第2話 酸欠
――次の日、知らない番号からのメッセージは来なかった。それだけで安心してしまう自分がいる。
勘違いだったのかもしれない。たまたま遠回りを見られていただけかもしれないし、ただの悪戯だったのかもしれない。
そう思うことにした。そうでもしないと、学校へ行けなくなるから。
朝のホームルームが始まる前の教室はいつも騒がしい。誰かが宿題を写し、誰かがお菓子を配り、誰かがSNSの話をしている。
そんな中、私は窓際の席で文庫本を開いていた。
「また読んでる」
顔を上げると、井土くんが微笑んでいる。
「うん」
「何読んでるの?」
今読んでいる好きな作家の短編集を見せると、井土くんはにこりと笑って言う。
「ああ、その作家。僕も読むよ」
そして「次の新刊も楽しみだよね」と続ける。私は、その作家の新刊が来月発売だったことを思い出した。
誰にも話していない。予約を済ませてあることも。発売日を手帳に書き込んだことも。
「井土くんって結構本読むんだ?」
「そうだね。人並みには」
はたから見たらなんでもないやりとりのはずなのに、私の手は震えていた。
恐怖で色付けされた疑念。その小さな棘が刺さったまま抜けずに、ずっと心に留まっている。
♢
――昼休み。購買へ向かう途中で、クラスメイトの美咲に腕を組まれた。
「ねえ」
「なに?」
「白状しなよ。付き合ってるんでしょ?」
「違う」
「でも井土くん、絶対あんたのこと好きじゃん」
「違うって」
「じゃあ、毎日一緒にいる理由は?」
そう問われて私は答えられなかった。私が一緒にいたいわけじゃない。でも、それを説明しても信じてもらえない。
「羨ましいなあ」
美咲はうっとりとした顔で言う。
「井土くんって完璧じゃん」
完璧。そう、不自然なほどに。
「だから私じゃつり合わないでしょ?」
「それはほら、シンデレラという前例が」
「ちょっと、ひどくない?」
笑いながら美咲に突っ込みを入れる。美咲と話すのは楽しい。話題が彼のことでなければどんなによかったか。
放課後は図書室へ寄った。本を借りたかったのもあるが、とにかくひとりで静かな場所にいたかった。
短編集を探していると、司書の先生が声を掛けてくる。
「あら、井土くんは?」
「……え?」
「今日は一緒じゃないの?」
「ち、違いますよ!」
思ったより語気を荒げてしまい反省する。先生は少し驚いたような顔をしていた。
「ごめんなさいね。いつも一緒にいるからてっきり……」
私は頭を下げて、その場を離れた。
違う。違うのに。
どうして誰もそう思ってくれないんだろう。
図書室を出ると、生徒会室から話し合いをする声が聞こえてきて、私はほっと安堵する。生徒会で集まっているなら、井土くんもそこにいるはずだ。
今日は会わずに帰れるかもしれない。そう思ったその時だった。
「探したよ」
耳のすぐ後ろから聞こえる声。
私は思わずその場で飛び上がった。
「きゃあ!」
「ごめんごめん、驚かせたね」
眉を下げて笑う井土くんの姿に、私は心臓を抑えて縮こまる。
「い、井土くん。生徒会なんじゃ」
「ああ、あれは一年生だけ会議してるんだ」
「そう……」
「あ、そうだ。はいこれ」
そう言って井土くんが差し出したのは、私のハンカチだった。
「教室に落ちてたよ」
「え、ありがとう」
「猫柄なんだね」
私はそれを反射的に受け取った。家の近所の雑貨屋で買った、茶色い猫が刺繍されたハンカチ。確かに私のものだ。
「かわいい」
井土くんは目を細めて笑う。たったそれだけなのに、なぜか心がざわつく。
かわいいとかそんなことを言われたからじゃない。あのハンカチは、昨日持って来て制服のポケットに入れっぱなしだった。
いつ落としたんだろう。
――本当に教室で拾ったのだろうか。
それから井土くんと同じ電車で帰ってしばらくたった夜。自室のカーテンを閉めようとして何気なく外を見る。
電柱の裏に、人が立っていた。
距離があるから顔までは見えない。でも、背格好だけは見覚えがあった。
次の瞬間、その人影は住宅街の奥へと消えた。
見間違いかもしれない。そう思いながら勢いよくカーテンを閉める。スマホが震えた。また知らない番号だった。
『忘れ物には気をつけて』
その短い一文に、私は画面を見つめたまま動けなくなる。私は震える指でその番号をブロックした。
「怖い」という感覚だけが、少しずつ現実を追い越していく。
その夜見た夢は最悪だった。
私はまたぴったりサイズに箱詰めされ、真っ白な部屋に横たわっている。
体は動かないのに目だけ動く状態で、ご機嫌な井土くんの姿を目で追っていた。
井土くんは持って来た白い花を一本ずつ私の周りに飾っていく。
やめて。やめて。やめて。
花で埋もれた私を優しく撫でてから、井土くんは箱に蓋をした。
何も見えない、動けない。箱の中の酸素がなくなり、いずれ酸欠で死ぬ。
井土くんの鼻歌だけが聴こえる。それは音楽の授業で習ったフォーレの鎮魂歌だった。
♢
気分が悪いまま迎えた翌朝。教室に入ると、美咲が私を見るなり笑顔で手を振った。
「聞いたよ!」
「何を?」
「井土くん、この前あんたのお母さんに会ったんだって?」
心臓が、ゆっくりと沈んでいく。
「もう家族公認じゃん」
教室中に笑い声が広がる。その輪の中で、井土くんは困ったように笑っていた。
「軽くあいさつしただけだよ」
否定もしない。肯定もしない。その曖昧な笑顔だけが、私の逃げ道を一つずつ塞いでいくように思えた。




