積み上げられた羊皮紙と、すれ違う心
羊皮紙の上を滑る羽根ペンの、カリカリという乾いた音だけが執務室に響いている。
窓の外はとうに日が落ち、藍色の夜空には月が冷たい光を放っていた。机の上には魔力石のランプが淡い琥珀色の光を灯しているが、部屋の隅までは届かず、うず高く積まれた書類の影が壁に長く伸びている。
私は痛む首の後ろをトントンと叩きながら、小さく息を吐いた。
冷めきったハーブティーを一口飲むと、渋みが舌に広がり、少しだけ眠気が遠のくのを感じた。
「……あと、三つの村の収穫報告書の確認と、冬に向けた備蓄の試算、それから……」
独り言を呟きながら、私は再び羽根ペンをインク壺に浸す。
指先はインクで汚れ、手入れの行き届いていたはずの爪も今では短く切り揃えられている。かつては流行のドレスのカタログをめくるために使っていたこの手は、今や領地の台帳をめくり、数字の計算をするためだけのものになっていた。
私の名前は、レティシア・ヴァレリウス。
歴史だけは無駄に古いものの、領地は小さく、常に財政難に悩まされている下級貴族、ヴァレリウス男爵家の長女だ。
本来であれば、私は今頃、どこかの夜会で同年代の令嬢たちと他愛のない噂話に花を咲かせているか、婚約者と甘い時間を過ごしているはずだった。
しかし、現実は非情だ。
ちょうど一年前の春。
両親を乗せた馬車が、領地視察の帰りに崖から転落した。
突然の事故だった。悲しむ暇さえ、私には与えられなかった。
両親の葬儀が終わるや否や、負債の話が押し寄せ、領地の代官たちは今後の不安から勝手な行動を取り始めた。幼い弟はまだ十歳で、家督を継ぐには早すぎる。
私は泣くのをやめ、喪服のまま領主代行として執務室の椅子に座るしかなかったのだ。
それ以来、私の生活は一変した。
領民たちの生活を守るため、そしてヴァレリウス家の名を取り繕うため、私は必死に働いた。朝は誰よりも早く起き、夜は倒れ込むように眠るまで机に向かう。
公務を優先するあまり、自分を着飾ることも、趣味の時間を楽しむことも、すべて後回しになった。
そして——当然のことながら、犠牲になったものがもう一つある。
「……レティシア。いい加減にしたらどうなんだ」
不意に、ノックの音もなしに執務室の重厚なオーク材の扉が開かれた。
顔を上げると、そこに立っていたのは、私の婚約者であるフェリクス・コルネリウスだった。
コルネリウス商会の子息。
輝くような金髪に、サファイアのように青い瞳。上質なベルベットのジャケットには、商会の豊かさを象徴するような金糸の刺繍が施されている。彼が動くたびに、異国から取り寄せたという高級な香水の甘い香りが、執務室の埃っぽい空気を塗り替えていく。
「フェリクス……。いらっしゃい。悪いけれど、今手が離せないの。急ぎの決裁があって」
私はペンを置かず、視線だけを彼に向けてそう言った。
フェリクスの美しい顔が、不満げに歪む。彼はツカツカと足音を荒立てて私の机の前に歩み寄ると、両手をバンッと机の上についた。積み上げられていた書類の山が崩れそうになり、私は慌てて手で押さえる。
「手が離せない、手が離せない。君はここ数ヶ月、それしか言わないよな。今日は僕たちが一緒に王立劇場へオペラを観に行く約束だったはずだぞ!」
「……え?」
私は手元の台帳から目を離し、カレンダーを見た。
しまった。今日は彼と数週間前から約束していた、新作オペラの初日だった。
「ごめんなさい、フェリクス。完全に失念していたわ。でも、西の村の用水路が昨日の大雨で決壊してしまって、その復旧のための予算を今夜中にひねり出さないと、冬の作付けに間に合わないの。領民の死活問題なのよ」
「でもでもでも、はっ。そして領民、領民! 君の頭の中には泥臭い農民のことと、数字の羅列しかないのか? あ?」
フェリクスは苛立たしげに髪を掻き毟った。
その怒りはもっともだ。私は彼に謝罪の言葉を重ねた。
