25. ヴァルクが来た
宿を出て、塔に戻る道すがら、俺は頭の中を整理した。
ジェフールは、予想していた人物像とは、違っていた。コーレン家の「頭脳」として、冷酷に組織を動かす人物を想像していた。しかし、実際に会ってみると、この男は学者だった。知識に取り憑かれた、孤独な学者。
だからといって、無害ということではない。
知識のために人を利用する者は、悪意がないぶん、始末に負えない。リアフォードの信念も、ミクストンの忠誠も、この男にとっては、封印文書に至る道筋の一部に過ぎなかった。それを「利用」と自覚しながら、なお止められない。止める必要がないと思っている。
善悪の問題ではなく、優先順位の問題だった。
俺は判事だ。善悪を裁く仕事ではなく、事実を確かめ、判断材料を引き渡す仕事だ。
ジェフールという人物の輪郭は、今朝の対話で、かなり明確になった。次にすべきことは、エルザ陛下への報告と、封印文書の件についての判断を仰ぐことだ。
塔に着くと、イリアが門の前にいた。
俺の顔を見て、少し安堵したのがわかった。しかし、すぐに書記官の顔に戻った。
「お戻りですか」
「ああ。話がある。中で」
俺たちは応接室に入った。俺はジェフールとの対話の内容を、順を追って話した。コーレン家の仕事の本質、クーデターへの関与の動機、封印文書の存在、そしてジェフールの条件。
イリアは一言も口を挟まず、最後まで聞いた。筆を走らせて記録を取りながら。
俺が話し終えると、イリアは少し間を置いてから言った。
「ジェフールは、信用できますか」
「魔法具の限りでは、嘘はなかった」俺は答えた。「ただし、ヴァルクの件と同じだ。嘘がないことと、全てを話していることは、別だ」
「話していないことが、あると」
「あるだろう。封印文書の場所は、まだ聞いていない。条件を受ける前に話す気はないだろう」
イリアは頷いた。
「エルザ陛下への報告は、魔法通信で」
「ああ。ただし、短文しか送れない。今回の内容を短文で伝えるのは、難しい」
「要点を絞るなら」
俺は少し考えた。
「三つだ。一つ、ジェフールと直接接触した。二つ、封印文書の存在を確認した。三つ、ジェフールの条件として、皇族と共に封印文書を開く許可を求めている。判断を仰ぐ」
「それで、伝わりますか」
「エルザ陛下なら、伝わる」
イリアは少し、首を傾げた。
「陛下のことは苦手でいらっしゃるのに、信頼はされていらっしゃるのですね」
俺は何も言わなかった。
言われてみれば、そうだった。
ハルムに魔法通信の使用を依頼した。塔に設置されている通信石は、首都の中央監視塔を中継して、皇宮にも届く。
俺は通信文を組み立てた。
──ジェフール、直接接触。皇族でなければ開封不能の文書あり。本人は皇族と共に開封を希望。陛下のご判断を仰ぐ。アモス。
イリアが術式を起動し、送信した。
「返答は、早くても明日です」
「ああ」
俺は卓に着き、少し肩を回した。数日間の緊張が、体の奥に溜まっていた。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
ハルムが入ってきた。顔が、少し険しかった。
「アモス殿。報告がございます」
「何ですか」
「今朝方、町の南門から、旅人が一人、入りました。中年の男、痩せ型、商人風の装束です」
俺の背が、少し硬くなった。
「名は」
「宿帳には、『ヴェルク』と書いております。『狐の宿』に宿を取りました」
ヴェルク。
ヴァルク・コーレンの偽名だろう、と俺は判断した。
ジェフールが泊まっている、同じ宿に。
「ヴァルクが来た」俺は小声で言った。
イリアの顔が、少し固くなった。
「ジェフールのところに、ですか」
「わからない。だが、偶然ではないだろう」
俺は立ち上がった。
ジェフールとの対話は、今朝のことだった。その同じ日に、ヴァルクがガレダ町に現れた。ジェフールは、ヴァルクの行方不明を知らないと言った。石は揺れなかった。
しかし、ヴァルクは来た。しかも、ジェフールと同じ宿に。
二つの可能性がある。
ヴァルクが、独自にジェフールの居場所を辿り着いた。あるいは、ジェフールが嘘を言っていなかったとしても、コーレン家の別の系統を通じて、情報が流れた。
いずれにせよ、状況は動いた。
「ハルム殿」俺は言った。「『狐の宿』の監視を、強化していただけますか。ただし、相手には気づかれないように」
「承知いたしました」
「それと、もう一つ。明日の朝、俺はもう一度、あの宿に行きます」
ハルムは頷き、部屋を出ていった。
俺は窓の外を見た。
ガレダ町の空は、薄曇りだった。旧魔王領の方角から、乾いた風が吹いていた。
ジェフールとヴァルク。コーレン家の中で袂を分かった二人が、同じ宿にいる。
明日の朝、あの食堂で、何が起きるか。
俺は、深く息を吐いた。
翌朝。
俺は夜明け前に塔を出た。町はまだ眠っていた。通りに人影はなく、灰色の空の下で、建物の輪郭だけが浮かんでいた。
「狐の宿」に着いたとき、食堂にはまだ灯がともっていなかった。入口で宿の主人に声をかけると、眠そうな顔で灯を入れてくれた。
「早いですな、お客さん」
「習慣でしてね」
俺は昨日と同じ、窓際の卓に着いた。茶を頼んだ。
待った。
