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 35. サーキニアの異変

 その夜だった。


 下屋敷の客間で、俺は眠りについていた。長い旅の疲れが溜まっていたのだろう。珍しく、深い眠りだった。


 扉を叩く音で、目が覚めた。


 激しい叩き方だった。


「ザックロード様」使用人の声だった。「皇太子宮より、急使がまいっております」


 俺は跳ね起きた。


 上着を羽織り、扉を開けた。使用人の後ろに、皇太子宮の紋章入りの制服を着た伝令が立っていた。息が上がっていた。走ってきたのだろう。


「ザックロード・アモス殿」伝令は言った。「皇太子殿下より、至急、皇太子宮へお越しいただきたいとのことです」


「何があった」


「詳細は、殿下から直接とのことです。ただ──」伝令は少し、声を落とした。「サーキニアから、緊急の魔法通信が入りました」


 サーキニア。


 俺の中で、何かが動いた。


 廊下の奥から、足音が二つ聞こえた。イリアと、フローラだった。二人とも、目が覚めていた。


「伯父上」イリアが言った。「何が」


「わからない。スロックのところへ行く」


「私もご一緒します」


「フローラ」俺は妹を見た。「母上のことは頼んだ」


「わかった」フローラは頷いた。顔は少し青かったが、声は落ち着いていた。「気をつけて」


 俺とイリアは、夜の副都を走った。



 皇太子宮に着いたのは、深夜だった。


 宮の中は、明かりが煌々と灯っていた。廊下を、書記官や伝令が走り回っていた。平時の静けさは、消えていた。


 執務室に通された。


 スロックが卓に向かっていた。顔に、これまで見たことのない緊張があった。


「兄上」スロックは俺を見て言った。建前を崩していた。今は、それどころではないのだろう。「座ってください。説明します」


 俺は座った。イリアも座った。


「一時間前、サーキニアから緊急の魔法通信が届きました」スロックは卓の上の書面を手に取った。「サーキニア南部のダンジョンが、暴走しました」


「暴走」


「魔物の溢出です。ダンジョンの中から、大量の魔物が地上に溢れ出している。サーキニア王都から南西に三日ほどの位置にあるダンジョンです」


 俺は頭の中で、サーキニアの地図を思い描いた。南西の位置。あの辺りは、人口の少ない農村地帯だったはずだ。しかし、街道が通っている。


「サーキニア軍は」


「出動しました。しかし、抑え込みに失敗しています」


「失敗、というのは」


「魔物の数が、予想を大幅に上回っています。通信によれば、溢出した魔物は数百体。サーキニア軍の第二師団が出動しましたが、前線が崩れました。現在、後退して防衛線を再構築しているとのことです」


 俺は少し、息を吐いた。


 数百体の溢出。それは、通常の暴走ではなかった。旧魔王領のダンジョンですら、そこまでの規模の暴走は稀だ。サーキニアのダンジョンで起きたのなら、何かが根本的におかしい。


「帝国への要請は」


「サーキニア王太子殿下から、正式な支援要請が出ています。不可侵条約の枠組みの中で、傭兵団の出動を求めるものです」


 傭兵団。


 俺の所属する、皇室傭兵団。


「サーキニアに駐留している傭兵団への出動要請は」


「すでに出ています」スロックは言った。「戦団長が指揮を執り、出動の準備を進めています。ベルトも、その下で動いています。ただし──」


 スロックは少し、言葉を切った。


「ただし、何だ」


「戦団の戦務幕僚である兄上が不在です。戦団長は戦闘指揮に集中しなければならない。しかし、サーキニア軍との連携調整、民間人の避難の判断、暴走の状況の評価と本国への報告——こうした幕僚の仕事を担える者が、今の戦団にはいない」


 俺は、しばらく黙っていた。


 引継ぎは、出立前にしてきた。戦務幕僚の業務は副官に任せてあった。しかし、ダンジョンの暴走は、副官の手に負える規模の仕事ではなかった。戦団長を補佐し、外部との調整を取り仕切る幕僚が必要だった。


