最終話 鼻歌
冬が来た。
制服の上からコートを着るようになって、吐く息が白くなるころには、私の周りからうわさは消えていた。
もう誰も、「付き合っているの?」とは聞かない。
その必要がなくなったからだ。みんな、そういうものだと思っている。
井土くんと私は一緒に登校して、一緒に帰る。昼休みには同じ教室で話をする。放課後は図書室へ寄ることもある。
私がなにも言わなくても、井土くんは隣にいる。誰も不思議に思わない。それが日常になったから。
私だけが、その日常を受け入れられなかった。
最初のころは何度も否定した。
「違う」
「付き合ってない」
「誤解だから」
そう言うたびに、みんな困ったように笑って「照れなくてもいいのに」なんて言った。その繰り返しの中で、ある日から私は否定するのをやめた。
もう、疲れたからだ。
なにを言っても変わらない。
言葉は、水の中へ落ちる石みたいに沈むだけだった。
学校帰りに駅前で担任に会った時に言われた言葉。
「佐藤、最近落ち着いたな」
担任は安心したように笑った。
「そうですか?」
「ああ」
担任は隣にいる井土くんを見る。
「井土、本当にありがとうな。佐藤を支えてくれて」
「いえ」
私はなにも言わなかった。もう訂正する気力も残っていない。
母が夕食の支度をしながら言った。
「井土くん、本当に優しいわね」
「うん、」
「沙羅が最近笑うようになったって」
「そうだね」
笑っているのではない。表情を動かすことを諦めただけだ。その違いを説明しても、きっと伝わらない。
――年が明けたある日の放課後。昇降口で靴を履き替えていると、井土くんが静かに言った。
「合格したよ、第一志望」
「うん。おめでとう」
私たちは互いの志望校を知らない。かぶってどちらかが落ちたら気まずいからという理由の裏で、進学を機に井土くんから離れられるかもしれないと僅かな希望を抱いていたからだ。
けれどその希望もすぐに打ち砕かれる。
「沙羅さんと同じ大学」
喉が動かなかった。私は親と担任以外の誰にも志望校を話していない。井土くんは続ける。
「安心した。これからも一緒にいられるね」
その言葉で、私の最後の心の支えが崩れ落ちた。井土くんは私の手を取り、手の甲にそっと口付けた。祝福のような呪いだった。
卒業式の日はすぐにやって来た。
教室には笑い声があふれ、それぞれが重い思いの写真を撮っている。寄せ書きを交換したり、わんわん泣いている子もいた。
私はただぼんやりと窓の外を見ていた。
「沙羅」
声をかけて来たのは美咲だった。
「卒業おめでとう。連絡するからまた会おうね」
「おめでとう。うん、もちろん」
「大学行っても仲良くね」
そう言って、美咲は井土くんに笑いかけた。
「沙羅のことよろしく」
「当然」
井土くんは穏やかに頷く。
もはや誰も疑わない。誰も止めない。これが一番自然な未来なのだと信じているのだ。
校舎を出ると冷たい風だけが吹いていた。駅へ向かう道は静かだった。隣を歩く足音が聞こえる。
私はもう、その音から逃げようとは思わなかった。
「沙羅」
井土くんが私の名を呼ぶ。
「なに?」
「ありがとう。一緒にいてくれて。これからもよろしくお願いします」
私は笑った。自分でも驚くほどの乾いた小さな笑いだった。
「なにがありがとうよ」
「うん」
「全部、あなたが、あなたさえいなければ……ッ!」
そこまで言って、口を閉じる。もう言葉に意味はない。言葉を飲み込んだ私を見て井土くんは少しだけ目を細める。
「これから先、どんなことがあっても。ずっと好きだ」
それはとても穏やかな声で。
「だからもう逃げなくていいんだよ」
何度逃げても答えは同じだと分かっていた。
駅前の歩道橋。人通りは少ない。夕日が街を橙色に染めている。
井土くんは、いつものように笑っていた。学校のみんなが知っている、優等生の笑顔。
そして、私だけが恐れている笑顔。
井土くんは私が逃げても逃げた先で誰も味方にならない世界を手に入れようとしていた。
だから私は、もう逃げられない。
井土くんはゆっくりと私に近づき、そっと私の体を抱きしめた。私はまるで悪夢の中のように動けない。そして、壊れ物に触れるように、静かに私の唇へキスをした。
目を閉じることも、抵抗することもできなかった。
歩道橋の先にはいつもと変わらない街の音が流れている。
世界は恐ろしく穏やかだった。
誰もが二人の未来を祝福するような夕暮れの中、耳元で井土くんの鼻歌が響く。
それはフォーレの鎮魂歌だった。
きっと私の心が折れるまで悪夢は続くのだろう。箱詰めされた私がすべてを諦めるまで。
花囲い (了)




