7
カイウス様は私の反論をあっさりと跳ね除けると、強引に私の手首を掴んで椅子から立ち上がらせた。
長時間の座り仕事で感覚が麻痺していた私の足は、急に立ち上がったことでバランスを崩し、ガクリと膝をつきそうになった。
「きゃっ……!?」
倒れそうになった私の体を、強い腕がしっかりと抱き止めた。
ドクン、と胸が跳ね上がる。
私の顔のすぐ近くに、カイウス様の胸元があった。仕立ての良いシャツ越しに、彼の温かい体温と、力強い心臓の鼓動が伝わってくる。微かに香るのは、上質な木々と冷たい雨のような、彼固有の清潔な香りだ。
「……大丈夫か?」
頭上から低く降ってくる声。
見上げると、間近にある翡翠色の瞳が、驚くほど深い心配の色を湛えて私を見つめていた。
「は、はい……すみません、足が痺れてしまって……」
慌てて離れようとしたが、腰に回された彼の腕は固く、びくともしない。
「君は、努力家なのは結構だが、自分の体を粗末にしすぎる」
カイウス様は静かな怒りを孕んだ声で言った。
「私がここに来てから、君がまともに睡眠をとっているのを見たことがない。目の下には隈ができ、指先は荒れ、今にも倒れそうだ。……当主代理が倒れては、元も子もないだろう」
「……申し訳、ありません。でも、私には時間がないのです。両親が残してくれたこの家を、領民の暮らしを、一刻も早く安心できる状態にしたいから……」
私の声が、疲労のせいか微かに震えた。
フェリクスに見捨てられ、絶望の淵に立たされたあの夜から、私はずっと緊張の糸を張り詰めたまま走り続けてきたのだ。弱音を吐けば、すべてが瓦解してしまう気がして。
カイウス様は、私の言葉を静かに聞いていた。
やがて、彼はふっと息を吐くと、抱きかかえたままの体制で、私を執務室のソファへと優しく腰掛けさせた。
そして、信じられないことに。
王国最高位の公爵である男が、私の前に片膝をつき、私の汚れた手をとったのだ。
「カイウス……様……?」
彼はポケットから小さな陶器の小瓶を取り出した。蓋を開けると、甘いハーブの香りが広がる。
「最高級の馬油と銀嶺草の抽出液を混ぜた軟膏だ。怪我や皮膚の荒れに効果がある」
カイウス様は、自分の大きな手で私の小さな手を包み込み、指先の一つ一つに丁寧に軟膏を塗り込み始めた。
インクで汚れ、爪が短く切り揃えられた、決して令嬢らしくない私の手。
かつてフェリクスが「色気も可愛げもない」と蔑んだこの手を、カイウス様はまるで壊れ物でも扱うかのように、優しく、愛おしそうになぞっていく。
「こんな……公爵閣下に、このようなことをさせるわけには……!」
「動くな」
彼の手が、私の手首を優しく押さえた。
「君の手は、美しい」
カイウス様は、私の目を見つめながら、まっすぐにそう言った。
「この手は、見栄や贅沢のために飾られた手ではない。自分の家族を守り、領民の命を繋ぎ、未来を切り拓くために戦ってきた名誉の手だ。……どんな宝石で飾られた令嬢の手よりも、私には尊く見える」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
涙が、溢れそうになる。
ずっと、誰かに言ってほしかった言葉だったのかもしれない。
誰も見てくれていないと思っていた。仕事ばかりして、可愛げをなくし、女としての価値を失っていくのだと、どこかで自分を責めていたのかもしれない。
それを、この人はすべて見ていてくれた。肯定してくれたのだ。
「……あ……」
私の目から、ぽろりと一筋の涙が零れ落ちた。
一度溢れ出た涙は止まらず、次から次へと頬を伝っていく。
「私……私、ずっと……怖かったんです。両親がいなくなって……失敗したらどうしようって……ルーカスを路頭に迷わせたらどうしようって……っ」
子どものように泣きじゃくる私を、カイウス様は驚く風もなく、静かに引き寄せてその胸の中に抱きしめてくれた。
彼の温かい腕が、背中を優しく撫でる。
「……よく頑張ったな、レティシア」
耳元で囁かれる言葉は、氷のように冷たかったはずの男のものとは思えないほど、甘く、温かかった。
