第7話 選択
翌日学校へ行くと、美咲が真面目な顔をして私を呼んだ。
「沙羅、少しいい?」
昼休み、屋上へ連れて行かれる。フェンスの向こうではグラウンドから体育の声が聞こえていた。
美咲は私をまっすぐ見て言った。
「井土くん、昨日泣いてた」
美咲はそこまで言って言葉を詰まらせる。
「沙羅がいなくなって、自分のせいかもしれないって。先生も心配してた」
私は空を見上げた。雲一つない。ただ青かった。
「沙羅」
美咲が声を落とし、そして意を決したように切り出した。
「病院、行ってみない?」
それは世界を止める残酷な言葉だった。
「最近、眠れてないんでしょ。顔色悪すぎるよ。みんなみんな沙羅を心配してる」
美咲は言いづらそうに続ける。
「ストレスとか、不安が強いと、人を怖く感じることもあるんだって」
私は何も答えられなかった。井土くんはそこまで話を進めていたのだ。私がおかしいという結論が、私の知らないところで出来上がっている。
放課後、担任に呼ばれた。職員室ではなく、ソファがあるだけの小さな相談室だった。なぜか麦茶まで用意されている。
「佐藤」
担任は穏やかだった。
「最近、本当に辛そうだ」
カラン、と麦茶のグラスの中で氷が鳴る。
「どうだろう。スクールカウンセラーと一度話してみないか」
私は引きつる口元を無理やり動かす。
「先生も」
「うん?」
「私がおかしいって思ってるんですか。」
先生はすぐには答えなかった。
「おかしい、じゃない」
「じゃあなんですか」
「疲れているんだ」
同じだった。言い方が違うだけで。結論は統一されている。
「失礼します」
「佐藤」
部屋を出る私の背中に担任の言葉が突き刺さる。
「井土も、お前のことを本当に心配しているんだぞ」
私は振り返らなかった。
――夕方。昇降口で靴を履いていると、隣に誰かがしゃがんだ。
「帰る?」
井土くんだった。私は黙ったまま立ち上がる。当たり前のように足音がついてくるけれど、もう振り返らなかった。
家の近くの橋まで来たとき、不意に井土くんが口を開く。
「僕のこと、そんなに嫌い?」
直接的な言葉は初めて聞いた気がして、私は立ち止まる。
「怖いの」
井土くんは何も言わない。
「どうして私なの」
静かな川の音だけが聞こえる。
しばらくして、井土くんは小さく笑った。
「選んだから」
その答えはあまりにも単純で、恐ろしかった。
「選んだ、って。なにを」
「沙羅さんを」
私は息をのむ。
「理由は?」
井土くんは少しだけ首を傾げた。
「そんなもの必要?」
その笑顔は優しく、同時に底が見えない。
「ねえ沙羅さん」
井土くんは川面を見たまま続ける。
「僕は何も奪ってないよ」
私は唇を噛み締める。
「みんなが勝手に信じただけ。先生もでしょ。クラスメイトもでしょ。ああそれとお母さんも」
指を折って数える井土くんの前で、私は声を出せない。まるで見えない手で口を塞がれているようだ。
「僕は嘘をついていない」
反論できなかった。だって確かにそうなのだ。
井土くんは「付き合っています」とは一度も言っていない。「沙羅さんが僕を好きです」とも言っていない。
彼はいつも曖昧だった。相手が都合よく解釈できる程度にだけ、情報を置いていく。
そして、人は勝手に物語を完成させる。
「まあ訂正もしなかったけど」
その一言で、私は初めて理解した。井土くんは、人の思い込みを利用している。
誰かを騙すためではない。自分の望む結論へ、周囲が自分からたどり着くように。
それが一番疑われない方法だから。
私は一歩後退る。井土くんは二歩距離を詰めた。橋の欄干に手をついて私を閉じ込める。彼は静かに言った。
「僕のそばにいた方がみんな安心するよ」
「……なにを、」
「沙羅さんも、そのうち悪夢を見なくなる」
その言葉に、背筋が冷えた。私が悪夢を見ていることを知っているのだ。知っていて、私を追い詰めて、逃げられなくしている。
井土くんはただ穏やかに笑っていた。私はその笑顔を見ながらようやく悟る。
井土くんは、私を閉じ込めようとしているのではない。私がどこへ行っても、誰に何を話しても、「井土くんはいい人」という答えしか返ってこない世界を作っている。
その世界が完成したとき、私がなにを叫んでも、きっと誰も助けてくれない。




