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朝の澄んだ空気が、古びた館の廊下を通り抜けていく。
昨夜の騒動が嘘のように、ヴァレリウス男爵家の朝は静かに始まっていた。……ただ一つ、食卓の光景を除いては。
「右手のフォークの角度が浅い。それでは肉の肉汁が衣の間に逃げてしまうぞ、ルーカス」
「は、はいっ! シルヴィウス閣下!」
「食事中の緊張は消化に悪い。だが、背筋を伸ばすのは貴族としての嗜みというより、姿勢を正すことで呼吸を深くし、脳に十分な酸素を送り込むためだ。……ほら、一口で食べずにナイフで三等分にしなさい」
「はいっ! ……あっ、綺麗に切れました!」
「うむ。筋が良い」
食卓の端で、私は冷めかけた紅茶のカップを両手で包み込みながら、その光景を呆然と眺めていた。
長年、我が家の質素な食堂には、私とルーカス、そして給仕をするアンドレアスの三人しかいなかった。しかし今、その主席には『氷結の処刑人』と恐れられる王国最高位の公爵、カイウス・アウレリウス・フォン・シルヴィウス閣下が座っている。
彼は昨日までの完璧な軍服風の衣装から、上質なダークグレーのシルクシャツと黒のトラウザーズという、幾分かリラックスした装いに着替えていた。それでもなお、放つ存在感と圧倒的な品格は隠しようもない。
そして驚くべきことに、彼は朝食の時間を丸ごと使い、十歳のルーカスに対して貴族のマナーと領主としての立ち振る舞いを、理路整然と叩き込んでいたのだ。
「公爵閣下……朝早くから、ルーカスの指導までしていただくのは恐縮ですわ」
私が申し訳なさそうに声をかけると、カイウス様は整った顔立ちを崩さず、手元のナプキンで優雅に口元を拭った。
「言ったはずだ、当主代理。家族の教育を放置しない点だけは評価すると。少年は飲み込みが早い。将来、君の優秀な補佐官になるだろう。……それと、二人きりの時や家庭の場では『カイウス』でいい。閣下などと堅苦しい呼び方は好まん」
「えっ……ですが、公爵様に対してそのような呼び捨ては……」
「命令だ。従え」
出た、いつもの強引な「命令だ」。
私は苦笑いを浮かべざるを得なかった。この人は、冷徹な仮面の下に、とんでもなく強引で、そして呆れるほど面倒見の良い素顔を隠している。
「……わかりました、カイウス様」
私がその名を呼ぶと、カイウス様は満足そうにかすかに頷いた。その翡翠色の瞳が、一瞬だけ柔らかく揺れたのを私は見逃さなかった。
◈
朝食が終わると、私たちはすぐに本日の「仕事」に取りかかった。
銀嶺草の人工栽培計画を立ち上げるため、私は領内の腕利きとされる職人や、かつて坑道で働いていた元採掘師たちを屋敷の庭に集めた。
集まったのは、日焼けした肌とゴツゴツした手を持つ、生粋の現場の男たちだ。彼らは突然の呼び出しと、背後に控えめに(しかし圧倒的な圧迫感で)佇むカイウス様の姿に、ガタガタと震えていた。
「皆、集まってくれてありがとう」
私は泥のついた作業着の上にエプロンを羽織り、集まった彼らの前に立った。
「急な呼び出しで驚かせたわね。今日集まってもらったのは、長年放棄されていた『第三坑道』を再開発し、そこで新しい特産品である『銀嶺草』の栽培を始めるためなの」
私の言葉に、職人たちは顔を見合わせ、不安げな声を漏らした。
「当主代理様……お言葉ですが、あの坑道はもう10年もほったらかしでさあ。中に入り込もうにも崩落の危険があるし、だいいち、ただの雑草を育てるために俺たちの手足を貸せって言われても……」
「そうですよ! ヴァレリウス家がお金に困ってるのは知ってますが、そんな無茶な仕事じゃ、俺たちの命がいくつあっても足りません!」
彼らの言い分はもっともだった。
これまで、領主家は彼らに満足な賃金を払えず、危険な仕事を押し付けようとしているように見えてもおかしかっった。
私が彼らの不安を解消するための説明を始めようとした、その時だった。
「……命の保証と、対価の担保ならここにある」
重厚な声とともに、カイウス様が一歩前へ踏み出した。
