表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結】婚約破棄ですか? どうぞどうぞ。清々したので二度と関わらないでくださいね  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/9

3

カイウス公爵は、手元の革製の書類鞄から一束の羊皮紙を取り出し、ローテーブルの上に放り投げた。


「コルネリウス商会より、貴家の破産懸念に関する通告を受けた。貴家は莫大な負債を抱え、唯一の後盾であった商会との婚約も解消されたと聞く。来期の王国税の納入は絶望的であり、領内事業の崩壊も目に見えている、とな」


やっぱり。フェリクスが裏で手を回していたのだ。


「……通告の通り、コルネリウス商会との婚約が解消されたのは事実です。ですが、わがヴァレリウス家が破産寸前であり、税を納められないというのはまったくの虚偽でございます」

「虚告かどうかを決めるのは君ではない。私だ」


カイウス公爵は冷たく言い放ち、翡翠の瞳で私を射抜いた。


「私は数字しか信じない。感情も、言い訳も、貴族の矜持とやらに何の意味も見出さない。……現在、王国は地方領地の過度な赤字を補填する余裕はないのだ。もし本日の査定で、貴領の自立継続が不可能と判断した場合、即刻、領主権の停止手続きに入る」


猶予は、今この瞬間しかなかった。

彼がここで「不可」と書類にサインすれば、すべてが終わる。


呼吸が浅くなり、手のひらに冷や汗が滲む。

だが、私は怯まなかった。怯んでなるものか。


「……承知いたしました、シルヴィウス閣下」


私は深く息を吸い込み、決意を固めて彼の目を見つめ返した。


「ならば、数字でお示しいたします。アンドレアス、執務室から今年度の総帳簿と、先ほどまとめた事業計画書を持ってきてちょうだい」

「は、はいっ! ただちに!」


アンドレアスが走って部屋を出ていく。

カイウス公爵は、私の揺るぎない態度にわずかに眉を動かした。ほんのわずかな、観察するような光がその冷たい瞳に宿る。


「……逃げ出さずに、私と議論するつもりか。多くの貴族は、私の名を聞いただけで震え上がり、言い訳を並べ立てるか、許しを乞うて泣きつくものだが」

「泣きついて問題が解決するなら、いくらでも泣きますわ」


私はふっと小さく微笑んだ。


「ですが、泣いても帳簿の赤字は消えませんし、用水路の壊れた堤防も塞がりません。私に必要なのは哀れみではなく、正確な現状把握と、それを覆すための具体的な計画だけです」


カイウス公爵は無言で私を見つめ返した。その表情からは何も読み取れない。


すぐにアンドレアスが分厚い数冊の帳簿と、数枚の羊皮紙を運んできた。

私はそれをカイウス公爵の前のテーブルに整然と並べた。


「これが、過去一年のヴァレリウス領のすべての収支記録です。……インクの汚れや見づらい点があるかもしれませんが、一銅貨の狂いもなく、不正な使途も一切ございません」


カイウス公爵はゆっくりと手を伸ばし、一番上の帳簿を開いた。

彼は細長い指でページをめくっていく。その速度は驚くほど速い。しかし、彼の視線が数字の列を正確に追い、吟味しているのが分かった。


部屋の中には、羊皮紙をめくる音だけが規則的に響く。

1分、2分、5分……。

緊張で胃が痛むような時間が過ぎていく。


やがて、カイウス公爵の手が止まった。

彼はあるページを指差し、不意に私を見上げた。


「……この『用水路補修費』の項目。資材の購入単価が、王都の相場より15%ほど低い。どうやって調達した?」

「隣領の木材商と直接交渉いたしました。我が家の山林から切り出した質の良い薪とバーター取引をすることで、輸送コストと中間手数料を削ったのです」

「ふむ。……では、こちらの『代官人件費』。前年に比べて30%削減されている。不正な解雇か?」

「いいえ。不要な書類手続きを簡略化し、三名で行っていた徴税業務を一人の人員で回せるようにシステムを見直しました。解雇した二人には、新たに始めた養蜂事業の管理を任せ、雇用は維持しています」


カイウス公爵の質問は、容赦なく、そして極めて鋭かった。

帳簿の端に書かれた細かな数字の意味、予算の配分、無駄の削減経緯。

普通の上流貴族なら答えられないような現場の細部まで、彼は次々と突きつけてくる。


しかし、私はそのすべてに即座に答えた。

なぜなら、この一年間、私が血の滲むような思いで、現場に足を運び、領民と話し合い、一つ一つ作り上げてきた数字だからだ。頭の中に叩き込まれていないはずがない。


質疑応答が三十十分ほど続いた頃、カイウス公爵は静かに帳簿を閉じた。


「……驚いたな」


彼がぽつりと呟いた。

その声には、先ほどまでの氷のような冷酷さとは異なる、確かな驚きが含まれていた。


「この帳簿には、一切の飾りが存在しない。貴族の帳簿によくある『見栄のための交際費』や『使途不明の贅沢品』が皆無だ。……そして何より、現場の状況をこれほど正確に把握している領主代理に、私はこれまで会ったことがない」