「もう一人で背負う必要はない。これからは私がいる。君の盾となり、剣となり、この領地を、君の未来を共に守ると約束しよう」
私は彼のシャツの胸元にしがみつき、声を殺して泣いた。
窓の外では、双子の月が静かに二人を照らしている。
冷え切っていた私の心に、確かな灯火が灯った夜だった。
◈
翌朝。
私が目を覚ますと、そこは執務室のソファの上だった。
体に温かいカシミヤのブランケットがかけられており、テーブルの上には見慣れない美しい文字で書かれた書類が整然と置かれていた。
私が昨日まで徹夜で仕上げようとしていた、薬師ギルドへの提案書だ。
すべての計算が完了し、完璧なフォーマットで書き上げられている。最後の署名欄以外は、完璧に完成していた。
「……カイウス様が、書いてくださったの……?」
驚きと感動で書類を見つめていると、執務室の扉が開き、アンドレアスが青ざめた顔で跳び込んできた。
「お、お嬢様! 大変です! 王都から急報が届きました!」
「アンドレアス? どうしたの、そんなに慌てて」
「コルネリウス商会が……! コルネリウス商会が、王立監査院の強制捜査を受け、業務停止命令が出されました!」
「え……!?」
あまりの展開の速さに、私は息を呑んだ。
「さらに、フェリクス様は『貴族家に対する恐喝および不正取引の教唆』の容疑で、王都の憲兵隊に拘束されたとのことです! 商会全体が破産寸前の危機に陥り、フェリクス様のお父様である商会長は、当主代理への謝罪と賠償金の支払いを申し出ておられます……!」
自業自得、という言葉しか浮かばなかった。
私を追い詰め、見下し、プライドを満たすために権力を悪用しようとした男の、哀れな末路。逃がした魚が大きかったと後悔する間もなく、彼は自らが掘った穴に落ちてしまったのだ。
「……自業自得ね」
私は小さく呟き、手元の完璧な提案書に視線を落とした。
過去の因縁は、これで完全に清算された。もう、振り返る理由はどこにもない。
「当主代理、おはよう」
廊下から、足音が近づいてくる。
そこに立っていたのは、朝の光を浴びて神々しいほどの美しさを放つカイウス様だった。
彼は私を見ると、ごく自然に歩み寄り、私の手をとってその甲に軽く唇を寄せた。
「……っ!?」
突然の親密な仕草に、私の顔が爆発したように熱くなる。アンドレアスが「ほほう」と感心したように目を細めているのが見えて、余計に恥ずかしい。
「か、カイウス様!? 何を……!」
「朝の挨拶だ。王都の社交界では一般的だが?」
「嘘をつかないでください! そんな挨拶、恋人同士でしか……!」
「ほう。では、私たちは恋人同士ということでいいのだな?」
カイウス様は、意地悪そうに唇の端を吊り上げ、魅惑的な笑みを浮かべた。
冷徹な『氷結の処刑人』の面影など、どこにもない。
「~っ! あなたという人は……!」
私が真っ赤になって抗議すると、カイウス様は声を上げて可笑しそうに笑った。彼の朗らかな笑い声を、私は初めて聞いた。
「冗談だ。……だが、本気でもある。……レティシア、提案書は完成させた。今日、私と共に王都へ向かおう。薬師ギルドとの大口契約を直接結ぶため、そして……君を私の正式な婚約者として、国王陛下にご謁見させるために」
「え……? こ、婚約者!?」
耳を疑うような言葉に、私の思考が完全に停止した。
「当然だろう。君ほどの逸材を、他の男に奪われるわけにはいかない。……断る権利は君にはないぞ。命令だ」
威張ったように言い放つカイウス様。
だが、その翡翠色の瞳には、溢れんばかりの愛おしさと、私からの答えを待つ微かな不安が揺れていた。
またしても強引な「命令だ」。
けれど、今の私には、その言葉がどんな甘い愛の囁きよりも心地よく響いていた。
私は深呼吸をし、頬の熱さを抑えながら、一生で一番美しい微笑みを彼に向けた。
「……はい、カイウス様。謹んで、その命令にお従いいたします」
不器用で、けれどどこまでも真っ直ぐな騎士と紡ぐ、新しい物語。
私の本当の幸せは、この最高のパートナーとともに、いま力強く走り出したのだ。




