1. 警鐘
初めての投稿です。
よろしくお願いします。
サーキニア王都の市場は、昼過ぎでも人でごった返していた。
俺──ザックロード・アモスは、香辛料の屋台が並ぶ細い路地を抜け、馴染みの穀物商に立ち寄った。駐屯地への帰途に少し寄り道をする程度の、なんということもない休暇の午後だった。
「旦那、また来てくれましたか」
商人のガルフは人のよい笑顔を向けてきた。五十がらみの男で、顎に白いものが混じりはじめているが、目は若い頃の鋭さをまだ保っている。帝国の傭兵団に出入りする商人らしく、口が堅く、かつ情報が早い。俺がこの男を気に入っている理由はそのあたりにある。
「先週より麦が上がってる」
俺はサーキニア語で言った。積み上げられた麻袋を眺めながら、値段を確かめるまでもなかった。量と積み方を見れば、入荷が絞られているのはわかる。傭兵団に入ってからの三年で、現地の言葉は不自由なく扱えるようになっていた。脳内に干渉する魔法具で土台を作ってから赴任するのが、傭兵団員と外交官の習いだった。それでも、市場の細かい言い回しや、商人同士のやり取りの呼吸は、現地で身につけるしかない。
「よくお気づきで」ガルフは小声になった。「実は鉄もじわじわ上がっておりまして。問屋の話では、どこかで大量に買い付けている者がいるとか」
俺は相槌を打ちながら、胸の中で静かに数字を並べはじめた。食糧と鉄。この二つが同時に動くのは、偶然ではない。食糧は兵を養うためのもので、鉄は武器と馬具のためのものだ。
戦の匂いだった。
しかし、サーキニア王国は隣国との間に大きな火種を抱えていない。帝国との不可侵条約は生きている。ならば、この需要は──内側から来ている。
「ありがとう」
俺は礼を言い、麦を少量だけ買って路地を出た。表情は変えなかった。変える必要がなかった。驚きよりも先に、静かな確信があった。
帝国大使館は王都の北区、石畳が広くなる官庁街の一角に構えていた。帝国の建物らしく、正面の石造りは重厚で、門には傭兵団の護衛が二人立っている。俺が顔を見せると、どちらも軽く頷いた。非番中の私的な訪問だが、止める理由がないのだろう。
書記官室に通されると、イリアが書類の山に囲まれていた。
「珍しいですね。休暇の日にいらっしゃるとは」
姪は顔を上げもせずに言った。ペンを走らせながら、声だけで俺の存在を認識している。その落ち着きは本物だった。公職に就く前の八年間、冒険者として各地を渡り歩いた者の骨格がある。俺はそれが少し誇らしく、また少し可笑しかった。
「話がある」
その一言でイリアはペンを置いた。俺の声の質が変わったのを聞き取ったのだろう。顔を上げ、俺を見る目が書記官のものになった。
「お聞かせください」
俺は市場でガルフから聞いたことを、過不足なく話した。食糧の価格、鉄の動向、問屋の証言。イリアは途中で一度だけ「いつからですか」と聞いた。俺が「三週間ほど前から、じわじわと」と答えると、彼女は小さく眉を寄せた。
「大使に報告する必要があります」
「そのつもりで来た。ただ──」
俺は窓の外に目をやった。王都の空は青く澄んでいた。穏やかな午後だった。
「急いだほうがいい。俺の見立てが正しければ、時間はあまりない」
イリアが立ち上がろうとした、その時だった。
遠くで、鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ──そこで止まるはずの警鐘が、止まらなかった。四つ、五つ、六つ。王都全体に響き渡るように、金属の音が重なり合い、やがて途切れなくなった。
非常鐘だ。
俺とイリアは同時に窓に駆け寄った。北の方角、王城のある丘の上に、黒い煙が細く立ち昇りはじめていた。
「遅かったか」
声に出したつもりはなかったが、口から漏れた。
「伯父上」
イリアの声は静かだった。動揺はない。しかし、その静けさの奥に、緊張の糸が一本、ぴんと張られているのが伝わった。
「大使館の人員を集めて。護衛隊長にも連絡を」俺は即座に言った。「俺たちはここを動かない。少なくとも、もう少し状況が見えるまでは」
「承知しました」
俺は窓の外を見続けた。煙は増えていた。王城の方角から、かすかに剣戟の音が届いてくる気がした。気のせいかもしれない。王都の喧騒にかき消されているかもしれない。
だが、市場の値段はすでに三週間前から動いていた。
俺はそれを運よく知った。知ったのに、一日遅かった。
悔しさというよりも、静かな痛みだった。正しい手順を踏んでも、世界は一歩先を行くことがある。それは、これまでの経験で嫌というほど知っている。時間はある、のではなく、時間は常に動いている。
鐘は鳴り続けていた。