「お褒めいただき、光栄です」

「褒めてはいない。ただの事実だ」


カイウス公爵は淡々と言い捨てると、今度は私が提出した『銀嶺草の栽培および薬局直接取引計画書』に目を落とした。


「……枯渇鉱山を利用した薬草の栽培か。アイデアとしては悪くない。王都の薬師ギルドの需要とも合致している。……だが、これには決定的な欠点がある」

「欠点……ですか?」

「時間の猶予だ。銀嶺草の最初の収穫まで最低でも二ヶ月。王都での競りと現金化までにさらに半月。……コルネリウス商会への返済期日、そして我が監査院が設定する『健全化目標期限』には到底間に合わない」


カイウス公爵の言葉は、冷酷な現実を突きつけていた。

やはり、時間だけはどうしようもなかったのか。胸が締め付けられるような絶望感が押し寄せてくる。


「……では、やはり……」


私が言葉を詰まらせると、カイウス公爵はゆっくりと立ち上がった。

背が高く、見上げるような圧迫感がある。


「ヴァレリウス嬢。本来であれば、現時点で貴領の経営能力欠如と判定し、領主権を一時凍結するのが監査院の規定だ」


やっぱり、駄目なのか——。

私がぎゅっと拳を握り締め、下を向きかけた、その時だった。


「——だが」


カイウス公爵の声が響いた。


「この完璧に整理された帳簿と、泥臭く足掻こうとする無謀な計画を前にして、規定通りの処理をするのは……少々、興ざめだな」


「……え?」


顔を上げると、カイウス公爵の整った唇の端が、かすかに、本当にごくわずかに上がっていた。

冷酷な仮面が割れ、その奥にある知的な好奇心が覗いたような、魅惑的で危険な笑みだった。


「公爵閣下……? それは、どういう意味でしょうか」

「私は無駄と無能を嫌うが、有能な者が理不尽に潰されるのを見るのも好きではない。……コルネリウス商会の横暴なやり口にも、以前から疑問を抱いていたところだ」


カイウス公爵は黒い手袋を嵌め直しながら、私を見下ろした。


「条件を出そう、レティシア・ヴァレリウス」

「条件……?」

「私が監査院の特権を使い、コルネリウス商会からの即時返済要求に対して『監査中のため返済手続きの合法的凍結』命令を出す。これにより、君は三ヶ月の時間的猶予を得られる」


信じられない言葉だった。

返済の凍結。それは、私にとって喉から手が出るほど欲しい『時間』そのものだった。


「ほ、本当ですか!? 感謝いたします、閣下!」

「喜ぶのは早い」


カイウス公爵は冷ややかな声で私の歓喜を遮った。


「当然、タダではない。……私はこれから三ヶ月間、この屋敷に滞在する」


「……はい?」


耳を疑った。公爵が、この貧しい男爵家の屋敷に滞在する?


「君が提出した銀嶺草の計画が、単なる机上の空論でないか。そして、君が本当にこの領地を再建するに足る器であるか。私がこの目で、現地で直接監視・評価させてもらう。……もし三ヶ月後に目標数値に届かなければ、その時は容赦なく領地を没収する。異論はあるか?」


三ヶ月間の直接監視。

それは、常に『氷結の処刑人』の鋭い視線に晒され続けながら、過酷な領地再建を行わなければならないということを意味していた。少しのミスも許されない、綱渡りのような日々が始まるのだ。


けれど。


道は繋がった。

崖っぷちで絶望の底に落ちかけていたヴァレリウス家に、一本の強力な命綱が投げ込まれたのだ。


私はカイウス公爵の翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、深くお辞儀をした。


「異論など、ございません。……どうぞ、心ゆくまでご監視ください、カイウス閣下。私の誇りと、この領地の未来をかけて、必ずやご期待に応えてみせます」


「フッ……いい目だ」


カイウス公爵は小さく鼻で鳴らした。


「では決まりだ。今日からよろしく頼むぞ、当主代理。……まずは、私の滞在する部屋の準備から始めてもらおうか。埃っぽい部屋は嫌いなのでな」


尊大な態度でそう言い放つ公爵の姿に、私は「やれやれ」と心の中で苦笑した。

元婚約者のフェリクスとはまるで違う、圧倒的な強者であり、冷徹な現実主義者。

けれど、この厳しい男の登場によって、私の止まっていた運命の歯車が、激しく動き始めたのを確かに感じていた。


脱・貧乏男爵家。そして、理不尽な元婚約者への逆転劇。

私の本当の戦いは、ここから始まるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