼らは、ペネロペという最強の盾とともにドイツ軍の歩兵部隊を次々と押し返した。
だが、世界最強の軍隊がいつまでも市民の暴動に後れを取るはずがなかった。
ドイツ軍上層部はペネロペのイタリアへの寝返りに、ついに本気でナポリを地図から消し去る決断を下したのだ。最強クラスの能力者相手に歩兵では足りるわけがない。
地鳴りがした。
路地の向こう、石畳を砕きながら現れたのは歩兵部隊ではない。厚さ百ミリを超える傾斜装甲、絶望的な破壊力を誇る八十八ミリ砲。ドイツ軍が誇る最強の陸戦兵器、重戦車『ティーガー』を先頭にした戦車部隊だった。
一台、二台、三台……。キャタピラの軋む音が、ナポリの美しい街並みを踏みにじりながら迫ってくる。
瓶を持つとある市民が叫ぶ。
「……ッ、戦車だ! 奴ら、戦車を出してきやがった!!」
火炎瓶程度でどうにかなる相手ではない。小銃の弾なんて、あの分厚い鋼鉄の塊の前では小石を投げているのと同じだった。
──ズゥォン!!
鼓膜が破れんばかりの轟音とともに、先頭のティーガーが主砲を放った。市民たちが隠れていた石造りの時計塔が、たった一撃で根本から吹き飛び巨大な瓦礫となって崩れ落ちる。悲鳴。土煙。吹き飛ばされた市民たちの血しぶきが、ペネロペの頬に飛んだ。
「やめ……ッ!!」
ペネロペは叫び黒い鱗の腕を交差させて戦車の前に躍り出た。だが、歩兵の銃弾なら弾けても、戦車の主砲は防げない。重機関銃の掃射がペネロペの足元を抉り、彼女はたまらず膝をついた。
戦車のキューポラから身を乗り出したドイツ軍の指揮官が、冷酷な目でペネロペを見下ろした。
「少佐。いや、裏切り者のバケモノめ」
砲塔が、ゆっくりと旋回する。その巨大で黒い銃口が、ペネロペの顔を、そして彼女の背後で恐怖に震えながら抱き合うナポリの女や子供たちを捉えた。
──ああ、守りきれない。あんな砲弾で生き残れるのは私だけ、いや、私ですら両腕が吹き飛ぶかもしれない。
ペネロペは絶望の中で唇を噛み破った。
階級『Ⅸ』の力でも鋼鉄の群れから背後のすべてを守り切ることは、残酷なことにそこまではできない。私が死ねば、彼らも死ぬ。ナポリは火の海になる。
この理不尽な暴力の前に、何もかもが潰えようとしている。
なんで、なんでかな。どうして私にはこんな呪われた力が与えられたのだろう。黒く禍々しい角。鱗に覆われた醜い腕。ドイツ軍は私を『悪魔』と呼んだ。私を人を殺すための道具だと教え込んだ。
──違う……ッ!