職人たちがヒッと短い悲鳴を上げて後ろへ下がる。
カイウス様は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、一同に見えるように掲げた。そこには王立監査院と公爵家の金の捺印が鮮やかに押されていた。
「私は王立監査院長、カイウス・アウレリウス・フォン・シルヴィウスだ。本計画は王国の正式な『特定領地再建事業』として指定された。君たちに支払われる日給は、王都の最高水準と同等の銀貨五枚。さらに、作業中の事故に対する補償金として、各家庭に事故保険金を給付する」
庭園がしんと静まり返った。
銀貨五枚といえば、地方の農夫が半月かけて稼ぐ額に相当する。それが、たった一日の日給として提示されたのだ。
「ご、公爵様……! 本当に、本当にそんな大金を……!?」
「私に嘘をつくメリットはない。……だが」
カイウス様は冷徹な眼差しで職人たちを見渡した。
「対価を支払う以上、不真面目な仕事や安全基準を怠る行為は一切許さん。現場の指揮は、完璧な坑道マップを作成し、命懸けで領地を守ろうとしているレティシア当主代理が執る。彼女の指示に従えない者は、今すぐ立ち去れ」
職人たちの視線が一斉に私に注がれた。
驚きと、尊敬と、そして「このお方となら」という強い決意の光が、泥に汚れた男たちの目に宿っていく。
「……当主代理様! 俺たち、やります! あの坑道をもう一度、生き返らせてみせます!」
「俺もです! 亡くなった前当主様には世話になりました。お嬢様がそこまで腹を括ってるなら、俺たちの命、預けます!」
男たちが力強く拳を突き上げた。
私は胸が熱くなり、深く、深く頭を下げた。
「ありがとう、みんな……! よろしくお願いするわ!」
興奮冷めやらぬ職人たちが作業準備のために立ち去った後、私は背後のカイウス様に向き直った。
「カイウス様。……あんな破格の条件を提示してしまって、大丈夫なのですか? 保険金まで……」
「問題ない。王立監査院の『特例再建ファンド』の枠組みを使えば、この程度の金額は鼻薬にもならん。何より……」
カイウス様はフッと目を細め、私の顔をじっと見つめた。
「安すぎる賃金で人間を酷使すれば、必ず手抜きが生まれ、事故につながる。結果として事業の遅延という最大の損失を生むのだ。投資とは、正当な技術と労働に対して惜しみなく行うものだ。……そう教えたのは、君のあの完璧な帳簿だが?」
私が一年間、血の滲むような思いで実践してきた「無駄を削り、現場に報いる」という理念。
それを、この世界で最も権力を持つ男が全面的に肯定し、実行してくれたのだ。
私は目頭が熱くなるのを必死で堪え、小さく微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます、カイウス様」
◈
それからの数日間は、怒涛のような忙しさだった。
昼間は坑道へ赴き、職人たちとともに現場の安全確認と環境整備の陣頭指揮を執る。
カイウス様もまた、公爵という身分でありながら視察を欠かさず、時には自ら魔力計測の魔導具を手に取り、坑道内の温度と湿度、魔素の濃度を精密に測定してくれた。
そして夜になると、私は執務室に籠もり、昼間のデータを元にした収支計算と、王都の薬師ギルドへ提出する書類の作成に追われた。
カリカリ、カリカリ。
静かな夜の執務室に、羊皮紙を滑るペンの音が響く。
時計の針はとうに深夜の二時を回っていた。目の裏が焼き付くように痛く、肩は鉄のように重い。
「ふぅ……あと、これだけ……」
自分を奮い立たせ、次の帳簿を開こうとしたその時、手元からふっと書類が奪われた。
「あ……」
驚いて顔を上げると、いつの間にかカイウス様が私の隣に立っていた。
彼の指先が、私の手から滑り出た羽根ペンを優しく受け止める。
「もうやめろ、レティシア。今夜の作業はここまでだ」
「で、ですがカイウス様。明日までに薬師ギルドへの提案書を仕上げないと、王都への定期便に間に合いません……!」
「定期便なら、私の専属の早馬を使わせる。半日の遅れなど余裕で取り戻せる」




