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王立監査院長、カイウス・アウレリウス・フォン・シルヴィウス公爵。
王国最高峰の権力者であり、『氷結の処刑人』と恐れられる男が、この築百年を超す破れかけたヴァレリウス男爵家の屋敷に滞在する。
その事実だけで、館の空気は一変していた。
「お、お嬢様……! 本当に公爵閣下がお泊まりになるのですか!? 客室のカーテンは破れを繕ったばかりですし、調度品も売却してしまって最低限しか……」
古参のメイドであるマーサが、泡を食ったように手拭いを握りしめて駆け寄ってくる。
私は彼女の肩を優しく叩き、落ち着かせるように微笑んだ。
「大丈夫よ、マーサ。ありのままで迎えましょう。贅沢なもてなしなんて、最初から求めていらっしゃらないわ。清掃だけを完璧にして、埃一つ落ちていない状態にすれば十分よ」
カイウス公爵が求めるのは、貴族的な虚飾ではなく「結果」と「清潔さ」だ。
私は自ら雑巾とバケツを持ち、マーサやアンドレアスと共に客室の磨き上げに参加した。かつて贅沢なドレスを着て舞踏会で踊っていた手が、今は木床を磨き、窓ガラスを磨き上げている。
その様子を、廊下の影からじっと見つめる小さな姿があった。
十歳の弟、ルーカスだ。
「お姉様……あの黒い服の人たち、だれ? お姉様をいじめにきたの?」
不安そうに大きな瞳を潤ませるルーカスに、私は作業の手を止めて屈み込み、彼の目線に合わせた。
「ううん、違うわよルーカス。あの方は公爵様。とても厳格な方けれど、私たちの味方になってくれるかもしれない凄い方なの。だからルーカスも、怖がらなくて大丈夫よ」
「うん……。僕、お姉様のお手伝いする! 掃除だってできるよ!」
「ありがとう、ルーカス。助かるわ」
健気な弟の頭を撫でていると、不意に背後から低い足音が近づいてきた。
「……身内に甘いな、当主代理」
振り返ると、そこには黒い軍服風の衣装を着こなしたカイウス公爵が立っていた。
その背後には護衛騎士が控えている。彼の冷たい翡翠色の瞳が、膝をついて掃除道具を手にした私と、怯えて私のかげに隠れたルーカスを交互に見つめた。
「公爵閣下。……お部屋の準備は間もなく整います」
「部屋などどうでもいい。雨風が凌げれば十分だ。……それより、そちらの少年は?」
「弟のルーカスでございます。ヴァレリウス家の次期当主です」
私はルーカスの背中をそっと押し、前へ出した。
ルーカスは足を小刻みに震わせながらも、必死に背筋を伸ばし、貴族としての挨拶を試みた。
「あ、アウレリウス公爵閣下……! ルーカス・ヴァレリウスです! お、お姉様を……ヴァレリウス領を、よろしくお願いいたします……!」
幼い声での精一杯のお辞儀。
カイウス公爵は表情ひとつ変えず、ただじっとルーカスを見下ろしていた。そして、冷徹な声で告げた。
「姿勢が悪い。右肩が上がっているぞ、少年。それから、他人に頭を下げる前に、まず己が何をすべきかを考えろ。当主となる者が簡単に他人に泣きつくものではない」
容赦のない一言。マーサが小さく息を呑むのが聞こえた。
だが、カイウス公爵はポケットから一冊の小さな本を取り出し、ルーカスの胸元にぽんと押し当てた。
「……これは王立学院の初等部で使われている、領地経済の基礎教材だ。三日以内に読め。内容について質問する」
「え……?」
「返事は『はい』だ」
「は、はいっ!」
ルーカスは驚きつつも、ぎゅっとその本を抱きしめた。
カイウス公爵はフンと鼻を鳴らすと、私に視線を戻した。
「情に流されるなと言ったはずだ、レティシア。……だが、家族の教育を放置しない点だけは評価してやろう。さあ、案内しろ。君が計画書に書いていた『第三坑道』へ向かう」
冷酷な言葉の裏にある、不器用な厳しさと配慮。
私はこの男が、ただの『処刑人』ではないことを、改めて確信した。
「はい、閣下。ただちに準備いたします」
◈◈◈
屋敷を出て、馬で一時間ほど山道を登った場所に、かつて採掘が行われていた『第三坑道』はあった。
岩肌が露出し、草木もまばらな荒涼とした山道。
