23. 窓の向こうのジェフール
今日は2話分アップします。
男は食事を終え、宿の主人に茶を頼んだ。
俺はまだ干し肉を噛んでいた。急ぐ必要はなかった。自然に、同じ空間で時間を過ごす。それだけのことだった。
男は茶を飲みながら、懐から小さな手帳を取り出し、何かを書き込みはじめた。筆記用の細い炭筆を使っていた。書き方は丁寧で、時折手を止めて考え、また書く。帳面を付ける商人の動きに見えた。
俺は食事を終え、宿の主人に茶を頼んだ。
二人が、同じ食堂の中で、茶を飲んでいた。
長い沈黙だった。
男が、不意に顔を上げた。
俺の方を見た。
視線が合った。
一瞬のことだった。男の目は穏やかだった。同じ宿に泊まる客同士の、何気ない視線のやりとり。それ以上のものではなかった。
しかし、俺はその一瞬で、何かを感じた。
この男は、俺を見ていた。今初めて見たのではなく、俺が食堂にいることを、最初から知っていた。
気づかれている。
俺はその判断を、表情に出さなかった。茶を一口飲み、窓の外に目を向けた。何気ない仕草を装った。
男は手帳を閉じ、立ち上がった。宿の主人に代金を渡し、階段を上がっていった。
俺は、追わなかった。
食堂に残ったまま、茶を飲み切った。
気づかれている。しかし、相手が動かなかった。それは何を意味するか。
二つの可能性がある。
一つ。男は、俺を脅威と見なしていない。ただの旅人が、偶然同じ宿に泊まった、と判断している。
二つ。男は、俺が誰かを知っている。知った上で、泳がせている。
後者なら、厄介だった。
俺は食堂を出て、二階の自室に戻った。窓を開け、中庭を見下ろした。反対側の二階の窓は、すべて閉まっていた。どの部屋が男の部屋かは、まだわからない。
俺は短剣の柄に手を触れた。念のためだった。
それから、卓に座り、頭の中を整理した。
気づかれている可能性がある以上、ここに長居することは、情報を与えるだけだ。一泊分の情報を得たら、塔に戻った方がいい。
しかし、もし男が俺を脅威と見なさず、普通に振る舞っているのなら、もう一日、ここにいることで、男の日常の動きをさらに把握できる。
判断は、今夜の男の動きを見てからでよい。
夕方になった。
俺は部屋の窓から、中庭を見ていた。
日が傾くにつれて、宿の中に人が戻ってきた。冒険者たちが、ダンジョンから戻ったのだろう。疲れた顔の若者が何人か、食堂に入っていくのが見えた。
男の動きは、なかった。部屋から出てこない。
俺は窓際に座ったまま、待った。
日が暮れた。
中庭に灯がともった。宿の主人が、等間隔に燭台を置いていく。食堂の方からは、夕食の喧騒が聞こえてきた。
俺は食堂に降りなかった。部屋で、持参した干し肉を齧った。窓は開けたまま、中庭を見ていた。
夜が来た。
しばらくして、反対側の二階で、一つの窓に明かりがついた。中庭を挟んで、俺の部屋の真向かいだった。
男が、窓辺に立った。
俺は窓際から少し身を引いた。暗がりの中で、相手には俺の姿は見えないはずだった。しかし、男は真っ直ぐ、俺の窓の方を見ていた。
数秒、そうしていた。
それから、男は窓を閉めた。明かりが消えた。
俺は呼吸を整えた。
気づかれている。確実に。
男は、俺がどの部屋にいるかも、知っていた。
しかし、逃げなかった。排除しようともしなかった。窓辺に立って、俺の存在を確認して、明かりを消した。
それは、何を意味するか。
俺は考えた。
逃げない者は、二通りある。逃げる必要がないほど強い者か、逃げる必要がないほど、覚悟が決まっている者か。
あるいは、逃げたくない者か。
俺はしばらく、暗い中庭を見ていた。
月が出ていた。旧魔王領の空に、冷たい光が広がっていた。
明日の朝、男が食堂に降りてきたとき。
俺は、話しかけるつもりだった。
翌朝、俺は早くから食堂にいた。
窓際の卓に座り、パンと茶を頼んだ。朝の光が、食堂の石壁に落ちていた。他の客は、まだ誰もいなかった。
しばらくして、階段を降りてくる足音が聞こえた。
男だった。
昨日と同じ装束を着ていた。手帳は持っていなかった。代わりに、右手に小さな革袋を持っていた。倉庫から出てきた夜にも、持っていたものと同じ大きさだった。
男は食堂を見渡した。俺を見た。一瞬、目が合った。
男は少し、微笑んだ。
それから、俺の向かいの卓ではなく、俺と同じ卓に、座った。
「おはようございます」男は言った。
俺は少し、驚いた。相手から、来るとは思っていなかった。
「おはようございます」俺は返した。
「こちらの席、よろしいですか」
「構いません」
男は宿の主人に食事を頼んだ。パンと卵と、茶。俺と似たような注文だった。
二人の間に、沈黙があった。
男の食事が運ばれてきた。男は静かに食べはじめた。
俺も茶を飲んだ。
しばらくして、男が口を開いた。
「お仕事で、ガレダに」
「ええ」俺は答えた。「少しの間、滞在するつもりです」
「私も、もう長くおります」男は言った。「もう三年になりますか」
三年。ベフが言っていた「最近の三年は、ほぼ常駐」と一致する。
「お仕事は」俺は聞いた。
「古書の仲買です」男は言った。「ダンジョンから出てくる古い書物や図版を、買い付けて、本国に送っています」
「本国、というのは」
「サーキニアです」
男は、少し笑った。
「失礼。名乗っていませんでしたね。ジェフールと申します」
俺は、一瞬、呼吸が止まった。
自分から名乗った。
偽名を使わなかった。
「ザックロード・アモスと申します」俺は言った。「傭兵団に所属しています」
「アモス殿」ジェフールは穏やかに言った。「昨日の夜、窓越しに、お顔を拝見しました」
「私もです」
「お互いに、夜更かしをする質のようですね」
ジェフールは茶を一口飲んだ。
「アモス殿」ジェフールは言った。「私に、用がおありでしょう」
俺はジェフールを見た。
穏やかな目だった。しかし、その奥に、覚悟があった。逃げない者の、覚悟。
「あります」俺は答えた。
「では」ジェフールは茶器を卓に置いた。「お聞きいたします」




