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窓枠の隙間から差し込む冷た朝光が、執務机の上に積まれた書類の山を白く浮かび上がらせていた。
「……ふぁ」
小さくあくびを噛み殺しながら、私は重い瞼を開けた。
どうやら、昨夜はあのまま執務机に伏して眠ってしまったらしい。頬に羊皮紙の硬い感触が残り、首から肩にかけて鈍い痛みが走る。固まった体をゆっくりとほぐしながら立ち上がると、肩からハーフケットが滑り落ちた。
「お嬢様、お目覚めですか」
静かなノックの音とともに、扉が開いた。
入ってきたのは、ヴァレリウス家に長年仕えてくれている老執事のアンドレアスだ。手に温かい湯の入った盆と洗顔用のタオルを載せている。
「おはよう、アンドレアス。毛布をかけてくれたのね、ありがとう」
「いいえ、ルーカス様が夜中に起きてこられ、お嬢様にかけられたのです。『お姉様は僕たちのために戦ってくれているから』と」
アンドレアスの言葉に、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
十歳の幼い弟。両親を一度に失い、一番甘えたい盛りに寂しい思いをさせているというのに、ルーカスは文句一つ言わず、いつも私の体を気遣ってくれる。
「ルーカスはもう起きているの?」
「はい。食堂で家庭教師と早朝の読書をなさっておられます。お嬢様、洗顔の準備が整いました。それから……朝早くから大変心苦しいのですが、急ぎでお伝えしなければならない報せがございます」
アンドレアスの深々と刻まれた皺の奥にある瞳が、暗く沈んでいた。
彼の差し出した銀のトレーの上には、一通の封書が置かれている。洗練された上質な紙に、見覚えのある豪奢な蝋封。コルネリウス商会の紋章——翼を広げた鷲の印章だ。
「……フェリクスからね」
「はい。今朝一番、商会の使者が届けてまいりました。内容は……」
「言わなくてもわかるわ。貸付金の即刻返済要請と、今後の追加融資の凍結でしょう?」
私は差し出された手拭いで顔を拭い、冷たい水で睡魔を完全に追い払った。
返済期限までまだ半年以上の猶予があったはずの返済金を、一括で返せという理不尽な通告。昨夜の今日でこれだ。フェリクスの仕業に違いなかった。
『あとから泣きついてきても、絶対に許してやらないからな!』
昨夜の彼の捨て台詞が頭をよぎる。
私を経済的に追い詰め、降参させ、足元を見つめさせて撤回を撤回させようという腹づもりなのだろう。自分から言い出したわけでもない婚約破棄に対し、彼の傷ついたプライドは想像以上に根深かったらしい。
「お嬢様……いかがなさいますか。コルネリウス商会からの支援が途絶えれば、西の用水路の補修費用はおろか、来月の領地管理官らへの給与の支払いすら怪しくなります。……やはり、フェリクス様のもとへ向かわれ、もう一度お話し合いを……」
心配そうに眉をひそめるアンドレアスに対し、私は首を横に振った。
「いいえ、アンドレアス。謝罪もしなければ、すがりつきもしないわ。一度折れれば、私は生涯あの人の言いなりになり、ヴァレリウス家はコルネリウス商会の事実上の傀儡になってしまう。両親が命懸けで守ってきたこの領地を、そんな形で手放すわけにはいかないわ」
「ですが、資金の宛てが……」
「あるわ。ううん、作ってみせるわ」
私は鏡の前に立ち、ボサボサになった栗色の髪を素早く一本の編み込みに結い上げた。
鏡に映る自分を見る。目の下にはかすかなクマがあり、肌のツヤも流行の令嬢たちには程遠い。ドレスも二年前のものを仕立て直した質素なものだ。
けれど、その瞳だけはまっすぐに前を見据えていた。
「私たちは、甘えていたのよ。コルネリウス商会の財力に頼り切り、領地自体の自立を後回しにしていた。フェリクスの嫌がらせは絶望的な状況に見えるけれど、見方を変えれば、私たちが本当の意味で独り立ちするための機会だわ」
力強くそう宣言すると、アンドレアスは目を見張り、やがて感慨深そうに深く頭を下げた。
「……亡き旦那様と奥様がご覧になれば、さぞやお喜びでしょう。お嬢様は、立派なヴァレリウス家の当主代理でいらっしゃいます。この老骨、どこまでもお供いたします」
「ありがとう、アンドレアス。さあ、まずはルーカスと朝食をとって、それから本格的な戦略会議よ!」
◈◈◈
質素なパンと野菜スープの朝食を終えた後、私は再び執務室に籠もり、領地の台帳と睨めっこをしていた。
ヴァレリウス領の現状は、数値で見れば絶望的だ。
主な産業は農業だが、近年の長雨と病害で収穫量は減少傾向。山間部にはかつて採掘されていた銅山があるが、すでに枯渇しているとされていた。
しかし、私は過去十年の古い資料の中に、気になる記述を見つけていたのだ。
「……枯渇したとされる第三坑道の奥。そこに自生する『銀嶺草』……」
羊皮紙のカビ臭い匂いの中、私は古い手記のページを指でなぞる。