カイウス公爵は漆黒の軍馬に見事に跨がり、微塵の乱れもなく馬を操っていた。その後ろを、私は動きやすい質素な乗馬服(父のお下がりを仕立て直したものだ)で追いかける。
「ここが、問題の鉱山か」
馬を降りたカイウス公爵が、崩れかけた坑道の入口を見上げた。
入口には『立入禁止』の古い札が下がっており、ひんやりとした湿った空気が中から吹き出してくる。
「ええ。十数年前に銅が採り尽くされ、放棄された坑道です。ですが、内部は地下水脈に近く、年間を通じて低温が保たれています。……こちらへ」
私は用意してきた魔力石のランプに火を灯し、先頭に立って坑道へ踏み出そうとした。
すると、カイウス公爵の手が私の肩を強く掴んで引き留めた。
「待て。正気か? 崩落の危険もある未調査の坑道だぞ。護衛の騎士を先に行かせろ」
「いいえ、閣下。この坑道の内部マップは、私が父の遺品から見つけ出して完全に記憶しています。どこに落とし穴があり、どこが脆弱かも把握しています。……私が行くのが一番安全です」
私は彼の手を優しく振り払い、ランプを高く掲げた。
「それに、自分の目で確かめずに人に指示を出すのは、私のやり方ではありませんから」
カイウス公爵は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
やがて、彼は深いため息をつき、自らもランプを手に取った。
「……手に負えないおてんば令嬢だな。いいだろう、だが私の斜め後ろを歩け。万一の時は私が庇う」
「公爵閣下にそのようなお手間はかけさせられません」
「命令だ。従え」
無駄に威厳のある命令に、私は苦笑しながら「かしこまりました」と頷いた。
坑道の中は、外の太陽が嘘のように暗く、冷気が皮膚を刺した。
足元は濡れた岩場と泥で滑りやすい。私は裾を泥で汚しながら、慎重に奥へと進んでいく。普通の貴族令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出すような環境だ。
だが、私は夢中で暗闇を照らした。
やがて、坑道の最深部、ひときわひんやりとした風が吹き抜ける大きな空洞に出た。
「……ありました!」
ランプの淡い光が照らし出したのは、濡れた岩肌に自生する、微かに青白い光を放つ群生植物だった。
半透明の葉が、水晶のように美しく重なり合っている。
「これが……『銀嶺草』か」
カイウス公爵が歩み寄り、手袋を外してその葉に触れた。
「素晴らしい状態だ。魔力の帯び方も均一で、純度が高い。……なるほど、地下水脈から滲み出る豊富な魔素と、この独特の冷気が、天然の温室のような環境を作り出しているのか」
「ええ。そして、ご覧ください」
私は岩の割れ目を指差した。
「ここは以前の採掘で掘り進められたおかげで、奥へと続く空洞がさらに広がっています。もし、この環境を人工的に拡張し、温度管理を行えば……単なる自生の採取にとどまらず、年間を通じた『栽培』が可能になります!」
私は興奮のあまり、カイウス公爵の袖をキュッと掴んで見上げた。
「これなら、王都の薬師ギルドだけでなく、高位の魔導師たちとも長期的な独占契約が結べます! ヴァレリウス領は、数年以内に『希少薬草の世界的産地』として生まれ変わることができるんです!」
私の熱弁を、カイウス公爵は黙って聞いていた。
ふと、自分が彼の袖を掴んでいることに気づき、私は慌てて手を引いた。
「無礼を……申し訳ありません、取り乱しました」
「……いや」
カイウス公爵は小さく首を振った。
彼の視線は、泥で汚れた私の乗馬服と、インクと泥で汚れた私の手に注がれていた。
「君は……本当に貴族の令嬢なのか?」
「え?」
「私がこれまで見てきた貴族の女たちは、皆、甘い香水を身に纏い、見栄と虚栄のために男の顔色を伺うことしか知らなかった。ドレスの裾が汚れることを死よりも恐れ、泥に塗れることを恥だと考えていた」
カイウス公爵の声は、静かだが深い感銘を帯びていた。
「だが、君は違う。領民のために自ら泥に塗れ、暗闇を恐れず、未来を切り拓くためにその手で土を掘る。……美しいドレスを着たどの令嬢よりも、今の君の方がずっと力強く、輝いて見える」




