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 10. 情報漏洩

 大使館に戻ったのは、昼前だった。

 ヴェラは先に戻っていた。リオンは普通に大使館に戻り、買ってきた品物を厨房に届けて、自分の仕事に戻ったという。表面上は何の異常もなかった。

「店主が入った倉庫に、紋様が刻まれていた」俺はイリアに、紙に紋様を写しながら言った。「これに見覚えはあるか」

 イリアは紙を覗き込んだ。少し首を傾げた。

「私は知りません。ただ──」

「ただ、何だ」

「大使館の古い記録に、似たような紋様があったかもしれません。確認させてください」

 イリアは書庫に向かった。俺は書記官室で、紋様を別の紙にも写した。記録として残すためだった。

 しばらくして、イリアが戻ってきた。一冊の古い帳簿を持っていた。

「ありました」

 帳簿を開いて、ある頁を示した。そこには、俺が写した紋様と、よく似た紋様が描かれていた。

「これは、何の記録だ」

「五十年ほど前、帝国とサーキニアの間で問題になった商会の記録です。当時、密貿易を行っていたとされる商会の印です」

「商会の名は」

「コーレン商会」

 俺はイリアを見た。

「コーレン」

「はい」

 ヴァルク・コーレン。リアフォードの財務を取り仕切っていた側近。

 その家系の商会が、五十年前から、密貿易の印として、この紋様を使っていた。

 線が、繋がりはじめていた。


「五十年前のコーレン商会の件は、どう決着したのか」俺はイリアに聞いた。

 イリアは帳簿の頁をめくった。

「当時、サーキニアの宮廷で問題になり、コーレン商会は表向きは解散させられました。代わりに、ヴァルク・コーレンの祖父にあたる人物が、王家の財務に登用されました」

「処罰の代わりに、王家の中に取り込まれた、ということか」

「そう読み取れます」

 俺は少し考えた。

 密貿易を行っていた商会の家系が、その罪を問われずに、王家の財務に入った。表向きの処罰の裏で、実質的には地位を得ている。コーレン家は、五十年前から、サーキニアの宮廷の影で何かを動かしてきた可能性がある。

 そしてその家系の現当主であるヴァルク・コーレンが、リアフォードの財務を取り仕切っていた。

「リアフォード殿下は、ヴァルク・コーレンを、どこまで信用しているのだろうか」

 俺は声に出して言った。問いかけというよりも、独り言だった。

「殿下ご自身も、おそらく完全には信用していないでしょう」イリアは言った。「ただ、財務を任せられるほどには信頼している。その距離感が、危ういのだと思います」

「同感だ」

 俺は窓の外を見た。昼の光が、王城の白い石壁を照らしていた。

 今日中に、リアフォードに会いに行く必要があった。王太子の提案を伝えるためでもあるが、もう一つ、確かめなければならないことがあった。ヴァルク・コーレンのことを、リアフォードはどこまで知っているのか。

 ただし、ここで急いではいけない、と俺は自分に言い聞かせた。

 倉庫の紋様。コーレン商会の過去。リオンの動き。これらを一気に突きつければ、リアフォードは自分の側近に対する信頼を失う。それは、サーキニアの宮廷の混乱を深めるだけだ。今、リアフォードが必要としているのは、混乱ではなく、整理だった。

 俺は卓に手をつき、考えを整理した。

「イリア」

「はい」

「リアフォード殿下に伝えるのは、王太子殿下の提案だけにしておく。コーレン家のことは、もう少し調べてから話す」

「承知しました」

「それと、ヴァルク・コーレン本人の動きを、もう少し確かめたい。今、彼はどこにいる」

「王城の中だと、王太子殿下の話では」

「だろうな。ただ、彼が城の中で大人しくしているとは限らない」

 イリアは少し考えた。

「大使館の現地採用の中で、ヴァルク・コーレンと面識のある者を、当たってみますか」

「頼む。ただし、リオンには気づかれないように」

「承知しました」

 イリアが書記官室を出ていった。

 俺は卓の上の紋様を見つめた。

 単純な構造の紋様だった。円の中に、三本の線が交差している。それだけのものだ。しかし、知っている者には意味があり、知らない者には何でもない。

 判事の仕事は、知らない者に意味を見せることだ、と俺は思った。

 ただし、見せる前に、自分が確実に意味を理解していなければならない。


 午後、ヴェラ・ドルスを通じて、リアフォードに王太子の提案を伝えた。書面で送った。記録を作る期間として一週間、その間の身柄は王城内に置く、記録の確認は俺とイリアが行う、という条件だった。

