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 29. 石喰い

 読み終えたのは、半刻ほど後のことだった。

 俺は最後の頁を閉じ、書物を卓に戻した。

 ジェフールは、最初から最後まで、一言も口を挟まず聞いていた。目を閉じて、全ての文字を、耳から頭の中に収めていた。

 イリアも、同じだった。筆は取らず、目を閉じ、俺の声だけに集中していた。

「ジェフール殿」

「はい」

「聞きたいことは、あったか」

 ジェフールは少しの間、目を閉じたまま黙っていた。それから、目を開けた。

「ありません」ジェフールは言った。「聞きたいことの全てが、書かれておりました」

 その声は、静かだった。渇望が消えていた。代わりに、深い安堵のようなものが、滲んでいた。

「では、戻るぞ」俺は言った。「書物は、ここに残す。壁を閉じる」

 俺たちは部屋を出た。

 俺が壁に手を触れると、六王家の紋章が再び光り、壁がゆっくりと閉じていった。石の軋む音が響き、やがて静まった。

 再び、行き止まりの壁だけが、そこにあった。

 三百年の沈黙が、戻った。

「帰路だ」俺は言った。「来た道を戻る」


 第七層から第六層への帰路は、順調だった。ジェフールが先導し、分岐路を正確に選んだ。

 第五層に戻ったところで、異変があった。

 来た時には感じなかった、空気の流れがあった。

 通路の奥から、生温い風が吹いてきていた。地下の洞窟で、風向きが変わるということは、どこかの構造が変わったということだ。

「止まれ」

 俺は右手を上げた。三人が足を止めた。

 耳を澄ませた。

 遠くから、低い振動音が伝わってきた。連続した振動ではない。断続的で、不規則。生き物の動きだった。

「何か、いますね」イリアが小声で言った。

「第五層にいた岩甲虫の類ではない」俺は答えた。「振動の間隔が違う。もっと大きい」

 ジェフールの顔が、少し強張った。

「竜骨窟には、深層から中層へ上がってくる種がいると聞いたことがあります。滅多に現れないが、出たときは──」

「知っている」俺は言った。「石喰い」

 石喰い。

 正式な名称は、帝国軍の記録では「深層変異蜥蜴」と書かれている。冒険者の間では「石喰い」と呼ばれる。岩を食い、岩を吐く。体長は馬の三倍ほど。甲殻は岩甲虫の比ではなく、通常の剣では傷一つつかない。第一軍時代、巡回報告で記録を読んだことがある。実物を見たことは、なかった。

「通路を塞がれる前に、抜けるぞ」俺は言った。

 三人で足を速めた。

 第五層の広い通路に出た瞬間、振動が、足元から跳ね上がった。

 正面の壁が、砕けた。

 岩の破片が飛び散り、その中から、巨大な頭が突き出した。灰色の鱗に覆われた頭。目は小さく、しかし光っていた。口が開いた。歯ではなかった。歯の代わりに、岩の欠片が、何列にも並んでいた。

 石喰いだった。

 俺は槍を構えた。

「ジェフール、下がれ。イリア、右に回り込め」

 声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。

 石喰いが、突進してきた。

 速い。岩甲虫とは比較にならない速度だった。通路の幅いっぱいに体を押し込むようにして、こちらに向かってくる。地面が揺れた。

 俺は動かなかった。

 石喰いの頭が、三歩の距離に迫った。

 そこで、半歩だけ、左に動いた。

 石喰いの頭が、俺の右肩をかすめて通り過ぎた。体が目の前を流れていく。灰色の鱗が、照明の光を反射した。

 俺は槍を、下から突き上げた。

 甲殻の間を狙ったのではない。石喰いの体側面、前足と後足の間にある、唯一の柔らかい部分。鱗が薄く、下に内臓がある場所。第一軍時代の記録に、そう書かれていた。

 槍の穂先が、鱗の隙間に入った。

 深く、突き入れた。

 石喰いが、咆哮した。通路全体が震えた。天井から石の欠片が落ちてきた。

 獣は体を捻り、俺を振り払おうとした。俺は槍を引き抜かなかった。柄を両手で握りしめ、獣の動きに合わせて、自分の体を回転させた。槍を梃子にして、獣の横腹にぶら下がるような姿勢になった。

