第1話 窒息
「逃げなくていいんだよ」と彼は言った。逃げ道なんて最初から与えてくれないくせに。
どんな拒絶も、どんな抵抗も、井土くんにとっては無意味でしかない。
♢
ひと言で表すならば、井土くんは素敵な人なんだと思う。少なくとも学校のみんなはそう言っている。
成績はいつも学年上位で、先生からの信頼も厚い。運動部の助っ人に呼ばれるくらい運動もできて、誰にでも分け隔てなく接する。
文化祭では実行委員長を務め、生徒会にも所属している。そして誰もが認める顔面の良さ。
だから女子から人気があるのは当然だし、男子からも嫌われていない。
つまりどうやら私だけらしい。
井土くんを見るたびに、背筋が寒くなるのは。
理由を聞かれても困る。特段なにかされたわけではない。暴言を吐かれたこともないし、嫌がらせを受けたこともない。
むしろ逆だ。困っていれば助けてくれるし、忘れ物をすれば貸してくれる。躓いたら当然のように支えてくれて、重い荷物を持っていれば、「手伝うよ」と微笑む。
だから誰に相談しても同じことを言われる。
「考えすぎじゃない?」
そうかもしれない。私だってそう思いたい。
――だけど。
井土くんは私を見つけるのが上手すぎる。
朝、昇降口で靴を履き替えていると、横から声をかけられる。
「おはよう」
「おはよう。井土くん」
「今日も早いね」
「うん」
短く返すと、それ以上は続かない会話。それなのに井土くんは気まずそうな顔ひとつせず、私の隣を歩き始める。
教室までの廊下が異様に長く感じる。沈黙が嫌いな人ならなにか話すのだろうけれど、私は無理に話題を探すのが苦手だ。
井土くんは黙ってただ隣を歩く。一定の歩幅、一定の距離で。まるで、それが当然みたいに。
教室へ入ると、数人の女子がこちらを見て笑った。
「また一緒じゃん」
「ほんと仲いいよね」
私は一瞬否定しようとしてやめた。否定すると余計に面白がられると分かっているからだ。
「付き合ってるの?」
「違う違う」
笑いながら返すと、隣で井土くんもくすくす笑っていた。
「やめろよー」
そうやって否定はする。どこか曖昧に。井土くんはいつもそうなのだ。否定が否定を帯びていない。
そのとき、またゾワリとしたものが私の背中を這った。
♢
――昼休み。
購買へ向かう途中で財布を忘れたことに気づく。
「あー、しまったなあ」
仕方なく教室へ戻ろうとすると、後ろから声をかけられる。井土くんだ。
「どうしたの?」
「財布忘れた」
「はいこれ」
なんの躊躇いもなく千円札が差し出された。
「いいって、悪いし」
「返してくれればいいから」
「……じゃあ、ありがとう」
人の目もあり、私は断りきれず受け取ってしまった。サンドウィッチを買って戻ると、クラスの女子がニヤニヤしながら絡んでくる。
「彼氏に奢ってもらった?」
「違うって」
「またまたあ」
下世話な笑い声が私を襲う。私は適当に笑って席へ着いた。井土くんは少し離れた席で友達と話している。
こちらを見ていない。なのに、見られている気がした。そんなことを思う自分がおかしいだけなのかもしれない。
自意識過剰、だろうか。
♢
――放課後。
部活に入っていない私は、友達にバイバイしてからそのまま帰宅する。校門を出たところで、ふと後ろから近づく足音に気づいた。
「一緒に帰ろうよ」
井土くんだ。
「ごめん、用事あるから」
私はとっさに嘘をつく。井土くんは「そうなんだ」とあっさり引き下がった。
私は少し安心して駅とは反対方向へ歩き出す。もちろん用事なんてない。
十分ほど住宅街を歩いてから、大回りして駅へ向かう。そして改札に着いたときだった。
「あれ」
聞き慣れた声が、耳を撫でる。
「また会ったね」
そこには井土くんが立っていた。
私は目を丸くし、思わず足を止める。
「帰ったんじゃ?」
「少し本屋に寄ってたんだ。今日雑誌の発売日だから」
そう言って笑う。
「同じ電車だよね? 乗ろうか」
うちの学校の生徒はだいたい同じ方向だから、電車が同じことはおかしくはない。
偶然だ。そう、偶然。私は自分に言い聞かせる。
最寄り駅で電車を降りると、井土くんも同じ駅で降りる。
「それじゃあね」
私は会釈だけして、早足でその場を去る。途中で振り返るともう井土くんの姿は見えなかった。私はどっと疲れ、思わず大きく息をついた。
家に着くと、母が言った。
「今日は彼氏と帰らなかったの?」
「彼氏なんていないけど」
「見かけたのよ。背の高い男の子と一緒にいるの」
「たまたまでしょ」
「そう?」
母は深く気にしていない様子だったので、私もそれ以上の説明はしなかった。
夕食を食べて、宿題をして、お風呂に入る。髪を乾かしていると、不意にスマホが震えた。
画面を見ると知らない番号からのショートメッセージが入っている。
『今日は遠回りして帰ったんだね』
ぴくりと指先が止まる。何度確認しても知らない番号。間違いメールかもしれないと思って画面を閉じようとしたその時、続けてもう一回スマホが振動する。
『おやすみなさい。髪はしっかり乾かして』
「なに、これ」
表示されるのは知らない番号だけ。送信者の名前は表示されない。私はスマホをベッドに投げて、部屋の隅で壁を背にへたり込んだ。
このメッセージの送信者は、私が髪を乾かしていることを知っている?
なぜ、どうして?
どこかから見ているとでも?
体の震えが止まらない。私は慌てて部屋の明かりを消して布団を被った。それっきりスマホが震えることはなかった。
その夜はおかしな夢を見た。
私はぴったりサイズの箱の中に寝かされていて、体は動かないのに目だけは動く状態だ。
ただの真っ白な空間をキョロキョロ見渡していると、視界に井土くんの姿が入ってきた。
井土くんは白い花束を持っていて、嬉しそうに頬を染めて私の胸の上に花束を置く。
そして私にキスをした。私は動けない。井土くんは私の顔を両手で挟み、口付けをさらに深くする。
動けない。逃げられない。井土くんの手が私の首にかかった。
「、う……っ」
井土くんは涙を流す私を見て、笑っている。
♢
翌朝、登校すると井土くんがいつものように昇降口に立っていた。
「おはよう」
それは夢と同じ笑顔で、私はつい目をそらす。そしてふと昨夜のメッセージを思い出した。
もちろん犯人の証拠はどこにもない。それなのに、なぜか私は彼の顔を見た瞬間に思ってしまった。
あのメッセージを送ったのは、この人だと。
根拠なんてない。ただその考えだけが、教室へ向かう廊下を歩く間も頭から離れなかった。
首筋が、やけに寒い。




