表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】婚約破棄ですか? どうぞどうぞ。清々したので二度と関わらないでくださいね  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/9

5

言葉の意味を理解した瞬間、私の頬がカッと熱くなった。

褒め言葉など期待していなかった。ただの厳しい監査官だと思っていた男から、そんなストレートな評価を受け取るとは思わなかったのだ。


「……っ、閣下。冷やかしはおやめください」

「冷やかしてなどいない。私は事実しか口にしないと言ったはずだ」


カイウス公爵は表情を変えずにそう言い放つと、ふっと視線を外した。だが、心なしか彼の耳先がかすかに赤くなっているように見えたのは……私の気のせいだろうか。


その時だった。


坑道の入口の方から、バタバタと騒がしい足音が響いてきた。

護衛の騎士の一人が、慌ただしい様子で駆け込んできたのだ。


「カイウス閣下! 申し訳ありません! 屋敷の方に、不審な訪問者が押しかけてまいりました!」

「不審者?」

「はい。『自分は当主代理の正当な婚約者であり、公爵閣下の滞在は騙されている』と主張し、制止を振り切って館へ侵入しようとしております!」


私は思わず額を押さえた。


……フェリクスだ。

返済の凍結命令がコルネリウス商会に届き、慌てて確認にやってきたのだろう。自分の思い通りにいかない焦りとプライドから、なりふり構わず押しかけてきたに違いない。


カイウス公爵の翡翠色の瞳に、冷ややかな蔑みの光が宿った。


「……騒々しい虫が飛び込んできたようだな。レティシア、戻るぞ。……ゴミの清掃の時間だ」


◈◈◈


屋敷の玄関ホールは、緊迫した空気に包まれていた。


「離せ! 僕を誰だと思っているんだ! コルネリウス商会の次男、フェリクスだぞ! レティシア! レティシアを出せ!」


荒々しい怒鳴り声が響き渡る。

そこには、髪を乱し、高級なジャケットの胸元をはだけさせたフェリクスが立ち尽くしていた。彼の前には、必死に立ち塞がるアンドレアスと、不安そうに身を寄せるマーサ、そしてルーカスがいた。


「フェリクス様、どうかお静かに! 当主代理は今、大事なお客様と外出されております!」

「黙れ老いぼれ! 大事な客だと!? 嘘をつくな! レティシアが僕からの返済要求に怯えて、身を隠しているだけだろう! 監査院の凍結命令だって、何かの間違いに決まっている!」


フェリクスは喚き散らしながら、足元にすがりつこうとしたルーカスを邪険に払い除けようとした。


「邪魔だ、ガキ……!」

「ルーカスに触るな!!」


鋭い一喝が、ホール全体に響き渡った。


フェリクスがハッと振り返る。

そこには、泥のついた乗馬服を着た私が、冷徹な怒りを瞳に宿して立っていた。

そして私の隣には、圧倒的な威圧感を放つ、漆黒の衣装を纏ったカイウス公爵が佇んでいた。


「レ、レティシア……!? それに……そのお方は……」


フェリクスの顔から一瞬で血の気が引いた。

王都の社交界に通じている彼が、カイウス・アウレリウス・フォン・シルヴィウス公爵の顔を知らないはずがない。本物の『氷結の処刑人』がそこにいるのだ。


「フェリクス・コルネリウス。我が家でこれ以上暴れるなら、不法侵入と暴行未遂の罪で直ちに捕縛させます」


私は静かに、しかし一歩も引かずに宣言した。


「な、何を言っているんだレティシア! 僕だよ!? 君の婚約者のフェリクスだ! どうして公爵閣下がこんな貧乏屋敷にいるんだ!? 凍結命令なんて、君が閣下を何かで唆したのか!?」


フェリクスは混乱と焦燥で乱乱とした目を私に向けた。


「君は僕を試しているんだろう!? 嫉妬させようとして、こんな大芝居を打って! 謝るなら今だぞ! 僕のところに戻ってくると言えば、商会の資金援助だって元通りにしてやる! こんな泥臭い仕事なんてやめて、昔みたいに僕の横で笑っていればいいんだ!」


彼はまだ、自分が世界の中心にいると信じ込んでいた。

私が自分に未練があり、彼なしでは生きていけないと思い込んでいた。


あまりの滑稽さに、私は哀れみすら覚えた。


「フェリクス。……二度目はないと言ったはずよ。私はあなたに未練など一微塵もないわ」

「う、嘘だ! 逃がした魚はでかいと言っただろう! 僕を失って後悔しないはずがない!」

「後悔? いいえ、感謝しているわ」


私はきっぱりと言い放った。


「あなたと婚約を解消できたおかげで、私は自分の足で立ち、領地と家族を守る決意が固まったもの。あなたは私の『逃したでかい魚』などではないわ。ただの……足手まといだったのよ」