 返答は早かった。日が暮れる前に、ヴェラを通じて承諾の書面が戻ってきた。

 俺は書面を読み、署名を確認した。リアフォードの私印が押されていた。

「明日から、王城に通うことになるな」俺はベルトに言った。

「一人でか」

「いや、イリアも連れていく。記録の整理には、書記官の目が必要だ」

「警備はどうする。城の中だぞ」

「リアフォード殿下の手の者、王太子側の者、それと中立の者。三方の目が入る。むしろ、それが互いに牽制になって、安全だろう」

「お前らしい考え方だな」

「経験則だ」

 ベルトは少し笑った。

「気をつけろ」

「お前もな」

 その夜、俺は再び書記官室で書類を整理していた。一週間、王城に通うとなると、大使館での仕事の段取りも組み直す必要があった。ベルトとの連絡、デルノフ卿への報告、本国への定期通信。それぞれの体制を、イリアと相談しながら決めた。

 窓の外で、夜風が吹いていた。

 書類を一通りまとめ終えたとき、扉が叩かれた。

「どうぞ」

 ベルトだった。顔が緊張していた。

「ザック。もう一つ、動きがあった」

「何だ」

「リオンが、夜のうちに館を抜け出そうとしている。今、見張りが報告してきた」

 俺は立ち上がった。

「どうする。捕らえるか」

「いや、泳がせる。ただし、今度は俺が後を追う」

「夜だぞ。俺が行こう」

「お前は大使館の警備を頼む。リオンが抜け出すなら、その間に他の動きがあるかもしれない」

 ベルトは頷いた。

「わかった。気をつけろ」

 俺は短剣を腰に差し、上着を羽織った。

 王城の方角は、夜の闇に沈んでいた。星明かりの中で、城の輪郭だけが、わずかに浮かんでいた。

 動きはじめていたものが、加速しはじめている。

 俺はそれを、肌で感じていた。


 大使館の裏口から、リオンが出てきたのは、夜半過ぎのことだった。

 俺は通りの向かいの家屋の影に身を潜めて、リオンを目で追った。リオンは黒い外套を羽織り、足音を消すように歩いていた。普段の書記官とはまったく別の動きだった。経験のある者の動きだ、と俺は思った。

 リオンは北区の路地を抜けて、王城のある丘の方角ではなく、南区の方へ向かった。昼に俺がリオンを追ったときと、ほぼ同じ経路を辿っていた。

 しかし、今夜は途中で道を逸れた。

 倉庫街の手前で、リオンは細い路地に入った。俺は距離を取って追った。夜の路地は暗かった。月明かりだけが頼りだった。

 路地の奥に、小さな建物があった。一階建ての石造りで、看板はなかった。リオンは扉の前で、軽く合図した。三回、間隔を空けて、もう一回。昼に倉庫の店主がやっていたのと同じ叩き方だった。

