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 9. 第三の手

 大使館に戻る道、イリアは口数が少なかった。

 俺も、特に話しかけなかった。話しかける必要がなかった。考えていることは、おおむね同じだろうと思った。

 北区の路地を抜けて大使館の正門に近づいたとき、イリアが口を開いた。

「伯父上」

「なんだ」

「リアフォード殿下に、この条件をお伝えになるとき、私もご一緒してよろしいですか」

 俺は少し考えた。

「なぜだ」

「殿下がどうお答えになるか、自分の目で見ておきたいのです」

 まっすぐな答えだった。書記官としての記録のためでも、姪としての好奇心でもなかった。何かを判断するために、自分の目で見たい——そう言っている。

「いいだろう」俺は言った。「ただし、仕切るのは俺だ」

「承知しています。私はあくまで、補佐です」

 俺は頷いた。

 大使館に戻ると、ベルトが正門で待っていた。顔つきが昨日までと違った。緊張が一段、引いていた。クーデターの混乱が、一日経って、形を変えはじめていることを感じ取っているのだろう。

「ザックロード」ベルトは言った。「動きがあった」

「何だ」

「ドルグ・ハンが、館内の通路で書記官と接触しようとしているところを、見張りが捉えた。書記官の方は気づいていない様子だったが、ドルグの方は明らかに何かを伝えようとしていた」

 俺は少し足を止めた。

「捕らえたか」

「いや、距離を取って様子を見ている。お前の指示通り、泳がせている」

「その書記官の名は」

「現地採用のサーキニア人だ。名はリオン。長く勤めている男で、これまで疑わしい動きはなかった」

 俺は少し考えた。

 現地採用の書記官。長く大使館に勤めている。情報を持っていて、外との繋がりも持ちうる立場。リアフォード側からすれば、長期的に仕込んでおいた駒、ということもありうる。

「リオンの動きは、見張れているか」

「館内なら、ある程度は。ただ、館外に出られると追えない」

「館外に出る用事は」

「市場への買い出しが定例だ。明日の朝、出る予定になっている」

 俺は頷いた。

「俺が後をつける」

 ベルトは少し眉を上げた。

「自分が行くのではダメか」

「お前は顔が知られている。傭兵団の制服を着ているとなおさらだ」俺は言った。「俺は今、傭兵団の装束を着ていない。市場の客に見えるだろう」

 ベルトは少し考えてから、頷いた。

「わかった。だが、一人では行かせない。誰か後ろにつける」

「ヴェラ・ドルスに頼む」

 ベルトは少し意外そうな顔をした。

「王太子の近衛か」

「サーキニア人だ。市場では俺より目立たない。それに、王太子側の人間が動いていることが、向こうに見えれば、それも牽制になる」

「向こう、というのは」

「リアフォード殿下とは別の、もう一つの線だ」

 ベルトは俺をしばらく見ていた。それから、頷いた。

「お前の判事としての勘か」

「勘ではない。リアフォード殿下が話した内容と、ドルグの嘘が、噛み合っていない。リアフォード殿下は連合王国の資金援助しか受けていないと言った。しかし、館の中の動きを見ると、もう少し深い手が入っている気がする」

「リアフォードを疑うのか」

「リアフォードを疑うのではない」俺は言った。「リアフォードも気づいていない第三の手があるか、確かめたい」

 ベルトは少し黙ってから、言った。

「気をつけろ。ザック」

 俺は少し笑った。

「気をつける」


 その夜、俺は書記官室で、王太子の提案をまとめた書面を作っていた。

 リアフォードに渡すための文書だった。条件と期限と、署名を求める箇所。明朝、ヴェラ・ドルスを通じてリアフォードに届ける手はずになっていた。

 筆を置いて、肩を回した。窓の外は暗かった。星が見えていた。

 扉が控えめに叩かれた。

「どうぞ」

 イリアだった。手に小さな盆を持っていた。茶器が二つ載っていた。

「お疲れではないかと」

「ありがたい」

 イリアは盆を卓に置き、向かいの椅子に座った。茶を二人分注いだ。湯気が立った。冷えた書記官室に、暖かい匂いが広がった。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 茶を半分ほど飲んだとき、イリアが口を開いた。

