34. 母と妹
スロックとの話が終わった後、俺はイリアと共に、皇太子宮を出た。
副都の街を、南に歩いた。
六王家の下屋敷は、副都の南区にある。六つの王家が、それぞれ副都に構えている屋敷だ。普段は、副都に用のある皇族が宿泊したり、王家の事務を処理したりするために使われている。
レイフ家の下屋敷は、通りの奥まった場所にあった。石造りの二階建てで、門は小さいが、手入れの行き届いた庭が見えた。
俺の母が、ここに住んでいた。
「伯父上」イリアが、門の前で少し立ち止まった。「お祖母様に、いつぶりですか」
「五年ぶりだ」
イリアは少し、俺を見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
門を叩いた。
しばらくして、使用人が顔を出した。俺とイリアを見て、少し驚いた顔をした。
「ザックロード様。イリア様。お知らせなく」
「突然で、悪い。母は、いるか」
「はい。奥の居間に。それと、本日はフローラ様もお見えになっておりまして」
「フローラが」
「はい。つい先ほど、お着きになったばかりです」
俺はイリアを見た。イリアも、少し目を見開いていた。
「偶然だな」
「偶然ですね」イリアは少し笑った。
俺たちは案内に従い、屋敷の中に入った。
居間は、二階の南側にあった。窓から、副都の屋根と、その向こうの港が見えた。午後の光が、部屋の中に柔らかく落ちていた。
椅子が二つ並んでいた。一つにエマが、もう一つにフローラが座っていた。茶器が二人分、卓の上にあった。
母──エマは、見た目の年齢がわからない女性だった。皇族の不老長命。レイフ家の女として生まれ、三人の子を育てた。ザックロードとスロックと、一人の娘フローラ。穏やかな顔立ちで、目元に俺と同じ鋭さが残っていたが、それは歳月に柔らかく削られていた。
妹のフローラは五十四歳。見た目は三十代のどこかで止まっている。髪は黒く、目は俺とよく似ていた。レイフ家の目だ。
二人とも、俺を見て、動きを止めた。
エマが先に口を開いた。
「ザックロード」
「母上。突然の訪問、お許しください」
「許すも何も」エマは少し笑った。「今日は、不思議な日だわ。フローラが来たと思ったら、息子まで」
フローラが立ち上がった。
「兄さん」
その声を聞いて、俺は、少し胸が詰まった。
「久しぶりだな」
「五年ぶりです」フローラは言った。「手紙は、もらっていましたけれど」
「ああ。すまない、筆無精で」
「知っています」
フローラは少し笑った。俺の知っている笑い方だった。子供の頃から変わらない、少し困ったような笑い方。
イリアが、俺の後ろから、部屋に入った。
「お祖母様。母さん」
「イリア」エマの顔がほころんだ。「あなたも。まあ、今日は本当に」
「突然で、申し訳ございません」
「いいのよ。座りなさい。みんな」
エマが使用人を呼び、茶が淹れ直された。四人分の茶器が並んだ。レイフ家の紋章が入った茶器だった。
しばらく、たわいもない話をした。副都の暮らし、天気のこと、近所の評判のいい菓子屋のこと。皇族の話でも、帝国の話でも、サーキニアの話でもなかった。ただの、家族の話だった。
俺は、その時間を、久しぶりに味わっていた。
サーキニアの市場で価格の異変に気づいてから、ずっと走り続けていた。判事として、傭兵団員として、皇族として。一つの線を追い、一つの判断を下し、また次の線を追った。
ここには、線がなかった。
ただ、母がいて、妹がいて、姪がいて、茶があった。
「ザックロード」エマが言った。
「なんですか」
「痩せたでしょう」
「そうですか」
「そうよ。母親をごまかせると思わないことね」
フローラが、少し笑った。
「私も、同じことを言おうとしていたのよ」
「仕事で、少し動き回っていたものですから」
「少し、ではないでしょう」エマは少し、眉を寄せた。
「イリアのことも」フローラが言った。「兄さんが連れ回しているのでしょう」
「連れ回してはいない。イリアが、自分で来たんだ」
「母さん」イリアが言った。「私が、伯父上にお願いして、同行させていただいたのです」
エマとフローラが、顔を見合わせた。
「この子も、同じ顔をしている」エマは言った。「ザックロードと同じ。何かあったのでしょう。聞いても、答えないのでしょう」
「答えられないことが、多いです」俺は正直に言った。
「知っています」エマは少し笑った。「あなたは、昔からそう。大事なことほど、話さない」
俺は何も言わなかった。
「イリア」フローラが言った。
「はい」
「兄さんのそばにいてあげて。この人は、一人でいると、食事を忘れるから」
「承知しています」イリアは少し笑った。「何度か、お声がけしました」
「でしょうね」
俺は少し、居心地が悪かった。エマとフローラとイリアに囲まれて、俺の生活習慣が暴露されている。
「もう少し、いられるの」エマが聞いた。
「今夜は、泊まっていきます」俺は言った。「明日の朝、発ちます」
「一泊だけ」フローラが寂しそうにつぶやいた。
「ああ。すまない」
「謝らなくていい」エマは言った。「来てくれただけで、十分よ」
その声は、静かだった。
俺は母を見た。何歳なのか、正確には知らない。皇族の中でも、古い世代の女性だった。母はこの屋敷で静かに暮らしている。息子が二人、娘が一人。長男は傭兵団員になり、次男は皇太子になり、娘はオットー家に養子に出た。
それでも、母は変わらなかった。息子が来れば茶を淹れ、娘が来れば茶を淹れ、孫が来れば茶を淹れる。それだけのことを、静かに、ずっと続けてきた。
遠くにいたのは、俺の方だった。
「母上」
「なに」
「イリアを、よく見てくれていたそうですね」
「フローラが育てたのよ」エマは言った。「私は、たまに会って、菓子を食べさせていただけ」
フローラが笑った。
「母さんは、いつもそう言うけれど、イリアにとっては、この屋敷が第二の家でしたよ」
「お祖母様」イリアが言った。「私が冒険者になると言ったとき、最初に応援してくださったのは、お祖母様です」
エマは少し、目を細めた。
「あなたの目が、ザックロードと同じだったからね。止めても、聞かないと思ったのよ」
俺は少し、笑った。
「似ているのか、俺と」
「似ているわ」エマとフローラが、同時に言った。
イリアが少し、顔を赤くしていた。
午後の光が、窓から差し込んでいた。
茶が温かかった。
俺は、この時間を、覚えておこう、と思った。