ペネロペの心の中で何かがひび割れていく。
違う。この力は人を殺すためのものじゃない。人を殺す暴力なんかじゃない。最低で理不尽な暴力から、愛するヒトたちを、無力な人々を、私の手で『守る』ためにこそ存在する絶対的な力だ。
その悲壮な祈りと怒りが臨界点を突破した瞬間──。
ペネロペの脳裏に、かつての世界の記憶がフラッシュバックした。
【北欧神話において世界樹ユグドラシルの根を噛み砕く最凶の悪竜。毒を吐き、死者の肉を喰らい、あらゆる物理法則を無視する絶望の権化】
その真の名は、黒竜『ニーズヘッグ』。
「……アァ、アアアァァァァァァァァッッ!!!!」
ペネロペの口から、人間のものとは思えない凄まじい絶叫が迸った。
「撃てぇッ!!」
指揮官の号令とともに、ティーガーの八十八ミリ砲が火を噴いた。必殺の徹甲弾がペネロペの細い身体を容赦なく捉え──直撃。凄まじい爆発が起こり、黒煙が路地全体を覆い尽くした。
「……終わったな。進軍しろ」
指揮官が冷笑を浮かべた、その時だった。
「──ギィィ、ルゥゥゥアアアアアアッッ!!!!」
爆煙の中から空気を引き裂くような異形の咆哮が轟いた。大気が震え戦車の重厚な装甲がビリビリと共鳴する。風が吹き荒れ、煙が晴れたそこに立っていたのは《ペネロペ・コスタ》という人間の少女ではなかった。
全長二十メートルに迫る、漆黒の巨躯。
夜の闇を固めたような硬質な黒鱗、背中からは巨大なコウモリのような翼が伸び、鋭い棘の生えた太い尾が石畳を砕いていた。
だが、その姿は奇妙だった。
後ろ足が存在せず、極端に発達した恐ろしいほど巨大な「前足」だけで巨大な上半身を支え、地を這うような独特の骨格をしている。
前足だけの巨大な悪竜。それは、神話の底から這い出してきた完全なる『ニーズヘッグ』の姿そのものだった。
巨大な顎が裂け内側から燃えるような赤い光が漏れ出す。八十八ミリ砲の直撃を受けたはずの胸元の鱗には、傷一つ、焦げ跡一つ、何もついていなかった。
「な……ば、バケモノ……!? 」
指揮官の顔面から血の気が引いた。
黒竜のオッドアイが、爛々と輝きながらドイツ戦車部隊を睨み下ろした。
その瞬間、黒竜は圧倒的な質量を伴って跳躍。
──ドォォォォンッ!!
数十トンの重量を持つ黒竜が先頭のティーガー戦車の上にのしかかる。分厚い傾斜装甲が、まるでブリキのオモチャのようにひしゃげた。
「はッ……! 撃て! 撃てぇ!!」
周囲の戦車や装甲車がパニックに陥り一斉に機関銃や主砲を乱射する。だが、黒竜は炎の息など吐かなかった。ただひたすらに、純粋な『物理的な暴力』をもって蹂躙開始。
極端に発達した右の前足が振り下ろされ、戦車の砲塔が根元からへし折られる。強靭な顎が開き分厚い鋼鉄の砲身に噛みつくと、バリバリ、バリバリ、とまるで飴玉でも砕くように噛み砕いてしまったのだ。
「あ、あああ……悪魔だ……悪魔だぁぁッ!!」
戦車を噛み砕かれたドイツ兵たちが狂乱しながらハッチから飛び出し、逃げ惑う。黒竜は巨大な尾を一振りして装甲車を吹き飛ばし、迫り来る兵士たちを前足で紙屑のように薙ぎ払っていく。こんなものもはや戦闘ではない。一方的な蹂躙であり、ただの竜の食事だった。世界最強の陸戦兵器たちが、たった一頭のドラゴンの前で完全にスクラップへと変えられていく。
その圧倒的な地獄絵図を、背後にいたナポリ市民たちはただ見上げていた。完全なるバケモノの姿。理性を失い、破壊の限りを尽くす恐ろしい悪竜。
だが、市民の誰一人として、その姿を見て逃げ出す者はいなかった。
彼らは知っていたからだ。あの恐ろしい黒竜が、自分たちに背を向け、一歩たりとも後ろへ下がろうとしない理由を。あんなにも恐ろしい姿になってまで自分たちを守ろうとしている不器用で優しい少女の魂を。
「……行け」
血まみれのシャベルを握った男が、涙で顔をくしゃくしゃにしながら叫んだ。
「殺れえぇぇぇえ!! 俺たちの守護竜ぅぅぅぅッ!!」
市民たちの熱狂的な叫びが、ナポリの空に響き渡った。