 獣が壁に体をぶつけた。俺を潰そうとしている。

 俺は壁に激突する直前に、槍を引き抜き、獣の体の下をくぐって反対側に出た。

 石の壁に、俺の体がぶつかっていた場所に、獣の体が叩きつけられた。轟音がした。

 獣は少し、動きが止まった。

 その隙に、イリアが右側から駆け込んだ。

 獣の後足の腱を、剣で斬った。正確な一撃だった。冒険者の動きだった。

 石喰いが、体勢を崩した。後足が折れ、巨体が傾いた。

 俺は槍を構え直した。

 獣の頭が、こちらを向いた。口が開いた。岩の欠片を並べた口の奥から、白い光が見えた。吐くつもりだ。岩を。

 俺は走った。

 獣に向かって、真正面から。

 石喰いが口を開ききる前に、俺は槍を投げた。

 槍は、獣の口の中に入った。

 喉の奥に、突き刺さった。

 石喰いが、声を失った。口を閉じようとしたが、槍の柄が邪魔をして、閉じられなかった。白い光が消えた。岩を吐く動きが、止まった。

 獣は、もがいた。通路の壁に体をぶつけ、天井に頭をぶつけ、暴れた。しかし、長くは続かなかった。

 やがて、動かなくなった。

 通路が、静かになった。

 俺は膝をついた。息が上がっていた。全身に汗をかいていた。

「伯父上」イリアが駆け寄ってきた。「お怪我は」

「ない」

「ない、ということは」

「本当にない」

 俺は立ち上がった。膝が、少し笑っていた。しかし、立てた。

 石喰いの巨体が、通路を半分塞いでいた。残りの半分を、かろうじて通れるだけの隙間が、壁との間にあった。

 ジェフールが、後方から歩いてきた。石喰いの死骸を見て、しばらく何も言わなかった。

「アモス殿」やがて、ジェフールは言った。「あなたは、こちらの世界でも、一流の方なのですね」

「一流ではない」俺は息を整えながら答えた。「ただ、記録を読んでいただけだ。弱点は、記録に書いてあった」

「記録を読んでいるだけでは、あの動きはできません」

 俺は何も言わなかった。

 イリアが、俺の横に立った。

「伯父上」

「なんだ」

「第一軍時代のお話、やはり、聞かせていただきたいです」

 俺は少し、笑った。

「帰ったらな」


 石喰いの死骸を迂回し、俺たちは帰路を急いだ。

 第四層、第三層と、来た道を戻った。魔物の出現は、帰路では少なかった。石喰いの咆哮が、周囲の魔物を散らしたのだろう。

 第二層を抜けたとき、前方の通路の先に、薄い光が見えた。入口からの光だった。

 俺は足を止めなかった。光に向かって歩き続けた。

 入口を抜けた瞬間、夕方の空が、目に飛び込んできた。

 赤かった。

 旧魔王領の空が、夕陽に染まっていた。乾いた風が、汗を冷やした。

 監視所の兵士が、駆け寄ってきた。

「ご無事でしたか。石喰いが出たと、下層から振動が伝わって」

「全員、無事だ」俺は答えた。「第五層で仕留めた。死骸が通路を塞いでいる。処理を手配してくれ」

 兵士が目を見開いた。

「三人で、石喰いを」

「そうだ。退場の記録を頼む」

 兵士は慌てて記録票を取り出した。俺たちの退場を記録し、出土品の申告を聞いた。

「出土品は、なしです」俺は言った。

「……はい」

 兵士は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

 俺はイリアとジェフールと共に、ガレダ町への道を歩きはじめた。

 夕陽が、三人の背を長く伸ばしていた。

 誰も、しばらく口を開かなかった。

 やがて、ジェフールが静かに言った。

「ありがとうございました、アモス殿」

 俺は振り返らなかった。

「礼は、まだ早い」俺は言った。「これからが、本番だ」

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