32. 剣聖エルザ
皇宮の裏手に、練武場があった。
石畳の広い空間で、周囲に低い壁が巡らされていた。壁の上に、観覧のための廊下がある。今は誰もいなかった。
陛下は練武場の中央に立ち、壁にかけられていた木剣を二本、取った。一本を俺に投げた。
俺は受け取った。軽い。しかし、しっかりした造りだった。
イリアは壁の脇に立ち、見守る姿勢を取った。
「ザックロード」
「はい」
「構えろ」
俺は木剣を正眼に構えた。
陛下は、構えなかった。木剣を右手に持ち、だらりと下げたまま、俺を見ていた。
それが、剣聖の構えだった。
構えないことが、構えだった。どこからでも動ける。どこからでも打てる。俺がどう動いても、後から対応できるという、絶対的な自信の表れだった。
俺は呼吸を整えた。
間合いは、五歩。
俺は一歩、踏み込んだ。
陛下は動かなかった。
もう一歩。
動かない。
三歩目で、俺は打った。右から、横薙ぎに。速度ではなく、軌道を読ませないための角度を意識した。
陛下の木剣が、動いた。
見えなかった。
気づいたとき、俺の横薙ぎは受け流され、俺の喉元に、陛下の木剣の先が、触れていた。
一合。一瞬。
俺は、動けなかった。
「遅い」陛下は言った。
木剣が引かれた。俺は一歩、下がった。
もう一度、構え直した。
今度は、待った。自分から打たなかった。陛下の動きを、見ようとした。
陛下が動いた。
一歩。ただの一歩。しかし、その一歩で、俺の間合いの内側に入っていた。
俺は反射的に木剣を上げた。
打ち合いになった。
二合、三合、四合。木剣と木剣が、乾いた音を立てた。俺は全力で打ち、全力で受けた。
五合目で、俺の手から、木剣が弾かれた。
陛下の木剣が、俺の胸の前で止まった。
終わりだった。
俺は息を切らしていた。全身から汗が噴き出していた。五合。たった五合で、全力を使い果たした。
陛下は、汗一つかいていなかった。
「竜骨窟で、石喰いを仕留めたそうだな」陛下は木剣を下ろしながら言った。
「はい」
「その動きと、今の動きが、同じ体から出ているとは思えんな」
「魔物と、陛下は、違います」
「どう違う」
「魔物には、弱点がある。記録に書いてある。陛下には、弱点がない」
陛下は声を出して笑った。
「ある。あるぞ、弱点は」
「どこにですか」
「教えるか。そんなもの」
陛下はまた笑った。それから、少し真面目な顔になった。
「ザックロード」
「はい」
「お前は、昔より強くなっている」
俺は少し、意外だった。五合で木剣を弾かれた者に、強くなっていると言う。
「どこがですか」
「剣ではない。判断が、だ」
陛下は木剣を壁にかけ直した。
「サーキニアの件、リードスゴートの件、全て聞いた。お前の判断は、一つ一つが的確だった。迷いながらも、的確だった。それは、剣の強さよりも、はるかに難しい」
俺は何も言えなかった。
「お前が皇太子レースで三位以下だったのは、お前に力がなかったからではない」陛下は言った。「お前は、上に立つよりも、横に立つ方が合っている。それだけのことだ。スロックは、よい弟だ。そしてお前は、よい兄だ」
俺は、深く頭を下げた。
言葉が、出てこなかった。
「もう一つ、言っておく」
「はい」
「お前の姪は、将来、大物になる。あの毅然さは、得難いものだ。よく育てたな」
「俺が育てたわけでは」
「お前の背中が育てたのだ。本人は、そう言うだろう」
俺は壁際のイリアを見た。イリアは少し、顔を赤くしていた。聞こえていたのだろう。
「下がってよい」陛下は言った。「スロックへの報告は、お前に任せる。急がなくてよいが、遅すぎるな」
「承知いたしました」
俺とイリアは、練武場を出た。
廊下を歩きながら、俺は少し息を吐いた。
「伯父上」イリアが言った。
「なんだ」
「陛下に、褒められましたね」
「打ちのめされた、の間違いだろう」
「剣は、そうかもしれません。ですが、それ以外の言葉は、褒めておられました」
俺は何も言わなかった。
しかし、胸の奥で、何かが温かかった。
苦手だった。あの方は、やはり苦手だった。
しかし、苦手な相手に認められるというのは、悪くない気分だった。
帝都を発ち、副都に着いたのは、二日後の午前中だった。
副都は、帝都とはまったく違う空気を持っていた。旧王国の王都だった頃の面影が、街の随所に残っている。石畳が整い、街路樹が並び、建物の装飾は帝都よりも繊細で華やかだった。港に近いせいか、潮の混じった風が、時おり吹き抜けてくる。
俺にとっては、馴染みの街だった。皇太子レースの期間中、何度もこの街を訪れている。スロックが宰相として執政しているのも、この街だ。
イリアも、黙ってあたりを見回していた。彼女が帝国で育った頃の記憶が、この街にはあるのだろう。
「懐かしいか」俺は聞いた。
「少し」イリアは言った。「母と暮らしていた頃を、思い出します」
俺は少し、考えた。母に会うのは、何年ぶりだろう。フローラからの手紙で、母が元気に暮らしていることは聞いていた。しかし、顔を合わせたのは、皇太子レースの結果が出た後——五年前だった。
しかし、まずはスロックだ。




