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第3話 水没

 私は自分の名前があまり好きではない。


 『沙羅(さら)』というその響きは珍しいわけではないけれど、ありふれているわけでもなく。教室で名前を呼ばれれば、振り向くのは私だけ。


 だから、井土くんがその名前を呼ぶたびに、逃げ場がないような気持ちになる。


「おはよう、沙羅さん」


 昇降口で靴を履き替えていると、当たり前のように声をかけられた。


「……おはよ」


 最初は気のせいだと思っていた。クラスのみんながいる前では「佐藤(さとう)さん」と呼ぶのに。


 二人きりになると必ず「沙羅さん」になる。


 私は一度も「名前で呼んでいい」と言った覚えはないが、注意するほどのことでもないと思って、そのままにしていた。


 それがいけなかったのかもしれない。


 ――昼休み。美咲がお弁当を広げながら言った。


「ねえ、井土くんって最初から沙羅のこと名前で呼んでたっけ?」

「さあ」

「もう完全に彼氏じゃん」

「違う」

「照れんなって」


 美咲にしつこく肘で押され、じっとりとした嫌な気分になる。


「井土くんって他の女子はみんな名字なのに、沙羅だけ名前だもん」

「そうなの?」


 初めて知った。私は思わず箸を止める。


 そうだったんだ。だから違和感があったのか。


 私は特別になりたいわけじゃない。むしろ、その逆だ。できるだけ目立たずに過ごしたい。


 なのに、井土くんは私だけを目立たせる。



 放課後、担任に呼び止められて面倒な仕事を押し付けられた。


「佐藤、悪いけどプリントを生徒会室まで届けてくれないか」

「え、はい」


 仕方なく生徒会室の前まで来て扉をノックする。


「失礼します」


 中には数人の生徒がいた。その中に井土くんもいる。


「あ、うわさの沙羅さんだ」


 自然にそう呼ばれ、生徒会の先輩がニヤニヤと笑った。


「井土、彼女来たぞ」

「違います」

「冗談、冗談」


 井土くんは困ったように笑っている。


「もう先輩、誤解ですって」


 その「誤解」を作ったのは誰なんだろう。私はプリントを机に置いて、ぺこりと一礼だけして生徒会室を出た。


 事実でないことで盛り上がって、気持ち悪い。


 そのままトイレに寄ってから荷物を取りに席に戻ると、私の机の上に紙パックのミルクティーが置かれていた。


 温度はまだ冷たい。私が愛飲しているメーカーのものだし、美咲がくれたのかなと思い手を伸ばす。


 そしてそれを見つけて、思わずバッと手を引っ込めた。


『先生の手伝いお疲れさま』


 手書きでそう書かれた付箋が紙パックに貼られていた。見覚えのある筆跡に、私はクラクラする頭を抑える。


 多分、普通の子だったら喜ぶのだろう。しかし私は気味が悪くなり、紙パックを教室のゴミ箱に叩きつけて帰った。


 怖い、いやだ、怖い、怖い、いやだ。


 夕飯も喉を通らない。悪夢のせいで寝不足なことも相まって、意識がぼんやりとしている時間が増えている気がする。


「そういえば」


 そんな私を見て、母が思い出したように明るい声を出す。


「今度、うちで一緒に勉強する約束してるんでしょう?」


 私は覚えのないその約束に顔を上げた。


「そんなこと言ったっけ? 誰と? 美咲?」

「もう、井土くんとよ! スーパーでまた会ってね。挨拶してくれたのよ。あの子本当にいい子だわ〜」

「そんな約束、一度もしてないけど」

「え? でも井土くんがそう言って――」

「してないってば!!」


 思わず食卓を叩くと母の笑顔がひきつる。


 母でさえ、私の言うことより井土くんを信じる。この状況は明らかにおかしかった。


 それなのに誰も彼を疑わない。


「そんなに怒らなくてもいいじゃない。別に恥ずかしがることないのよ。私だって若い時は……あ、そうそう」


 母はブツブツ言いながら冷蔵庫から何かを取り出して私の前に置いた。


「はい、あんたこれ好きなんでしょ」


 それは教室のゴミ箱に捨てたはずのミルクティーだった。


 私はひゅっと息をのむ。


「どう、して」

「井土くんに聞いたのよ。『沙羅さんがよく飲んでます』って。あんた家だとジュースとか飲まないから知らなかったわ〜。母親よりあんたのこと知ってるのね」


 体の震えが止まらない。

 その日、私は夕食を全部吐いた。


 夜、眠れないままベッドに横になっているとスマホが震える。恐る恐る確認すると、この前とは違う知らない番号から、新しいメッセージが一件入っていた。


『ブロックはつらいからやめてね』


 私は即座に削除画面を開く。メッセージの消去と番号をブロックをし、ハアハアと荒い息を吐く。


 ふと窓を見ると、ひどい顔の自分がガラスに反射していた。


 私は窓にそっと手をかける。暗い住宅街。街灯の明かり。風に揺れる電線。

 誰もいない、いるはずがない。


 それでも私は、窓辺から離れることができなかった。



 また夢を見る。箱に詰められた私は真白い天井を見上げている。どうやら蓋は閉められていないらしい。あの窒息感は二度と味わいたくない。


 井土くんの鼻歌は相変わらずフォーレの鎮魂歌で、それに混じってパシャパシャという水音がする。


 音がする方を横目で見ると、井土くんがミルクティーの紙パックを開けて中身をすべて床に向けて捨てていた。


 井土くんは無表情で私を見つめながら、紙パックを逆さにしている。そこからミルクティーが滝のように永遠に出続けていて、私は泣いた。


 怒ってるんだ。井土くん。私がミルクティーを捨てたから。ああいう怒り方をするんだ。


 井土くんは私の心を読んだかのようににこりと笑い、ミルクティーを永続的に捨てながらこちらに歩み寄ってくる。


 箱の中にミルクティーが注がれる。ベージュ色の液体が私の首元で跳ね、ついには顔に直接注がれる。


 やめて! いらない! いらないの!!


 箱の中が甘い匂いで満たされ、私はミルクティーに水没した。フォーレが聴こえる。


 次はどんな殺され方をするのだろう。

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