「あ、足手まとい……!? 僕が!?」


プライドを粉々に打ち砕かれたフェリクスが、怒りで顔を真っ赤にして私に掴みかかろうとした。


「この恩知らずの女がぁっ!!」


だが、彼が手を伸ばすより早く、一瞬で空間が凍りついた。


カイウス公爵が静かに一歩前に踏み出し、フェリクスの手首を素手で掴んだのだ。

ミシリ、と骨が鳴るような音が響く。


「……ぐあああっ!?」


フェリクスが悲鳴を上げて膝をついた。

カイウス公爵は冷ややかな翡翠の瞳で、見下ろすように彼を射抜いた。その全身から放たれる圧倒的な殺気に、フェリクスはガタガタと震え出した。


「王立監査院長である私の前で、当主代理に対する暴力および不当な脅迫行為。……コルネリウス商会は、随分と威勢が良いのだな」

「ヒッ……! か、閣下! これは誤解で……! 僕はただ、この女が……!」

「黙れ」


カイウス公爵の静かな一言が、フェリクスの言葉を完全に遮った。


「貴公が提出した通報書は精査した。……事実の歪曲、意図的な嫌がらせ、並びに私的な感情による経済的圧迫。監査院として、コルネリウス商会の過去三年の取引帳簿および納税記録の全面査察を命じる」


「な、なんだって……!?」


フェリクスが絶望の表情を浮かべた。

王立監査院の全面査察。それは、どんな巨大商会であっても、不正が暴かれ、破滅へと追い込まれる死刑通告に等しかった。


「閣下! ご容赦ください! 商会は関係ありません! 僕が……僕が少し頭に血が上っていただけで……!」

「自分の仕でかしたことの責任は、自分で取るものだ。貴族でも、商人でもな」


カイウス公爵は手を離すと、冷たく言い捨てた。


「つまらない男だ。レティシア・ヴァレリウスが貴公を捨てた理由が良く分かった。……つまみ出せ」


「はっ!」


護衛の騎士たちが一斉にフェリクスを取り押さえた。


「レティシア! レティシア助けてくれ! 悪かった! 僕が悪かったから! 二度と君に嫌がらせなんてしない! 婚約もやり直そう! レティシアぁぁぁっ!!」


惨めな悲鳴を上げながら、フェリクスは引きずられて出されていった。

バタン、と重厚な扉が閉まり、静寂が戻ってくる。


未練など、最初からなかった。

けれど、彼が去った後のホールに流れる空気は、どこまでも澄み渡っていた。


◈◈◈


「……見苦しいものを見せたな」


カイウス公爵が私に向き直り、手に残った汚れを払うように手袋を整えた。


「いいえ。……すっきりといたしました。ありがとうございます、カイウス閣下」


私は深く頭を下げた。

彼がいてくれたからこそ、私は過去と完全に決別することができたのだ。


「礼には及ばん。公務を果たしたまでだ。……それより、レティシア」


カイウス公爵は私に一歩近づいた。

その瞳には、先ほどまでの冷酷さは消え、一人の男としての強い意志が宿っていた。


「私は三ヶ月の査定と言ったが……前言を撤回させてもらう」

「え……?」

「銀嶺草の計画、そして君の手腕。査定などするまでもなく、成功することは明白だ。明日から監査院の予算で正式な投資契約を結ぶ」


思いがけない申し出に、私は目を見開いた。


「そ、そんな……! では、三ヶ月の滞在は……?」

「滞在は続ける」


カイウス公爵は当然のように言い放った。そして、少しだけ気恥ずかしそうに視線を泳がせながら、低く囁いた。


「……これからは監査としてではなく、君という人物を、より近くで知るための時間として過ごさせてもらう。……異論はあるか?」


彼の言葉の意味に気づいた瞬間、私の心臓が大きく跳ね上がった。


凍てつくような『氷結の処刑人』の瞳の奥に、確かな熱が宿っている。

それは、仕事ばかりで恋など忘れていた私の胸を、甘く、激しく揺さぶるものだった。


「……異論など、ございません」


私は頬を染めながら、ゆっくりと微笑みを返した。


「どうぞ、いつまでもお残りください。……カイウス様」


すれ違っていた過去の恋は終わりを告げ、新しい物語が、いま静かに動き始めたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