第4話 殴打
私は井土くんのことを誰かに相談しようと思った。
「怖い」と思うだけでは何も変わらない。このままでは、私のほうがおかしくなってしまう。
相談相手は一番仲のいい美咲にした。明るくて、おしゃべりで、少し鈍感だけれど悪い子ではない。
昼休み、人の少ない中庭へ誘うと美咲は二つ返事でついて来てくれた。
「珍しいじゃん。沙羅が相談なんて」
ベンチに座るなり、美咲が笑う。私はしばらく黙っていた。
どう説明すればいいのか分からない。井土くんのことが怖いと言うだけでは、全部私の思い込みだと思われるかもしれない。
「井土くんのことなんだけど」
「! うん!」
美咲は待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「ようやく付き合う決心ついた!?」
「ううん」
その反応で気持ちが重くなる。
「私たち、付き合ってないんだよ」
「うん。まだね」
「付き合うつもりもないし」
「まだ、ね」
そう言いながら、美咲は笑っていた。なにも分かっていない笑い方だった。
「井土くんが登下校勝手についてきたり」
「親切じゃん」
「私の予定を、お母さんに話したり」
「沙羅のお母さんと仲いいんだね」
「そういうことじゃなくて!」
少し声が大きくなる。美咲はキョトンと目を丸くした。私は深呼吸する。
「知らない番号からメッセージが来るの」
「え……と?」
「遠回りして帰ったのにまた会うし、ハンカチも落としてないのに持ってるし、ミルクティーだって、」
「ちょ、ちょっと沙羅? 何の話?」
やっぱり、分かってもらえない。
私は俯いて膝の上で手を握る。
「沙羅……」
美咲は少し考えてから、言葉を選ぶように言う。
「沙羅ってさ」
「うん」
「ほら。ちょっと、考えすぎるところあるじゃん」
その言葉は私を優しく絶望させた。
「井土くん、沙羅のこと大事にしてるだけじゃない?」
「でも、」
「沙羅のことが、好きだから」
「いつか井土くんの気持ちが沙羅にも分かるといいね」と、美咲は遠慮がちに微笑んだ。その見たことのない表情に、私は崖から突き落とされるような気分になる。
誰にも理解されない孤独感。友達にでさえ気を遣わせる。私はもう誰にも相談するべきではない。きっと、孤立を一層深めることになる。
美咲は私の背中をゆっくり撫でた。私はもう、何も言えなかった。
――その日の放課後。担任に呼ばれた私は職員室にいた。
「佐藤、言いにくかったらいいんだが」
「はい?」
「最近、井土と何かあったか?」
心臓が跳ね、体中を血が巡る。
やっと、やっと誰かが気付いてくれたんだ!
「実は」
担任は困ったようにこめかみをかく。
「井土が相談に来てな」
その言葉で私の心は再び凍えた。
「佐藤が最近、自分を避けている気がするって」
頭が痛い、目の前が白んでゆく。
「なにか嫌われるようなことをしたなら謝りたい、でも自分じゃ心当たりがないって」
先生は私を刺激しないよう努めて優しい声で続ける。
「お前たち、仲がいいだろ」
違う。
違う。
違う。
喉まで出かかった声は、口から出なかった。
「青春だな」と担任は笑う。
「井土もお前も、他人のことを考えられる人間だ。ちゃんと話し合えば解決する」
私は曖昧に頷き、フラフラと職員室を出た。
廊下に出ると窓際で井土くんが待ち構えるように立っていた。夕日が差し込み、逆光になってその表情は見えない。
「先生に呼ばれた?」
少し掠れた穏やかな声だった。
「……まあ」
「怒られた?」
「別に」
「よかった」
その笑顔は本当に安心したように見えた。演技には見えない。だから余計に分からない。
「ねえ沙羅さん」
抑揚なく名前を呼ばれる。
「最近、僕を避けてるよね」
私はなにも答えない。
「僕……なにかしちゃったかな」
その言葉は至極誠実に聞こえた。少なくとも、ここに他人がいたら間違いなく井土くんを庇うだろう。
でも。
本当に心当たりのない人は、そんな質問をしない。
「してない」
私は井土くんをにらみつけながら、小さく答える。
「避けてない」
嘘だった。そう言うしかなかった。
井土くんは僅かに片眉を上げて、それからいつものように笑った。
「ならよかった」
その一言で会話は終わった。そして私は決意した。この人から逃げなければいけないと。
でも、どこへ。
誰に何を説明すれば、この恐怖を信じてもらえるのだろう。
その日の夢では、私は箱に入ったまま井土くんに殴り殺された。