黒竜ニーズヘッグは、背後からの声援に答えるように一度だけ天に向かって長大な咆哮を上げると、残されたドイツ軍の群れへと単騎で突撃していく。
◇
【ナポリの四日間:第四日目夕方 ── 自由の女神】
一九四三年九月三十日、夕暮れ。
ナポリの空は燃えるような茜色に染まっていた。
広場を埋め尽くしていた世界最強の戦車部隊は、もはや見る影もない。
砲身はねじ曲がり、分厚い装甲は紙切れのように引き裂かれ、黒煙を上げて燃え上がっている。生き残ったドイツ兵たちは完全に戦意を喪失、武器を放り出してナポリの街から逃げ去っていった。
連合軍の到着を待つまでもない。ナポリの市民は自分たちの力だけで、この街を完全に解放したのだ。
その激戦の爪痕が残る広場の中央で、地を這う巨大な悪竜ニーズヘッグが、天を仰いで長く、美しい、竜の咆哮を上げた。
これが戦いの終わりの合図だった。
咆哮が空に溶けていくと同時に、二十メートルを超える漆黒の巨躯が、陽炎のように揺らぎ始めた。黒い鱗が、巨大な牙が、まるで燃え尽きた灰のようにボロボロと崩れ落ち、夕暮れの風に乗って散っていく。
黒い靄が晴れた後。そこに残されていたのは、一人の人間の少女だった。
ペネロペは限界を超えた力を使い果たし、崩れ落ちるように石畳の上に膝をついた。竜への完全なる変身によって着ていた軍服も下着もすべて失われ、煤と泥に汚れた彼女の白い肌が、夕陽の光の下に露わになっている。
だが、彼女は完全な人間に戻ったわけではなかった。
頭には誇り高き『黒竜の角』が。そして背中からは長く美しい『黒竜の尻尾』が残されたまま、ゆっくりと揺れていた。
静寂に包まれた広場で。ペネロペはふらつく足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の視線の先、血濡れた石畳の上には、逃げ去ったドイツ軍が落としていった忌まわしい鉤十字の旗が落ちていた。先ほどの戦闘で黒竜の爪に引き裂かれズタズタになった支配の象徴。ペネロペは無言のまま手を伸ばし、その旗の『黒い布の部分』だけを拾い上げた。それを自らの胸と腰に巻き付け、剥き出しの素肌を隠していく。かつて自分を縛り付けていた呪いの象徴を自らの力で引き裂き、ただの布切れとして纏う。それは彼女自身の《魂》の完全な解放を意味していた。
ふと、ペネロペは瓦礫の山の上に目を向ける。
破壊された時計塔の残骸。その頂に一本の旗竿が突き刺さっていた。激戦の中で誰かが守り抜き、誰かが遺した、緑と白と赤の三色旗。
ペネロペは角と尻尾を夕風に揺らしながら、瓦礫の山を登っていった。そして頂上に立つと、右手でその旗竿を力強く握りしめ、茜色の空へ向かって高らかに掲げた。
風が吹き抜け、イタリアの国旗が誇り高くはためいた。
その瞬間、広場に集まっていた数千人のナポリ市民たちは、息を呑んでその光景を見上げた。瓦礫の山の頂に立ち、引き裂かれた黒布を纏い、三色旗を掲げる角の生えた少女。それはまるで『民衆を導く自由の女神』の革命の熱と『ヴィーナスの誕生』の神聖なる美しさが、奇跡のように融合した姿だった。
血と泥にまみれた戦場に現れた、圧倒的で、絵画的な美。
「あぁ……」
シャベルを握っていた男が、その場に膝から崩れ落ちた。彼だけではない。広場にいたすべての市民たちが、武器を捨て瓦礫の上に立つ彼女を見上げて次々と膝をついていく。
もはや誰も、彼女をバケモノとは呼ばなかった。そこにあるのは恐怖ではない。底知れぬ感謝と、神聖なものを見るような深い敬威だった。
「イタリア、万歳……」
誰かが、泣き咽ぶような声で呟いた。それがさざ波のように広がり、やがて大合唱となる。
「イタリア! ナポリ万歳!」
「女神だ……俺たちを導いてくれた、自由の女神だ……ッ!」
歓喜の叫びと嗚咽。男たちも女たちも、子供たちも、互いに抱き合いながら涙を流し、頂に立つペネロペに向かって手を伸ばした。
ナポリの空から、ついに鉤十字の旗が完全に消え去った瞬間だった。




