7. 王弟との会談
ヴェラ・ドルスからの返答は、夕方前に届いた。
イリアが書き取った内容を持ってきた。東廊下の二階、南寄りの窓から東門まで、百二十歩。北寄りの窓からなら、百五十歩以上。
「百二十歩」俺は言った。
「はい」
「夜、松明の明かりで、百二十歩先の門の開閉を見た。そう言っているわけだ」
イリアは黙っていた。意見を言う前に、俺の考えを聞こうとしている。
「見えなくはない」俺は言った。「ただ、内側から開いたと断言できるほど鮮明には見えない距離だ。ドルグは自分で見たと言った。確信を持った言い方だった」
「つまり」
「見ていないか、あるいは誰かから聞いた話を自分で見たことにしているか、どちらかだ」
イリアは少し間を置いた。
「どちらだと思いますか」
「まだわからない」俺は言った。「ただ、どちらにせよ、ドルグを誰かが動かしているなら、その誰かがまだ近くにいる可能性がある」
「大使館の中に、ということですか」
「あるいは、外と繋がっている者がいる。確かめる方法が一つある」
「何ですか」
「ドルグを少し泳がせる。監視はするが、拘束はしない。動きを見る」
イリアは頷いた。しかし、少し眉を寄せた。
「リスクがあります。大使館の中の情報が、外に漏れる可能性があります」
「そうだな」俺は言った。「だから、ドルグに見せる情報を選ぶ。本当に知られて困ることは、ドルグの耳に入らないようにする」
「具体的には」
「ヴァルク・コーレンの調査状況は伏せる。王太子殿下との接触も、表には出さない。ドルグが知ることができるのは、大使館が中立を保ち、情報を集めているという程度にしておく」
「承知しました」イリアは手帳に書き込んだ。「ベルトに伝えます」
イリアが動きはじめた。俺はその場に残り、中庭を見渡した。
夕暮れが近づいていた。空の色が変わりはじめている。中庭の市民たちは、昼間より落ち着いた様子だった。子供たちは眠そうにしていた。ガルフの妻と娘たちも、午後のうちに合流していた。ガルフが館の入口で出迎え、娘の頭を抱えていた。
日常の欠片が、非常の空間に混じり込んでいる。
そういうものだ、と俺は思った。戦場でも、籠城でも、人は食べ、眠り、子供は遊ぶ。それが続く限り、人は動ける。
ベルトが近づいてきた。
「ザックロード。一つ報告がある」
「なんだ」
「正門の外に、使いの者が来ている。王城からだ」
俺は少し顔を向けた。
「王城から。リアフォード・サーキニア王弟殿下の使いか」
「そのようだ。お前に面会を求めているとのことだ」
俺はしばらく考えた。
リアフォードから接触してきた。王太子から俺の動きを察知したのか。あるいは、別のルートで俺の存在を知ったのか。いずれにせよ、向こうが動いてきたのは早かった。
「通せ。ただし、一人だけだ。供は門の外で待たせておけ」
「了解だ」
使いの者が中庭に入ってきた。若い男だった。二十代前半か。騎士の装束ではなく、地味な旅装束を着ている。顔に緊張が出ていた。使い慣れていない者だ、と俺は思った。
「ザックロード・アモス殿ですか」
「そうだ」
男は懐から封書を取り出した。封蝋が押されている。俺はそれを受け取り、封蝋を見た。サーキニア王家の紋章ではなかった。見覚えのない紋様だった。リアフォードの私印だろう。
「返事は必要か」
「明朝までに、いただけると」
「わかった。今夜中に考える」
使いの者が去った後、俺は封書を手に書記官室に向かった。
イリアが振り返った。封書を見て、目が動いた。
「王城からか」俺は言った。「リアフォード殿下の私印だ」
イリアは何も言わなかった。
俺は封を切り、中の紙を広げた。短い文章だった。
──アモス殿。あなたが王太子と接触したことは知っています。あなたが何者かも、見当がついています。一度、直接お話ししたい。明日の朝、場所はあなたが指定してください。私は一人で行きます。
俺は紙を置いた。
向こうも、会いたいと言っている。王太子と同じだった。王太子は俺を名指しで呼んだ。リアフォードは俺から場所を指定させようとしている。
どちらが優位に立ちたいか、ではない。