「スロック」俺は言った。


「はい」


「俺が戻る必要があるか」


 スロックは俺を見た。弟の目だった。しかし、同時に、宰相の目でもあった。


「兄上に、お願いしたいことがあります」


「言ってくれ」


「サーキニアに戻って、傭兵団の戦務幕僚として、暴走の対処に当たっていただきたい。戦団長の補佐と、サーキニア軍との連携調整。有事ですから、判事ではなく、幕僚としての仕事です。ただし、これは皇太子としての命令ではありません。要請です」


「わかっている」


「もう一つ」スロックは少し、間を置いた。「幕僚の仕事とは別に、個人として、暴走の原因を気にかけてほしい。サーキニアのダンジョンで、この規模の暴走が起きるのは、異常です。何かが、引き金になっている可能性がある」


 俺はスロックを見た。


 弟は、同じことを考えていた。


 コーレン家。ジェフール。魔王の遺産。サーキニア王家の宝物庫。


 クーデターが終わり、リアフォードに死刑猶予の判決が下され、サーキニアは平穏を取り戻しつつあった。そのタイミングで、ダンジョンが暴走した。偶然か。


「俺も、同じことを考えている」俺は言った。


「やはり」


「暴走が自然発生なら、幕僚として戦団長を補佐し、対処すればいい。しかし、何かが引き金になっているなら、幕僚の仕事の傍ら、個人として原因を追うことになる」


「兄上」スロックは言った。「イリアも、一緒に行ってもらえますか」


 俺はイリアを見た。イリアは、すでに覚悟の顔をしていた。


「もちろんです」イリアは言った。


「サーキニアまでの最短ルートは」俺は聞いた。


「副都から大公国を経由して、サーキニアへ陸路で。通常なら十日以上かかりますが、駅馬の乗り継ぎを手配すれば、七日に短縮できます」


「手配してくれ」


「すでに、手配を始めています」


 俺は少し、笑った。


「先読みが早いな」


「兄上なら、行くと言うと思いました」


 スロックも、少し笑った。


「出立は」


「明日の朝です」


 俺は立ち上がった。


「下屋敷に戻って、準備する。イリア、行くぞ」


「はい」


 俺は執務室を出ようとした。スロックが、後ろから声をかけた。


「兄上」


 振り返った。


「お気をつけて」


 スロックの声は、宰相の声ではなかった。弟の声だった。


「ああ」


 俺は、そう答えた。


 夜の廊下を歩きながら、俺は頭の中を切り替えた。


 封印文書の件は、一旦、棚に上げる。


 今は、サーキニアだ。


 ダンジョンの暴走。数百体の魔物。崩れた前線。そして、暴走の原因。


 幕僚の仕事が、待っている。



 下屋敷に戻ると、エマが起きていた。


 居間の灯りがついていた。フローラも、まだいた。


「行くのね」エマは言った。聞くまでもなかった、という顔だった。


「ああ。明日の朝、発つ」


「サーキニアに」


「そうだ」


 エマは頷いた。何も言わなかった。息子が危険な場所へ向かうことに、もう慣れているのだろう。慣れたくはなかっただろうが。


 フローラが、奥から革袋を持ってきた。


「旅の食料を、少しだけ詰めておいたわ。菓子も入っているから」


「気が回るな」


「兄さんは、食べないでしょう。放っておくと」


 俺は何も言わなかった。否定できなかった。


 イリアが、自室で装備をまとめている音が、廊下の向こうから聞こえていた。


「フローラ」俺は妹に言った。


「なに」


「イリアを、また連れていく」


 フローラは少し黙った。それから、頷いた。


「わかっている。あの子は、自分で決めて動く子だから。止めても、聞かないでしょう」


「すまない」


「謝らないで」フローラは言った。「あの子が行きたいなら、行かせてあげて。それが、私にできることだから」


 エマが、静かに茶を淹れた。深夜の茶だった。


 俺は一杯だけ飲んだ。温かかった。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」エマが言った。「帰ってきたら、また茶を淹れるから」


 その言葉を背に、俺は下屋敷を出た。

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