「本当にごめんなさい。でも、もう少しだけ待ってほしいの。この急場さえ凌げば、少しは時間が作れるようになるから……」
「前もそう言った。先月、俺の誕生日パーティーの時も、君は『急な仕事が入った』と開始一時間で帰ったじゃないか」
フェリクスの声が執務室に響く。
彼の瞳の奥には、怒りだけではなく、明らかな寂しさと落胆の色が滲んでいた。
わかっている。彼は私を愛してくれている。いや、愛してくれていた、と言うべきか。
政略結婚の色合いが強い婚約(没落しかけの貴族の身分と、裕福な商人の財力という典型的な結びつきだ)ではあったが、私たちはそれなりに良好な関係を築いていた。彼は陽気で優しく、いつも私を楽しませてくれていた。
私が「両親に守られた、世間知らずで可愛らしい令嬢」であった頃までは。
「……俺だって、我慢の限界というものがあるんだぞ」
フェリクスは腕を組み、冷たい目で見下ろすように私を見た。
「君がちっとも俺に関心を向けないなら、俺にだって考えがある。……明日の夜、商会の会合という名目のパーティーがあるんだがね。そこには、俺に色目を遣う美しい女たちが腐るほど集まるんだ。皆、俺に構ってもらいたくて必死に着飾ってね」
「……そう」
「それだけじゃない。最近、リウィアからも頻繁に手紙が来るんだ。彼女、最近夫と死別して寂しいらしくてね。昔の恋人である俺に、慰めてほしいと泣きついてきている。……彼女の屋敷を訪ねて、ゆっくりと思い出話でもしてこようか?」
リウィア。彼が私と婚約する前に付き合っていたという、華やかな子爵令嬢だ。
フェリクスは、私の顔色を窺うように、チラチラとこちらを見ながらそう言い放った。
彼の言葉の裏にある意図は、痛いほど透けて見えていた。
構ってくれない私に対する、幼稚な挑発。嫉妬を引き出し、自分を引き留めさせ、「仕事よりもあなたが大切だ」と言わせたいのだろう。
昔の私なら、泣いて怒って、彼を引き留めたかもしれない。
しかし今の私の中には、嫉妬の炎も、彼を独占したいという情熱も、不思議なほど湧き上がってこなかった。
あるのはただ、終わりの見えない仕事に対する疲労感と、目の前の男のあまりの幼さに対する、冷めきった感情だけだった。
私は小さくため息をつき、ついに羽根ペンをインク壺の横に置いた。
静かに彼を見据える。
「……それって、当てつけ?」
私のひどく落ち着いた、感情のない声に、フェリクスは一瞬怯んだように肩をビクッとさせた。しかし、すぐに虚勢を張って鼻で笑う。
「ふん! 当てつけだと? さては……嫉妬しているのか? 今なら、俺にすがって泣いて謝るなら、許してやらないこともないぞ」
「フェリクス」
私は彼の言葉を遮り、静かに、しかしはっきりと告げた。
「あなたとは、もう無理ね」
執務室の空気が、凍りついたように止まった。
ランプの火が、パチッと小さな音を立てて爆ぜる。
「……なんだと!?」
フェリクスは間の抜けた声を出し、瞬きを繰り返した。私の言葉の意味を、脳が処理しきれていないようだった。
「どういう意味だ?」
「言葉の通りよ。私たちは、婚約を破棄すべきだと言っているの」
私は立ち上がり、彼と正面から向き合った。
「あなたの言う通りよ、フェリクス。私は今、あなたよりもヴァレリウス家の立て直しを、領民の命を優先している。そしてそれは、明日明後日で終わるようなものではないわ。数年、あるいは十年かかるかもしれない。その間、あなたに寂しい思いをさせ続けることは目に見えている」
「何を馬鹿なことを」
「あなたは、常に自分が世界の中心でありたい人だわ。私からの無条件の賞賛と愛情と、甘やかな時間を求めている。でも、今の私には、あなたに与えられる時間も、心の余裕もない。……お互いのためにならないわ。あなたはもっと、あなただけを見つめてくれる、余裕のある女性と結ばれるべきよ」