リアフォードは、俺に主導権を渡している。それが何を意味するのか。
「イリア」
「はい」
「あなたなら、この文面をどう読む」
イリアは紙を手に取り、しばらく読んだ。それから、顔を上げた。
「警戒していません」イリアは言った。「罠を仕掛けるつもりなら、場所の指定権を相手に渡しません。おそらく、本当に話したいのだと思います」
「俺も同じように読んだ」
「ただ」イリアは少し言葉を選んだ。「王太子殿下には話せなかったことを、あなたに話したい、という意味かもしれません」
俺はイリアを見た。
「続けてくれ」
「王太子殿下は身内です。何を言っても、政治的な判断が入る。でも、帝国の皇族で、しかし公職を離れた傭兵団員なら、純粋に話を聞いてくれると思っているのかもしれません」
俺はしばらく黙っていた。
イリアの読みは鋭かった。そして、おそらく正しかった。
「場所はどこにするつもりですか」俺は聞いた。自分に向けた問いでもあった。
「大使館の中がよいかと思います」イリアは言った。「中立の場所で、伯父上がコントロールできる空間です。リアフォード殿下も、それを承知で場所の指定を委ねているはずです」
俺は頷いた。
「そうするか」
窓の外に目をやった。空はすっかり赤くなっていた。王城の輪郭が夕陽に黒く浮かんでいた。
明日、リアフォードと会う。
クーデターを起こした男が、何を話したいのか。帝国の支配からの独立を信じる男が、帝国の皇族に何を求めているのか。
夜が来ていた。
翌朝、夜明けから一刻ほど経った頃、リアフォード・サーキニアは大使館の門をくぐった。
本当に一人だった。
俺は中庭で待っていた。リアフォードが入ってきたのを見て、まず体を確認した。武器は帯びていない。旅装束は質素だが仕立てがいい。歩き方に迷いがない。昨夜の封書と同じく、警戒した様子がなかった。
俺より少し背が低い。三十代半ばか。目が落ち着いている。王太子とは顔立ちが似ていないが、どこか同じ空気を持っていた。育ちの良さ、とでも言うべきものだ。
「ザックロード・アモス殿」リアフォードは俺を見て言った。「会ってくれてありがとうございます、と言うべきか。巻き込んでしまって申し訳ない、と言うべきか」
「どちらでも構いません」俺は言った。「中へどうぞ」
物置ではなく、今日は応接間を使った。大使館の中では最も整った部屋だ。椅子と卓がある。イリアが茶を用意していた。二人が座ると、イリアは静かに部屋を出た。
リアフォードは茶を一口飲んだ。
「単刀直入に話します」
「そうしてください」
「私はクーデターに失敗しました」リアフォードは静かに言った。「国王陛下と王太子殿下が城外に出た時点で、目的の半分も達せられなかった。今、城にいる者たちは私に従っていますが、それがいつまで続くかはわかりません」
俺は黙って聞いていた。
「私が求めていたのは、帝国からの真の独立です。それは今も変わっていません」リアフォードは続けた。「しかし、結果がついてこなかった。クーデターでは、民が傷つく。商人が逃げる。経済が止まる。長く続けば、サーキニアそのものが弱る。だからこそ、早く収束すべきなのに、それに失敗した」
「失敗したとことを認めた、ということですか?」
俺の問いは、わずかに皮肉を含んでいた。意図したわけではなかったが、自然にそうなった。
リアフォードは少し笑った。怒りではなかった。
「潔く認めた、といういと嘘になります。だからこそ、今回のクーデターを失敗と認めるのにいくらか時間がかかった」
俺はその答えを聞きながら、リアフォードの顔を見ていた。
嘘ではなかった。魔法具を使うまでもなかった。経験のある判事は、相手の目と声で大体わかる。リアフォードは今、自分の判断を後悔していない。
厄介な男だ、と俺は思った。単純な悪役なら話が早い。
「私に何を求めますか」俺は聞いた。
「二つあります」リアフォードは指を二本立てた。「一つは、私のしばしの間の助命。もう一つは、私の信念を、別の形で生かしてほしいということです」
「順番に聞きます。しばしの間の助命というのは」
