表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/36

 23. 窓の向こうのジェフール

今日は2話分アップします。

 男は食事を終え、宿の主人に茶を頼んだ。

 俺はまだ干し肉を噛んでいた。急ぐ必要はなかった。自然に、同じ空間で時間を過ごす。それだけのことだった。

 男は茶を飲みながら、懐から小さな手帳を取り出し、何かを書き込みはじめた。筆記用の細い炭筆を使っていた。書き方は丁寧で、時折手を止めて考え、また書く。帳面を付ける商人の動きに見えた。

 俺は食事を終え、宿の主人に茶を頼んだ。

 二人が、同じ食堂の中で、茶を飲んでいた。

 長い沈黙だった。

 男が、不意に顔を上げた。

 俺の方を見た。

 視線が合った。

 一瞬のことだった。男の目は穏やかだった。同じ宿に泊まる客同士の、何気ない視線のやりとり。それ以上のものではなかった。

 しかし、俺はその一瞬で、何かを感じた。

 この男は、俺を見ていた。今初めて見たのではなく、俺が食堂にいることを、最初から知っていた。

 気づかれている。

 俺はその判断を、表情に出さなかった。茶を一口飲み、窓の外に目を向けた。何気ない仕草を装った。

 男は手帳を閉じ、立ち上がった。宿の主人に代金を渡し、階段を上がっていった。

 俺は、追わなかった。

 食堂に残ったまま、茶を飲み切った。

 気づかれている。しかし、相手が動かなかった。それは何を意味するか。

 二つの可能性がある。

 一つ。男は、俺を脅威と見なしていない。ただの旅人が、偶然同じ宿に泊まった、と判断している。

 二つ。男は、俺が誰かを知っている。知った上で、泳がせている。

 後者なら、厄介だった。

 俺は食堂を出て、二階の自室に戻った。窓を開け、中庭を見下ろした。反対側の二階の窓は、すべて閉まっていた。どの部屋が男の部屋かは、まだわからない。

 俺は短剣の柄に手を触れた。念のためだった。

 それから、卓に座り、頭の中を整理した。

 気づかれている可能性がある以上、ここに長居することは、情報を与えるだけだ。一泊分の情報を得たら、塔に戻った方がいい。

 しかし、もし男が俺を脅威と見なさず、普通に振る舞っているのなら、もう一日、ここにいることで、男の日常の動きをさらに把握できる。

 判断は、今夜の男の動きを見てからでよい。


 夕方になった。

 俺は部屋の窓から、中庭を見ていた。

 日が傾くにつれて、宿の中に人が戻ってきた。冒険者たちが、ダンジョンから戻ったのだろう。疲れた顔の若者が何人か、食堂に入っていくのが見えた。

 男の動きは、なかった。部屋から出てこない。

 俺は窓際に座ったまま、待った。

 日が暮れた。

 中庭に灯がともった。宿の主人が、等間隔に燭台を置いていく。食堂の方からは、夕食の喧騒が聞こえてきた。

 俺は食堂に降りなかった。部屋で、持参した干し肉を齧った。窓は開けたまま、中庭を見ていた。

 夜が来た。

 しばらくして、反対側の二階で、一つの窓に明かりがついた。中庭を挟んで、俺の部屋の真向かいだった。

 男が、窓辺に立った。

 俺は窓際から少し身を引いた。暗がりの中で、相手には俺の姿は見えないはずだった。しかし、男は真っ直ぐ、俺の窓の方を見ていた。

 数秒、そうしていた。

 それから、男は窓を閉めた。明かりが消えた。

 俺は呼吸を整えた。

 気づかれている。確実に。

 男は、俺がどの部屋にいるかも、知っていた。

 しかし、逃げなかった。排除しようともしなかった。窓辺に立って、俺の存在を確認して、明かりを消した。

 それは、何を意味するか。

 俺は考えた。

 逃げない者は、二通りある。逃げる必要がないほど強い者か、逃げる必要がないほど、覚悟が決まっている者か。

 あるいは、逃げたくない者か。

 俺はしばらく、暗い中庭を見ていた。

 月が出ていた。旧魔王領の空に、冷たい光が広がっていた。

 明日の朝、男が食堂に降りてきたとき。

 俺は、話しかけるつもりだった。


 翌朝、俺は早くから食堂にいた。

 窓際の卓に座り、パンと茶を頼んだ。朝の光が、食堂の石壁に落ちていた。他の客は、まだ誰もいなかった。

 しばらくして、階段を降りてくる足音が聞こえた。

 男だった。

 昨日と同じ装束を着ていた。手帳は持っていなかった。代わりに、右手に小さな革袋を持っていた。倉庫から出てきた夜にも、持っていたものと同じ大きさだった。

 男は食堂を見渡した。俺を見た。一瞬、目が合った。

 男は少し、微笑んだ。

 それから、俺の向かいの卓ではなく、俺と同じ卓に、座った。

「おはようございます」男は言った。

 俺は少し、驚いた。相手から、来るとは思っていなかった。

「おはようございます」俺は返した。

「こちらの席、よろしいですか」

「構いません」

 男は宿の主人に食事を頼んだ。パンと卵と、茶。俺と似たような注文だった。

 二人の間に、沈黙があった。

 男の食事が運ばれてきた。男は静かに食べはじめた。

 俺も茶を飲んだ。

 しばらくして、男が口を開いた。

「お仕事で、ガレダに」

「ええ」俺は答えた。「少しの間、滞在するつもりです」

「私も、もう長くおります」男は言った。「もう三年になりますか」

 三年。ベフが言っていた「最近の三年は、ほぼ常駐」と一致する。

「お仕事は」俺は聞いた。

「古書の仲買です」男は言った。「ダンジョンから出てくる古い書物や図版を、買い付けて、本国に送っています」

「本国、というのは」

「サーキニアです」

 男は、少し笑った。

「失礼。名乗っていませんでしたね。ジェフールと申します」

 俺は、一瞬、呼吸が止まった。

 自分から名乗った。

 偽名を使わなかった。

「ザックロード・アモスと申します」俺は言った。「傭兵団に所属しています」

「アモス殿」ジェフールは穏やかに言った。「昨日の夜、窓越しに、お顔を拝見しました」

「私もです」

「お互いに、夜更かしをする質のようですね」

 ジェフールは茶を一口飲んだ。

「アモス殿」ジェフールは言った。「私に、用がおありでしょう」

 俺はジェフールを見た。

 穏やかな目だった。しかし、その奥に、覚悟があった。逃げない者の、覚悟。

「あります」俺は答えた。

「では」ジェフールは茶器を卓に置いた。「お聞きいたします」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