 扉が中から開いた。リオンが中に入った。扉が閉まった。

 俺は近くの建物の陰に身を寄せ、しばらく観察した。窓には明かりが灯っていた。中で複数の人が動いている気配がある。

 建物の壁を慎重に伝って、窓の下まで近づいた。耳を澄ませた。

 声が聞こえた。低い声で、複数人だった。会話の内容までは聞き取れないが、いくつかの単語が拾えた。

「……明日の朝……」

「……記録が始まる前に……」

「……アモス、という男……」

 俺は表情を変えなかった。

 俺の名前が出ている。それも、ザックロード・アモスという、公職を離れた皇族としての名前で。

 リアフォードと王太子の合意を、彼らは知っている。記録の作成が明日から始まることも。そして、その記録の確認を行うのが俺だということも。

 動きは早かった。リアフォードと王太子の合意が交わされたのは、今日の夕方だ。それから半日も経たないうちに、第三の手はそれを掴んでいる。

 大使館の中に、もう一人いる。

 リオンだけではなかった。

 俺は壁から離れ、来た道を戻りはじめた。建物の影に隠れながら、慎重に距離を取った。

 路地を抜け、表通りに出たところで、俺は一度立ち止まった。

 見られていた、と思った。

 明確な視線を感じたわけではない。しかし、長く生きていれば、こういう感覚は鋭くなる。背中の毛が逆立つような、わずかな違和感。

 俺は表通りを進みながら、店の窓のガラスに映る後方を確認した。

 誰もいなかった。

 しかし、感覚は消えなかった。

 大使館に戻る道筋を変えた。本来の道ではなく、北西区の方へ大きく回った。途中で何度か方向を変え、人通りの多い夜の酒場街を抜けた。

 見られている感覚は、続いていた。

 追われている、というよりも、確認されている、という感じだった。距離を保ったまま、俺がどこへ行くかを見ている。

 俺は急がなかった。急げば、向こうも警戒する。普通の歩調を保った。

 大使館の正門に着いたとき、ベルトが一人で立っていた。剣に手をかけたまま、通りの両側を見ていた。

「戻ったか」ベルトは小声で言った。

「ああ。何かあったか」

「裏口の見張りが、不審な男を見たと報告してきた。お前が出ていった少し後、館の裏手を一周していたそうだ」

 俺は頷いた。

「俺も見られていた。距離を保って、確認されていた」

「相手は」

「わからない。ただ、慣れた者だ」

 ベルトは少し顔を曇らせた。

「中に入るぞ」

 俺たちは正門を抜けた。ベルトが扉を内側から閉めた。

 書記官室に入ると、イリアがまだ起きていた。卓の上に、書類を広げている。ベルトと俺が入ると、顔を上げた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 俺は卓に着いた。ベルトも、別の椅子に座った。

「どうでしたか」イリアが聞いた。

「リオンは、ある建物に入った。中で、明日の記録作成のことが話されていた」俺は言った。「しかも、俺の名前が出ていた」

 イリアの眉が、少しだけ動いた。

「大使館の中に、もう一人いる」

「俺もそう判断した」

「誰か、見当はつきますか」

 俺は少し考えた。

「リオンと接触していたドルグ・ハンは、傭兵団としての監視下にある。大使館の他の現地採用は、リオンほど長く勤めている者は少ない。しかし──」

 俺は言葉を切った。

「しかし、何ですか」

「現地採用以外、という可能性もある」

 イリアの顔が、少し固くなった。

「帝国籍の者の中にも、ということですか」

「可能性は否定できない」

 ベルトが小さく息を吐いた。

「厄介だな」

「厄介だ」俺は言った。「だが、確かめる方法がある」

「どうする」

「明日、王城に行く前に、大使館の中で一つ仕掛けを作る。情報を流して、それがどこへ漏れるかを見る」

 イリアは少し考えた。

「具体的には」

「複数の者に、それぞれ少しずつ違う情報を流す。明日の予定について、少しずつ違う話をする。王城に着いたとき、向こうがどの情報を知っているかで、誰が漏らしたかがわかる」

 ベルトが頷いた。

「判事らしい仕掛けだ」

 俺は少し笑った。

「経験則だ」

 イリアは書類を片付けはじめた。

「では、明日の朝、私が誰に何を伝えるか、今夜のうちに決めましょう」

「頼む」

 俺は窓の外を見た。

 夜は、まだ続いていた。月が高かった。

 大使館の中に、目に見えない線が、もう一本走っている。

 明日、それが見えてくるはずだった。

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