「クーデターの首謀者として、私は処刑されるでしょう。それは当然の結果です。ただ、処刑される前に、私が知っていることを兄上に伝えたい。連合王国の動き、私の側近たちの中にいる別の意図を持った者たちのこと、サーキニアの内政の歪みのこと。そういったものを、整理して残したい」
「それは、王太子殿下に直接伝えればいいことでは」
「国王陛下と王太子殿下は、私を信じてくれません」リアフォードは静かに言った。「クーデターを起こした者の言葉を、額面通りには受け取れない。それは当然です。だから、第三者に──帝国の皇族でありながら帝国の意思を背負わない、あなたのような立場の方に──仲介していただきたいのです」
俺は少し考えた。
リアフォードの言うことは、筋が通っていた。クーデターを起こした男の言葉を、王太子は警戒して受け取るしかない。間に立つ者がいれば、情報の整理がしやすくなる。
「もう一つの、信念を別の形で生かしてほしい、というのは」
「私の死後、国王陛下が帝国との関係を見直す機会があれば、その時に私の遺した記録を使ってほしい、ということです」リアフォードは言った。「今の私がこんなことを言うとおかしく聞こえるかもしれませんが、独立を急ぐべきではないと、私は思います。しかし、いつか、サーキニアが帝国と対等な関係を結ぶべき日は来るでしょう。その日のために、何が必要かを、私は知っている範囲で書き残したい」
俺はリアフォードを見た。
この男は、自分の死を前提に話している。それも、感傷的にではなく、計算の中に組み込んでいる。クーデターという手段を選んだことを後悔しながら、それでも自分が何を残せるかを考えている。
恨むべき敵の顔ではなかった。
「一つ、確かめさせてください」俺は言った。「連合王国とは、どこまで繋がっていますか」
「資金援助を受けました。それだけです。連合王国は私を駒として使い、帝国を揺さぶりたいだけだと、私も理解しています」
「あなたは、それを承知の上で利用した」
「はい」
「連合王国の側から、別の働きかけは」
「クーデターが成功した場合、貿易協定の見直しを持ちかける、という話はありました。しかし、書面ではなく、口約束です。実行されるかどうかは、私にもわかりません」
俺は頷いた。
ヴァルク・コーレンの名前を出すべきか、迷った。しかし、ここで出すのは早い、と判断した。リアフォードがどこまで自分の側近を信じているか、まだわからない。
「わかりました」俺は言った。「あなたの依頼は、王太子殿下に伝えます。受けるかどうかは、王太子殿下が決めることです」
「それで構いません」
リアフォードは少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
「もう一つだけ、聞かせてください」俺は言った。「あなたが城を出ることは、できますか」
「できます。ただし、私が出れば、城に残った者たちが動揺します。投降するか、抵抗を続けるか、判断が割れる」
「では、いつまで城にいるつもりですか」
「国王陛下が決断するまでです」リアフォードは言った。「国王陛下が私を呼び戻し、罪を問うと言えば、私はそこへ向かう。それまでは、城の中の者たちを抑える役目を果たします」
俺はリアフォードを見た。
この男なりの、最後の責任の取り方なのだろう。クーデターを起こして、失敗して、それでも残った者たちを混乱させないために、自分が城に残る。処刑されるまでの時間を、整理に使う。
「一つだけ、頼んでもいいですか」リアフォードは言った。
「なんです」
「国王陛下に、急がないでほしいと伝えてください。私は逃げません。城の中で、待っています」
俺はそれを聞いて、しばらく黙っていた。
「伝えます」
リアフォードは深く頭を下げた。それから立ち上がり、応接間を出た。
俺は窓際に立ち、リアフォードが大使館の門を出ていくのを見送った。供は数人、門の外に待っていた。リアフォードはその中に入り、王城の方角へ歩きはじめた。
俺はその背中を見ていた。
厄介な男だ、と俺はもう一度思った。単純な敵なら、楽だった。




