【第十二話 バイロン大佐の下で】
アーサーの『死』から数週間。
私は正式にエドワード・バイロン大佐の直轄部隊に配属され、ロンドン郊外にある広大な基地で日々を過ごしていた。元々はどこかの貴族の館だったというその石造りの立派な洋館は今や迷彩網が張られ、慌ただしく軍靴の音が響く前線司令部の一つとして機能している。
ここでの生活はアーサーとの『日帰りスパイ旅行』に比べれば驚くほど規則正しく、そして平和だった。
朝は肌寒い霧の中で起床ラッパを聞き、整列と点呼。
午前中は泥だらけになりながらの射撃訓練や体力練成。
午後は山のように積まれた暗号文書の整理や、配給切符の計算といった終わりの見えない事務作業をこなす。
夕方になると、毎日毎日、敷地の裏手にある立派な馬小屋で馬の世話をします。
大佐の部隊は良くも悪くも彼自身の性格を反映していた。規律は厳格で、軍服の乱れや書類の些細なミス一つ許されない。息が詰まりそうになることもあるが、同時に『今日死ぬかもしれない』という戦場の重圧とは無縁の、確かな生活の匂いがここにはあった。
ある日。
干し草の匂いが漂う薄暗い馬小屋で、私は今日もボロ(馬糞)の掃除とブラッシングに精を出していた。
そこへふらりとエドワード本人が馬小屋へやってくる。
彼は上着を脱ぎ軍服の袖を捲り上げると、慣れた手つきで愛馬の毛並みを整え始めた。立派な黒い馬だ。その馬はとっても賢いお馬さんで、エドワード以外でも、初対面の私が相手でも大人しく撫でさせてくれる心の広い馬だった。
これはエドワードが話していたことですが。
ある日、パブで泥酔したアーサーを背中に、この基地まで一匹で帰ってきたのがこのお馬さん。エドワードは夜中にヒーンヒーンと声がしていたので行ってみれば……愛馬の上で眠るアーサーが乗っていたそうで、その場で引きずり下ろし放置したらしいです。
そういえば黒馬の名前はなんだろう。
私はエドワードに聞いた。
「バイロン大佐、この黒馬のお名前は?」
「馬」
私は目を泳がせる。
「えっと……それは人間に対して『人間』と呼ぶようなものでは? お名前はつけていないのですか?」
「つけようとは思ったが」
彼は馬を撫でながら、馬のふにふになお鼻を指先でプニッと押す。
「どれもこれもしっくりこないし、乗りたい馬はこの黒馬ではないんだ」
「どういう意味ですか?」
「さぁな」
普段、エドワードは丁寧で的確な指示をしてくださるお方だった。
しかし何故だか馬に関する話だけはうまく掴めず曖昧で、なにかをはぐらかされている感じがした。……いや違うな。本人でも感覚の話だからうまく表現できないのだろう。
「ザウェク大尉、今日は残りは俺がやる。先に宿舎へ戻れ」
「はッ!」
私は敬礼してから馬小屋を後にした。
その日の夕飯時。
私は食堂の固い木の椅子に座り、味気ないオートミールの粥を黙々と口に運んでいた。
向かいの席には配属されてから親しくなった同年代の女性軍人が座っている。私達は少ない配給食を誤魔化すように、他愛のない世間話で時間を潰していた。
そんなとき、私はふと気になっていたことを彼女に尋ねた。
「バイロン大佐のご家族って、今どこにいらっしゃるんですか?」
彼女はスプーンを持った手を止め、一切の躊躇なく、しかし声を少しだけ落として教えてくれた。
「……ロンドン空襲で、奥様と二人の息子さんを亡くされています。大佐ご本人はご自分の過去を一切語ろうとしないから、最近入った人はなにもわかりませんよね」
ああ、やっぱり。エドワードもまた戦火で全てを失った方だった。
彼女は周囲を見渡す。誰にも聞かれないように身を乗り出して、その当時の痛ましい出来事を詳しく教えてくれた。
家族の死を知った日、エドワードはフェイビアンの胸ぐらを掴み『未来が視えるお前が、どうして教えてくれなかったんだ!』と怒り狂ったそうだ。
その時、エドワードから無意識に漏れ出した炎がフェイビアンの首元を激しく焼き焦がした。それほどの怒りと絶望だったのだろう。しかし、何故かフェイビアンの重度の火傷は翌日には跡形もなく治っていたらしいが。
「エイムズ大佐曰く『避けられない未来だったから、あえて伝えなかった』と。だから余計に、バイロン大佐は許せなかったのでしょうね」
あぁ……フェイビアンは未来が完璧に視えてしまうからこそ、運命に対して達観しすぎてしまっているのかもしれない。伝えても結果は変わらないとわかっていたから、彼はあえて黙っていた? 避けられない悲劇だと諦めていた? 真意はフェイビアンにしかわからない。
なんにせよこれは全て過去の話。もう既に終わってしまった惨劇だ。
彼等の心に落ちた暗い影を思うと、味気ないはずのオートミールがさらに砂のようにパサついて感じられた。
しかし、彼女はふっと雰囲気を変えて、小さく肩をすくめた。
「でも、あのお二人は一ヶ月後には、揃ってロンドン市内のカフェに行ってニンジンケーキを食べていたらしいですよ?」
「えぇ?? どういう心情で食べたんですかケーキを」
「男の友情ってよくわかりませんよね。ああ、それはそうと、バイロン大佐はかなりの甘党なので、もし大佐が『角砂糖』をそのまま齧っているのを見かけたら、絶対に奪い取ってください」
「そういえば、定期的に角砂糖をそのままボリボリと齧っているような……」
「奪ってください」
二回も言われた。
彼女は戦地に赴く兵士のような、この上なく真剣な表情で私の目を見つめる。
「我が部隊に支給された貴重な配給の角砂糖が全てバイロン大佐一人の胃袋へ消えていくなんて、それだけは断固として阻止せねばなりません。この隊の全員で誓っております」
「わかりました。共に阻止しましょう」
私は固く頷き、彼女と見えない敬礼を交わした。
まさか、あの隙一つない厳格なお方が、配給の角砂糖をネズミのように食い尽くす勢いで齧っていたなんて。
アーサーといいエドワードといい、どうして《アイギス》と呼ばれる最強の男たちはこうもどこか間の抜けた一面を持っているのだろうか。




