2. 混乱の序章
大使館の中庭に、人が集まりはじめた。
書記官が四人、事務官が二人、調理場の者が三人、それから館内の雑務を担う現地採用のサーキニア人が数名。護衛隊長のベルトは、俺が窓から離れる前にすでに中庭に出ていた。顔つきを見れば、状況はおよそ把握しているとわかる。
「門を閉めろ。内側から閂をかけて、鍵もかけておけ」
俺はベルトに言った。彼は一瞬、俺の顔を見た。非番の傭兵団員に命令される筋合いはない、という目だった。しかし一秒も経たないうちに頷いた。長く同じ駐屯地にいれば、相手の実力はわかる。
「大使はどこだ」
「執務室だ。副大使と一緒に」
「案内してくれ」
廊下を歩きながら、俺は建物の構造を頭の中で描き直した。正門は石造りで厚い。裏手に勝手口が一つ、地下の貯蔵庫に換気用の細い窓が二つ。本気で攻めてくる軍隊に抗える造りではないが、当面の騒乱をやり過ごすには悪くない。問題は水と食料だが、書記官室の隣に蓄えがある。数日は持つ。
数日で片がつくかどうかは、別の話だ。
執務室の扉を叩くと、中からすぐに応答があった。大使のデルノフ卿は六十過ぎの小柄な男で、帝国の外交畑を長く歩んできた人物だ。顔色は青かったが、声は安定していた。
「ザックロード・アモス殿。非番にもかかわらず」
「たまたま館にいました」俺は言った。「状況の整理をさせてください」
副大使が卓上に王都の地図を広げた。イリアはすでにそこにいて、書類を一枚手に持っていた。俺が入ると、視線だけで確認を寄越してくる。俺は小さく頷いた。
「王城の方角から煙が出ています。非常鐘は止まっていない。王城への往来は、今ごろ封鎖されているでしょう」俺は地図を指でなぞった。「ここから王城まで、馬で半刻。徒歩なら一刻以上かかる。情報が入るとすれば、逃げてくる者からです」
「逃げてくる者、というのは」
「王城の者か、市民か。いずれにせよ、信頼できる情報が入るまでは動かないほうがいい。帝国大使館が軽率に動けば、どちらの陣営にも口実を与えます」
デルノフ卿は頷いた。判断の早い人物だと、俺は少し見直した。
「イリア」
俺が呼ぶと、姪は書類を差し出した。
「館内の人員の一覧です。帝国籍が十四名、現地採用が七名。護衛は傭兵団から十五名が勤務中です。非番と夜番の者も合わせれば三十名になります。非常時には全員が駆けつけてくるはずです」
「現地採用の者は」
「全員、この館で長く働いている者です。問題はないかと存じますが」イリアは少し間を置いた。「ただ、家族が王都にいる者も多い。長引けば、動揺するかもしれません」
俺はその判断を妥当だと思った。
「今は動かすな。ただ、話を聞く機会を作ってやってくれ。不安を放置すると、判断が鈍る」
「承知しました」俺は再び地図に目を落とした。
王城。煙。非常鐘。
三週間前から動いていた値段のことを、俺はまだ考えていた。食糧と鉄を買い集めるには、それなりの資金と、それなりの時間が要る。誰かが、かなり前から準備をしていた。準備の周到さは、本気の証だ。
「大使」俺は言った。「本国への連絡は、どのような手段がありますか」
「魔法通信石が一つ。ただし、一日に一度しか使えません」
「では今夜、使ってください。内容は、俺とイリアで整理します」
デルノフ卿が副大使と目を合わせた。傭兵団の一員が大使館の通信を仕切る、という状況への戸惑いだろう。しかし、異を唱えなかった。
廊下の外で、誰かが走る音がした。
「ザックロード」
ベルトの声だった。扉が開き、護衛隊長が顔を出した。その表情で、良い知らせではないとわかった。
「正門の外に、人が集まりはじめています。市民です。中に入れてほしいと」
俺は大使を見た。大使は俺を見た。
「難しい判断です」俺は言った。「入れれば、守るべき人数が増える。入れなければ、大使館が民を見捨てたと取られる。どちらも帝国の体面に関わります」
「どうすべきか」
俺はしばらく考えた。五十九年の記憶の中から、似たような場面を探した。いくつか出てきたが、状況はどれも少しずつ違った。同じ局面は、一度として存在しない。それが長く生きるということの、疲れる部分だった。
「負傷者と子供だけ、入れてください。ただし、武器を持った者は断る。その判断はベルト、お前に任せる」
「了解です」
ベルトが廊下を戻っていく音が遠ざかった。
イリアが俺のそばに来た。声を落として、耳元で言った。
「伯父上、これは長引きます」
「わかってる」
「帝国への報告に、何を書きますか」
俺は少し考えた。事実だけを書けばいい、という話ではない。スロックが読む、ということを考えなければならない。弟は読んだ情報から何を判断し、何を動かすか。そこまで想定して、言葉を選ぶ必要がある。
「事実と、俺の見立てを分けて書く。事実は動かせないが、見立ては俺の責任だ。そこを混ぜると、読む者の判断を歪める」
イリアは頷いた。そして、また少し間を置いてから言った。
「見立ては、何と書きますか」
「これは内乱だ」俺は答えた。「規模はまだわからない。ただ──」
窓の外で、また煙が増えた気がした。王城のある丘の輪郭が、かすかに霞んでいる。
「終わり方が見えない種類の火だ」
イリアは何も言わなかった。それが、同意の返事だった。