私の淡々とした説明を聞きながら、フェリクスの顔色が徐々に青ざめ、やがて屈辱と焦燥で赤く染まっていった。
彼はギリッと歯を食いしばり、声を荒げた。
「ふざけるな! 婚約破棄だと!? 俺から見捨てられるのが怖いからって、強がっているだけだろう!」
「別に強がってなど……」
「大体、俺だって仕事ばかり優先して、色気も可愛げもなくなった女なんてご免だね! ドレスの一着も新調せず、手はインクまみれで、色恋よりも麦の収穫量に興奮するような女房なんて、こちらから願い下げだ!」
売り言葉に買い言葉。
彼の口から飛び出す罵倒は、彼自身の傷ついたプライドを隠すための鎧だった。
「いいか、レティシア! 俺という後ろ盾を失って、この貧乏男爵家がどうなるか思い知るがいい。あとから『やっぱり私にはあなたが必要なの』なんて泣きついてきても、絶対に許してやらないからな! 世の中に、こんな地味で仕事狂いの女を好むような、いい男なんているわけがないんだ! 君は、とてつもなくでかい魚を逃がしたんだぞ、後悔しすることになる」
嵐のように叫び散らすフェリクスを前に、私はただ静かに立っていた。
かつては甘く囁いてくれた彼の唇から紡がれる棘のある言葉たちは、不思議と私の心を傷つけなかった。
むしろ、長年背負っていた重たい荷物を一つ下ろしたような、奇妙な安堵感すら覚えていた。
私は小さく肩をすくめ、息を吐く。
「はぁ……」
「……ん? 今、なんて言った?」
背を向けて立ち去ろうとしていたフェリクスが、ピタリと足を止めて振り返った。
その顔には、「謝るなら今だぞ」という期待が、隠しきれないほど露骨に浮かんでいた。怒鳴り散らしたものの、本気で私と別れるつもりなど、彼には毛頭ないのだ。彼はただ、私に折れてほしかっただけ。私にすがりついて、引き留めてほしかっただけなのだ。
本当に、子供のまま体だけが大きくなったような人。
私は真っ直ぐに彼の青い瞳を見つめ返し、冷ややかに微笑んだ。
「何も言っていないわ。……お気をつけて、フェリクス様。リウィア様によろしく」
私の拒絶の言葉に、フェリクスの顔が今度こそ歪んだ。
彼は何かを言いかけて口を開き、しかし言葉を見つけられないままパクパクと唇を震わせた。
握りしめた拳が小刻みに震えている。彼の中にある、私への未練と、高すぎるプライドが激しく衝突しているのが手に取るようにわかった。
「……っ!!」
やがて、彼は顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐き捨てた。
「二度と会ってやるもんか!!」
バタンッ!!
執務室の分厚い扉が、枠ごと壊れそうなほどの勢いで叩き閉められた。
嵐が去った後のような静寂が、部屋の中に降りてくる。
微かに残る高級香水の甘い香りが、彼がさっきまでここにいたという唯一の証拠だった。
「……疲れた」
私は独り言を呟き、窓の外の月を見上げた。
フェリクスからの資金援助が打ち切られれば、ヴァレリウス家の財政はさらに逼迫するだろう。明日からは、さらに金策に走り回らなければならない。領地を立て直す道は、今まで以上に険しいものになる。
それでも。
「……よし」
私は不思議と晴れやかな気分で、椅子に座り直した。
インク壺の横に置いた羽根ペンを再び手に取り、指先のインク汚れを気にも留めずに、先程の計算の続きを始める。
婚約者という「守るべき虚飾」がなくなった今、私はもう、誰の顔色を窺う必要もない。ただ目の前の領地と、領民のために全力を尽くせばいいのだ。
カリカリ、カリカリ。
羊皮紙を滑るペンの音は、先程よりもずっと軽快に、夜の執務室に響き渡っていた。
逃がした魚が大きかったのかどうかはわからない。
けれど、今の私には、大海原で自由に泳ぎ回るための、身軽な体が必要だったのだ。
誰もいなくなった部屋で、私は誰にともなく、小さく微笑んだ。