「伯父上が傭兵団に入られた理由が、少しだけ、わかった気がします」

「ほう」

「皇族として動かない方が、できることが多い、という意味でですか」

 俺は少し考えた。

「半分は、そうだ」俺は言った。「もう半分は、ただ、遠くに行きたかったというだけだ」

「遠く、というのは」

「都から、政治から、義務から。具体的に何から、というよりも、ただ遠くへ」

 イリアは少し笑った。柔らかい笑い方だった。

「私も、似たようなことを思った時期がありました。冒険者をしていた頃です」

「だろうな」

「結局、戻ってきましたが」

「戻る場所があったのは、お前の選択だ」

 イリアは少し俯いた。茶器を両手で包んだ。

「伯父上は、戻られないのですか」

 その問いは、姪としての問いだった。書記官としても、皇族としてもない。

 俺は少し、答えに迷った。

「戻る、というのが、皇族として副都に住むということなら、戻らないだろう」俺は言った。「ただ、お前のような者と、こうして話す時間があるなら、それで十分だ」

 イリアは何も言わなかった。

 ただ、少しだけ、口の端が動いた。

 茶はまだ温かかった。


 翌朝、市場が開く前の薄明かりの中、俺は地味な旅装束に着替えて大使館を出た。

 北区の路地に入ったあたりで、ヴェラ・ドルスが合流した。彼女もまた、騎士の装束ではなく、市場へ買い物に来た庶民の格好をしていた。剣は腰に差さず、背中の荷袋の中に分解して入れているはずだ。

「アモス殿」

「来てくれて感謝します」

「殿下からの命です。それと──」ヴェラは少し目を伏せた。「私自身、お役に立ちたいと思いました」

 俺は少し彼女を見た。

「昨日、近衛の中にリアフォード殿下の者がいたことを、知らなかったと言いましたね」

「はい」

「あなたは、それを知っていれば止めた、と言った。今もそう思っていますか」

「思っています」

 迷いのない返事だった。それで十分だった。

 市場に着いたとき、リオンはすでにいた。中年の男だった。痩せ型で、目の動きが慎重だった。買い物籠を腕にかけて、野菜の屋台を見ている。普段の買い出しと変わらない様子だ。

 俺とヴェラは、少し離れた屋台で果物を見ているふりをして、リオンを視界に入れていた。

 リオンは野菜を買い、次に肉を買い、それから穀物の方へ歩いた。動きは普通だった。誰かと目を合わせる様子もない。

「普通の買い物に見えますが」ヴェラが小声で言った。

「最後まで見ましょう」

 穀物の屋台の前で、リオンは少し立ち止まった。店主と何かを話している。普通のやり取りに見えた。穀物を選び、量を確かめ、銅貨を渡した。

 しかし、その銅貨の渡し方に、わずかな違和感があった。

 リオンは銅貨を直接、店主の手に置いた。普通なら、銅貨は卓の上に置く。手と手で受け渡すのは、何かを一緒に渡すときの動きだ。

 俺はヴェラに目で合図した。彼女も気づいていた。

 リオンが屋台を離れ、別の方向に歩きはじめた。俺たちは少し距離を取って、店主を見ていた。店主は別の客の対応をしながら、左手をエプロンのポケットに入れた。何かを確認するような動きだった。

「あの店主が、受け取り手ですね」ヴェラが言った。

「そう見えます。しかし、そこで終わりではないかもしれない」

 俺たちは、しばらく店主を見続けた。客の波が引いた頃合いを見計らって、店主は店の奥に引っ込んだ。隣の店主に何か声をかけてから、市場の外に向かって歩きはじめた。

「追います」

「私が追う」俺は言った。「あなたはリオンを追ってください。大使館に戻る道筋を、念のため確認したい」

 ヴェラは頷き、人混みの中に消えた。

 俺は店主の後を、十歩ほどの距離を保ちながら追った。店主は王城のある丘の方角ではなく、その逆方向──王都の南区の方へ歩いていた。

 南区。商業区の外れ。倉庫が並ぶ一画だ。

 店主は、その中の一つの倉庫の前で立ち止まった。周囲を確認してから、扉を叩いた。三回、間隔を空けて、もう一回。合言葉のような叩き方だった。

 扉が中から開いた。店主が中に入った。扉が閉まった。

 俺はその倉庫を、しばらく観察した。看板はない。窓は塞がれている。普通の倉庫に見える。

 しかし、扉の前に小さく、紋様が刻まれていた。

 俺はその紋様を、頭の中で写し取った。

 昨夜、リアフォードから受け取った封書の封蝋とは違った。

 別の紋様だった。

 第三の手の、印だった。

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