朝の光が、少しずつ食堂に入ってきた。壁に、窓格子の影が映った。茶が運ばれてきた。俺は一口飲んだ。
しばらくして、階段から足音が聞こえた。
二人分だった。
俺は視線を上げなかった。茶器を手にしたまま、視界の端で、二人の姿を捉えた。
ジェフールだった。そして、もう一人。
ヴァルク・コーレンだった。
二人は並んで階段を降りてきた。言葉を交わしている様子はなかった。ただ、一緒にいた。
ジェフールは俺を見た。穏やかな目だった。昨日と変わらなかった。
ヴァルクも、俺を見た。
その目は、穏やかではなかった。しかし、敵意もなかった。何かを見定めようとしている目だった。サーキニアの王城で対峙したときと、同じ質の目。嘘も真実も、同じ顔で言う者の目。
ジェフールが、俺の卓に近づいた。
「おはようございます、アモス殿」
「おはようございます」
「相席を、お許しいただけますか。連れがおります」
「構いません」
ジェフールが座った。ヴァルクも、その隣に座った。
三人が、一つの卓を囲んだ。
宿の主人が、注文を聞きに来た。ジェフールがパンと卵と茶を頼み、ヴァルクは茶だけを頼んだ。
宿の主人が去った後、沈黙があった。
俺はヴァルクを見た。
「ヴァルク殿」俺は言った。「サーキニアから、遠い旅でしたね」
「ええ」ヴァルクは静かに答えた。「長い道でした」
「行方不明と、報告を受けていました」
「そのようですね」
「ここへ来た理由を、お聞きしてもよろしいですか」
ヴァルクは少し、間を置いた。それから、ジェフールの方を見た。ジェフールは小さく頷いた。
「アモス殿」ヴァルクは俺に向き直った。「私がサーキニアを出たのは、ジェフールに会うためです」
「ジェフール殿とは、八年前から連絡を取っていなかったと、おっしゃっていましたが」
「はい。それは事実です」
「では、なぜ、今」
ヴァルクはしばらく黙っていた。食堂の外で、町が目覚めはじめる音がしていた。荷馬車の車輪、子供の声、犬の鳴き声。
「アモス殿」やがて、ヴァルクは言った。「サーキニアの王城で、あなたとお話しした後、私は考えました。長く、考えました」
「何を」
「自分が、何をしたいのか、ということを」
俺は黙って聞いた。
「コーレン家を離れたい、と、あなたに申し上げました。それは本心でした。しかし、離れる、というだけでは足りない、と気づきました」
「足りない、というのは」
「コーレン家を離れるなら、そのことをジェフールに直接伝えなければならない。家の中で黙って消えるのは、卑怯なことだと、私は思いました」
俺はヴァルクを見た。
サーキニアの王城で対峙したときとは、少し、違う顔だった。あのときは、整えられた論理の上に座っていた。今は、もう少し、剥き出しだった。
「ジェフール殿」俺はジェフールに聞いた。「ヴァルク殿が来ることを、ご存知でしたか」
「いいえ」ジェフールは言った。「昨夜、宿で再会しました。驚きました」
「昨夜、ですか」
「はい。ヴァルクが宿に着いたのが、夕刻でした。私が倉庫から戻ったとき、食堂にいました」
ヴァルクがジェフールを見た。ジェフールもヴァルクを見た。
二人の間に、八年分の距離があった。しかし、同じ食卓に座っていた。
「アモス殿」ヴァルクが言った。「一つ、お伝えしなければならないことがあります」
「聞きます」
「サーキニアを出る前に、私は、王太子殿下にも、大使館にも、何も告げずに出ました。結果として、行方不明という扱いになったことは、承知しております」
「なぜ、告げなかったのですか」
「止められるからです」ヴァルクは言った。「コーレン家の者が、リードスゴートに向かう、と知れれば、帝国は私を拘束したでしょう。それでは、ジェフールに会えない」
「ジェフール殿に会うことが、それほど重要でしたか」
「はい」ヴァルクは静かに言った。「コーレン家を離れるなら、そのことを、ジェフールに直接伝えなければならない。家の中で黙って消えるのは、卑怯なことだと、私は思いました」
俺はヴァルクを見た。
サーキニアの王城で対峙したときとは、少し、違う顔だった。あのときは、整えられた論理の上に座っていた。今は、もう少し、剥き出しだった。
「ジェフール殿」俺はジェフールに聞いた。「ヴァルク殿が来ることを、ご存知でしたか」
「いいえ」ジェフールは言った。「昨夜、宿で再会しました。驚きました」
「昨夜、ですか」
「はい。ヴァルクが宿に着いたのが、夕刻でした。私が倉庫から戻ったとき、食堂にいました」
ヴァルクがジェフールを見た。ジェフールもヴァルクを見た。
二人の間に、八年分の距離があった。しかし、同じ食卓に座っていた。
「ヴァルク殿」俺は聞いた。「あなたは、コーレン家を離れた後、どうするつもりですか」
「わかりません」ヴァルクは少し笑った。初めて、計算のない笑い方だった。「生まれて初めて、何も決まっていない状態です」
ジェフールが、静かに口を開いた。
「ヴァルク」
「はい」
「私は、お前を恨んでいない」
ヴァルクは、少し俯いた。
「私も」ヴァルクは言った。「あなたを恨んだことは、一度もありません」
八年ぶりの、いとこ同士の言葉だった。
食堂の窓から、朝の光が差し込んでいた。
俺は、茶を一口飲んだ。
冷めていた。しかし、悪くない味だった。