銀嶺草は、魔力を微弱に帯びた冷涼な洞窟内にしか生えないそこそこ希少な薬草だ。主に高位の魔導師が使う精神安定剤や、高級化粧品の原料として高値で取引されている。
父の代では、量も量で「採掘の邪魔になる雑草」として放置されていたが、現在の王都では空前の錬金術ブームが起きているはずだ。もし、この銀嶺草を安定して栽培・出荷するルートを確保できれば……。
商業ギルドを通さず、直接王都の薬師ギルドと契約を結ぶことができれば、中間マージンを抜かれずに済む。コルネリウス商会の圧力を回避して、数ヶ月でまとまった現金が手に入るかもしれない。
私は興奮を抑えきれず、素早く計算用紙に数字を弾き始めた。
必要なのは、坑道の安全確認、摘み取りのための労働力の確保、そして王都への輸送手段。問題は山積みだが、暗闇の中に一筋の光が見えた気がした。
その時だった。
ドォン、と重厚な地鳴りのような音が、屋敷の玄関の方から響いてきた。
続いて、慌ただしい足音が廊下を駆け抜けてくる。扉が勢いよく開かれ、アンドレアスが青ざめた顔で跳び込んできた。
「お、お嬢様! 大変です! お客様が……いえ、大変な方がお見えになりました!」
「アンドレアス? 落ち着いて。フェリクスが押しかけてきたの?」
「いいえ! フェリクス様ではございません! 王都から……王立監査院の馬車が到着いたしました!」
「……王立監査院?」
私は耳を疑った。
王立監査院といえば、王国の財政、貴族の不正、領地運営の不備を監視する最高行政機関だ。滅多に地方の小領地などに直接足を運ぶことはない。ましてや、何の事前通知もなく突然やってくるなど、異常事態だった。
「どういうこと……? 理由は何て?」
「それが……『ヴァレリウス男爵領の破綻リスクに関する緊急立入監察』だと……」
嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
……フェリクスだ。
彼は単に資金を引き揚げただけではない。コルネリウス商会の人脈を使い、王立監査院に「ヴァレリウス家は債務不履行に陥っており、破産寸前だ。税の納入も危うい」と偽りの、あるいは誇張された通報を入れたに違いない。
もし監査院から「領地経営能力なし」と判断されれば、ヴァレリウス家は爵位を剥奪され、領地は王国の直轄地として召し上げられてしまう。私達は路頭に迷うことになる。
「……どこまでも、徹底的に私を追い詰める気ね、フェリクス」
私は唇を強く噛み締めた。
恐怖よりも先に、ふつふつと激しい怒りが湧き上がってくる。私の家を、領民の暮らしを、たかが個人のプライドの憂さ晴らしのために壊そうというのか。
「お嬢様、いかがなさいますか!? お通しすべきでしょうか、それとも、今日はお引き取りを……」
「お通ししなさい、アンドレアス。逃げれば余計に怪しまれるわ。正々堂々と受けて立つわ」
私は立ち上がり、乱れたドレスの皺を伸ばした。
鏡を見る余裕などない。泥臭く足掻いてきたこの一年間の成果を、見せつけてやるまでだ。
◈
応接室の扉を開けた瞬間、私はその場に漂う異様な緊張感に息を呑んだ。
部屋の中央、古びたソファに腰掛けていたのは、一人の若い男性だった。
年の頃は二十代半ばすぎ。夜の闇を溶かし込んだかのような美しい漆黒の髪に、凍てつく冬の湖を思わせる冷徹な翡翠色の瞳。
仕立ての良い黒を基調とした軍服風の官邸装束を身に纏い、無駄な脂肪が一切ない引き締まった体が、洗練された動作の中に圧倒的な威圧感を醸し出している。
その背後には、重装備の護衛騎士が二人、彫像のように控えていた。
「あなたが、当主代理のレティシア・ヴァレリウス男爵令嬢か」
男性が口を開いた。
低く、深く、氷の鈴を鳴らしたような美しい声。しかし、その声には一切の情赦も暖かみも含まれていなかった。
「初めまして、閣下。ヴァレリウス家当主代理、レティシアでございます。本日はどのようなご用件でしょうか」
私は淑女の礼を捧げた。貧しい衣装ではあったが、背筋だけは決して曲げなかった。
男性は私を頭の先からつま先まで、品定めするようにじっと見つめた。その冷ややかな視線は、まるで私の皮膚を透かして骨まで見透かされているかのような錯覚を抱かせる。
「挨拶は不要だ。私は王立監査院・第一監査局長、カイウス・アウレリウス・フォン・シルヴィウス公爵だ」
シルヴィウス公爵——!
その名を聞いた瞬間、私の心臓が跳ね上がった。
王国の最高位貴族であり、現国王の甥にあたる男。弱冠二十五歳にして監査院の頂点に立ち、不正を働く貴族を容赦なく失脚させてきたことから、王都では『氷結の処刑人』と恐れられている人物だ。
なぜ、そんな大物がこんな小さな領地に自ら出向いてきたというの?
「カイウス閣下。……このような辺境の地に、公爵閣下自らがお越しになるとは光栄に存じます」
「世辞はいい。時間がないので本題に入る」




