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第2話 酸欠

 ――次の日、知らない番号からのメッセージは来なかった。それだけで安心してしまう自分がいる。


 勘違いだったのかもしれない。たまたま遠回りを見られていただけかもしれないし、ただの悪戯だったのかもしれない。


 そう思うことにした。そうでもしないと、学校へ行けなくなるから。


 朝のホームルームが始まる前の教室はいつも騒がしい。誰かが宿題を写し、誰かがお菓子を配り、誰かがSNSの話をしている。


 そんな中、私は窓際の席で文庫本を開いていた。


「また読んでる」


 顔を上げると、井土くんが微笑んでいる。


「うん」

「何読んでるの?」


 今読んでいる好きな作家の短編集を見せると、井土くんはにこりと笑って言う。


「ああ、その作家。僕も読むよ」


 そして「次の新刊も楽しみだよね」と続ける。私は、その作家の新刊が来月発売だったことを思い出した。


 誰にも話していない。予約を済ませてあることも。発売日を手帳に書き込んだことも。


「井土くんって結構本読むんだ?」

「そうだね。人並みには」


 はたから見たらなんでもないやりとりのはずなのに、私の手は震えていた。


 恐怖で色付けされた疑念。その小さな棘が刺さったまま抜けずに、ずっと心に留まっている。



 ――昼休み。購買へ向かう途中で、クラスメイトの美咲に腕を組まれた。


「ねえ」

「なに?」

「白状しなよ。付き合ってるんでしょ?」

「違う」

「でも井土くん、絶対あんたのこと好きじゃん」

「違うって」

「じゃあ、毎日一緒にいる理由は?」


 そう問われて私は答えられなかった。私が一緒にいたいわけじゃない。でも、それを説明しても信じてもらえない。


「羨ましいなあ」


 美咲はうっとりとした顔で言う。


「井土くんって完璧じゃん」


 完璧。そう、不自然なほどに。


「だから私じゃつり合わないでしょ?」

「それはほら、シンデレラという前例が」

「ちょっと、ひどくない?」


 笑いながら美咲に突っ込みを入れる。美咲と話すのは楽しい。話題が彼のことでなければどんなによかったか。


 放課後は図書室へ寄った。本を借りたかったのもあるが、とにかくひとりで静かな場所にいたかった。


 短編集を探していると、司書の先生が声を掛けてくる。


「あら、井土くんは?」

「……え?」

「今日は一緒じゃないの?」

「ち、違いますよ!」


 思ったより語気を荒げてしまい反省する。先生は少し驚いたような顔をしていた。


「ごめんなさいね。いつも一緒にいるからてっきり……」


 私は頭を下げて、その場を離れた。


 違う。違うのに。

 どうして誰もそう思ってくれないんだろう。


 図書室を出ると、生徒会室から話し合いをする声が聞こえてきて、私はほっと安堵する。生徒会で集まっているなら、井土くんもそこにいるはずだ。


 今日は会わずに帰れるかもしれない。そう思ったその時だった。


「探したよ」


 耳のすぐ後ろから聞こえる声。

 私は思わずその場で飛び上がった。


「きゃあ!」

「ごめんごめん、驚かせたね」


 眉を下げて笑う井土くんの姿に、私は心臓を抑えて縮こまる。


「い、井土くん。生徒会なんじゃ」

「ああ、あれは一年生だけ会議してるんだ」

「そう……」

「あ、そうだ。はいこれ」


 そう言って井土くんが差し出したのは、私のハンカチだった。


「教室に落ちてたよ」

「え、ありがとう」

「猫柄なんだね」


 私はそれを反射的に受け取った。家の近所の雑貨屋で買った、茶色い猫が刺繍されたハンカチ。確かに私のものだ。


「かわいい」


 井土くんは目を細めて笑う。たったそれだけなのに、なぜか心がざわつく。


 かわいいとかそんなことを言われたからじゃない。あのハンカチは、昨日持って来て制服のポケットに入れっぱなしだった。


 いつ落としたんだろう。

 ――本当に教室で拾ったのだろうか。


 それから井土くんと同じ電車で帰ってしばらくたった夜。自室のカーテンを閉めようとして何気なく外を見る。


 電柱の裏に、人が立っていた。


 距離があるから顔までは見えない。でも、背格好だけは見覚えがあった。


 次の瞬間、その人影は住宅街の奥へと消えた。


 見間違いかもしれない。そう思いながら勢いよくカーテンを閉める。スマホが震えた。また知らない番号だった。


『忘れ物には気をつけて』


 その短い一文に、私は画面を見つめたまま動けなくなる。私は震える指でその番号をブロックした。


「怖い」という感覚だけが、少しずつ現実を追い越していく。


 その夜見た夢は最悪だった。


 私はまたぴったりサイズに箱詰めされ、真っ白な部屋に横たわっている。


 体は動かないのに目だけ動く状態で、ご機嫌な井土くんの姿を目で追っていた。


 井土くんは持って来た白い花を一本ずつ私の周りに飾っていく。


 やめて。やめて。やめて。


 花で埋もれた私を優しく撫でてから、井土くんは箱に蓋をした。


 何も見えない、動けない。箱の中の酸素がなくなり、いずれ酸欠で死ぬ。


 井土くんの鼻歌だけが聴こえる。それは音楽の授業で習ったフォーレの鎮魂歌だった。

 

 ♢


 気分が悪いまま迎えた翌朝。教室に入ると、美咲が私を見るなり笑顔で手を振った。


「聞いたよ!」

「何を?」

「井土くん、この前あんたのお母さんに会ったんだって?」


 心臓が、ゆっくりと沈んでいく。


「もう家族公認じゃん」


 教室中に笑い声が広がる。その輪の中で、井土くんは困ったように笑っていた。


「軽くあいさつしただけだよ」


 否定もしない。肯定もしない。その曖昧な笑顔だけが、私の逃げ道を一つずつ塞いでいくように思えた。

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